生きているだけで奇跡

 先日、こんな質問が寄せられた。


 

●障がいは、奇跡で治りますか?



 その方は、障がい者の方と関わるお仕事をされているようだ。その日常の中で、常々持っていた思いなのだろう。

 重度障害や、重複障害の方などに対しては特に、そういう思いになるものなのだろう。何とかしてあげられないか、と。親であればなおさらであろう。

 筆者もかつて、作業所勤務で七年を費やしているので、気持ちは分からなくもない。でも、はっきり言いましてこれは、まったくピントはずれの思いやりなのだ。

 きついことを言えば、本当にかわいそうなのは障がいをもつ本人ではなく、彼らを憐れむ健常者、つまり我々である。



 まず、「障がい」という言葉自体罠である。

 害、という字を「がい」とひらがなにしたくらいでは、何もならない。

 要するに、五体満足な状態を「あるべき」状態として、その基準を「満たしていない」のを、ハンデ……つまり「障がい」と呼ぶわけだろう。要するに、人間本来のスペックを満たしてない欠陥部分である、ということだろう。

 でも、そんなものはない。障がい者とは、つくられた幻想としての概念である。そんな人は、一人も存在しない。

 それぞれの状態は「ただそうであるだけ」であり、その人本来の命(魂)の値打ちを損なうものではない。



 例えば、『知的障害』というものを考えてみたい。

 それは、人間エゴから生じた、バカみたいな概念である。

 知的に正常である、社会生活上必要とされる「知的能力」がある状態を標準としてその標準に満たさない、とされる状態を呼ぶ。で、健常者は次のようなバカなことを考えてしまう。



●知的障害って、かわいそうだな。

 会話も成り立たないし。

 映画やマンガ、素敵な文学作品を読んで理解できない。

 勉強もできないから、この世界で大きな挑戦もできない。

 この世界の多くの事柄を、認識できない——。



 これは、全然違う。

 ハッキリ言って、知的障害、あるいはダウン症と言われる方々は「悟っている」。覚醒とほぼ同等の境地に、最初から至っている。

 私たち健常者みたいな「思考バカ」とは違い、もともと「自然に今ここに憩える」というスペックをもつ。もちろん程度にもよるし一概には語れないが、大まかに言ってそのような傾向にあるということは言える。

 こちらは勝手に、「知的に優れているのが良いこと」という何の根拠もない理屈を盲信して「かわいそう」と思っている対象が、実は「他者に邪魔されない至福」の中にいて、頭のいい健常者よりも幸せ度においてはるかに高い、ということがあるのだ。いらぬ心配をしているこちら側は、とんだ道化である。笑い者である。

 実際に質問者さんに会ってないので、これはある程度の推測を含むが、以下に述べることは多分当たっている。



●質問者さんが心配している障がい者さんのほうが、きっと質問者さんよりも幸福度において上である。

 多分、負けてるね。それを、優れている相手の方を何とかしたいと思ってるんだから、社会で学んで身に着けてしまった「前提」「先入観」って怖いね。



 障がいは、奇跡で治りますか? と言う。

 それは、「障がいは、治さなければならない問題」だと思っているということ。つまり、本来の状態に比べて「あるべきでない状態」だと決めつけている、ということ。もっと言えば——



●まともとされている側から、そうでないと判断する相手に対し、その方が楽なので「自分たちと同じようになってくれればいいのに」という思いを抱いてしまう。

 相手を思いやっているようで、実は「健常者の都合に異質な相手を従わせたいという支配欲・優越欲」が一般人にはあるのだ。



 だから、障害が治る=素晴らしい奇跡、だという発想になる。

 でも、ちょっと待ってください。この宇宙に起こっていることは、すべて最善。起こるべきことが起こっている。

 だったら、「奇跡」というものに関して、こういうとらえ方の可能性もありませんか?



●その「障がい者」さんが、今ここにおいて息をしていて、生きている。今を生きて存在している。

 それこそが、すでに「奇跡」だと言えないでしょうか?



 質問者さんだけでなく、一般的な多くの発想は、×→○である。

(今がダメ)→(治って良くなる)

 これでは、まだ治っていない「今」を良しとできない。感謝できない。さらにそのキセキとやらが起きないと、喜べない。

 でも、私が提示した意識の在り方だとどうなるか? 今、息をして生きているだけでそもそも奇跡なんだから、現状をまず受入れありのままを感謝できる。

 だから、奇跡でも起こって治ればそれは素晴らしいけど、起こらなくてもそれもよし。だって、現状のそのままでもすでにOKできているのだから。

 この法則(考え方)は、そっくり幸せになる方法にも使える。

 私が本書内の過去記事でも述べてきた、○→◎の発想である。

(今もすでにOK)→(さらに良いことが起こる)



 だから、「障がいは奇跡で治りますか?」という質問への答えは——



●知らん。



 またはこれ。



●質問自体が成立しない。

 そもそも、治さなければならない障がいなんてない。

 百歩譲って、治した方がその方の幸せにつながると仮定しても、そうならなかったら宇宙の何かが間違っている、ということですか? 努力なり懸ける情熱なり「何かが足りなかった」ということですか?

 そんな運命を与えた宇宙は、もっと言えば神(意識)は残酷だ、というわけですか? バカバカしい。

 すべては、あるがままで最善。条件なしに感謝。

 


 治ることがない、とは言わない。実際、そういうケースもある。

 二千年前、イエス・キリストに病気を治してもらった者、障がいを治してもらった者はたくさんいる。イエスの奇跡の業により歩けない者が歩き、目の見えない者が見えるようになった。中には、死者さえ甦ったケースも。

 イエスと生きる時代が違えば、当然出会えない。でも、そんなあきらめやすい状況ではなく、イエスと同じ時代・同じ地域に生きながら、出会うことなく癒してもらえなかった人もいっぱいいたわけである。もっと言えば、癒してもらおうと希望者の列に並んでいたが、人が多すぎて結局あきらめざるを得なかった人もいただろう。

 ならばそういう人は、日頃の行いが悪かったのか? 徳を積んでこなさすぎた?

 だから、病気でも障がいでも「治ることが最善」と固定してしまえば、その基準からは必ず一定数の「不幸な人々」を生み出す。治らないのは「かわいそう」なのだから。

 でも、だからといって治るな、とかそういう可能性を試すな、と言っているわけではない。ただ、その結果がどうであっても、それそのままがOKなんだという所だけは押さえておいてほしい。



 健常者の心配は、本当に滑稽である。

 心配するあなたよりも、ずっと幸せな世界にいますよ、重い障害を持った方は。

 逆に、ヘンに頭の良いあんたらは、彼らから学ぶべきだ。彼らは、思考まみれのあなたよりどれだけ素敵な世界に憩っていることか。

 だから、障がいを持つ方本人が医療的な意味合いで「辛い」「苦しい」と言うならば心配したり尽くしたりも当然だが、彼らの方から言わない限り(重度の方はまず意思表示しないだろうが)、他のことでの心配などしないでおきなさい。(この子の人生がとか、幸せがとか)

 あなたが心配なんかしなくても、彼らは自ら幸せになるすべを心得ているから。

 あなたなんかより、もっと上手にやってのけるから。

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