照れはいらない

 誰だ、「テラ(筆者)はいらない」って言ったのは!(笑)

 今回の記事は、『照れ』はいらない、というお話。

「照れる」とは、本来「気恥ずかしい」という程度の意味だが、その裏にたいがい潜んでいるのが「自己受容の低さ」であり「自己否定感」である。

 ばったもんの「謙虚」が生み出している場合が多い。



 日本で何か贈答品のたぐいを他人様に渡す時、こんな言葉を使うことがある。

『つまらないものですが……』 

 私は思う。



●つまらないものなんか、よこすなよ。



 これはスピリチュアル的視点であるが、宇宙の主人公たるその人が「つまらない」と宣言するので、本当にその通りになる。例えつまらなくないものでも、つまらないものに変えてしまう。そういう力が、実はあなたにはある。

 すべてのモノには、名前がある。それを呪(シュ)という。

『粗品』という言い方がある。これは本当に、つまらないエネルギーに満ちたしゅ(言葉)である。

 それを考え出したのは、人間(のエゴ)である。



 本来幻想でしかないものを、幻想ゲームを遊ぶために人間側で区別して「名前」を付けている。人の名前も、モノの名前も、現象の名前、状態を表す言葉も……ただそうであるだけのものを、価値判断・分類するために名前で呼ぶ。

 田中、という名前はしゅである。そのおかげで、神でありすべてであるはずのその人が限定されて定義される。ネコ、イヌと言った途端、テレビとか椅子とか言ったとたんに、ただの原子の寄せ集めにすぎず、ミクロ単位で見れば区別する境界線などないものに、あえて「区別」「境界線」を設けるわけである。



 だから、しゅとは——



●本来何でもないものに、神の権限において意味をつけてしまうこと



 だから、本来はただのお中元かお歳暮でしかないものを。UCCコーヒーであったり花王の洗剤であったり、丸大ハムでしかないものを神であるあなたが「つまらないもの」と言ってしまうのだ。

 モノとしては、結構いいものでも、ついつい言ってしまう。結果、あなたの力で素晴らしいものを「つまらないもの」に望んでしているのだ。

 ここで、反論する気骨のある人もいるだろう。つまらないもの、ってのは枕詞みたいなもので、さして本気じゃないんだから、そこまで突っ込まなくてもいいんじゃないの? と。

 君、「結果」をバカにしちゃいけないよ。

 私が本書で言い続けてきたことを、思い出していただきたい。



●人間は、自分のしたいことしかしない。

 人間は、本気の行動以外しない。

 ホンネ以外、言わない。



 そうじゃないとあなたが思えるなら、それは森羅万象の表層しか撫でていないからだ。人の見た目しか見えていないからだ。

 皆さんは、生まれてから世間から学習してしまった「照れ」のせいで、無意識にいろいろまずいことを口にしてしまっている。先ほどの「つまらないものですが——」に始まって……



 ●「間違っているかもしれませんが」 


 

 ……そう思うんなら、言うなよ。時間もったいないから



 ●「ちょっと今の話からズレるかもしれませんが」



 ……ズレちゃいけない、っていう前提があなたの中にはあるのね。たとえズレるかもしれなくても、それでもこの場で言う価値があると思ったこそ出すんでしょ、その話を? だったら、そのままその話をしなよ。

 てか、話がズレたら怒るようなちっちゃい人間だと、わたしのこと思ってるわけ?



 ●「こんな質問で申し訳ないですが」「的外れかもしれませんが」



 …これ、筆者へのの質問コーナーで多いのよね。やめてね。

 起こることが最善。今ここであなたの心に湧いてきたことが、正解。



 ●「ちょっとお耳汚しになりますが、一曲……」



 ……汚すなよ。そんなものだったら、やるなよ。



 ●「不備な点(至らない点)はあるかもしれませんが——」



 ……あなた、できる限りやったんでしょ。もう、言いなさんなって、そういうこと。もっと、自分の選択した行動に自信と誇りを持ってください。

 もっと、「自分の子(作品)」を褒めてあげてください。我が子を自慢してやってください。でないと、かわいそうです。



 もう、ビシッと言いますよ。



●皆さん、照れが多すぎ!



 悟ってるとか悟ってないとかそんなこと関係なく、そりゃしょぼい現実になりますわ。謙虚と自己卑下は違うのだ、ということを学びなさい。

 あなたが発する呪(言葉)が、対象に命を吹き込むのだということを知りなさい。

 筆者のトーク動画などをご覧になった方、私と直接話した経験のある方はお分かりと思うが。私には、「照れ」がない。

 絶対、中途半端に自分を低めることは言わない。自信をもって、堂々と言い切る。いいものはいいと言い、そうでないものには言わない。

(もちろん、この二元性ゲーム内だけの価値観ルール。本来はすべて同価値)

 社交辞令というのは、私の辞書にはない。でも、だからと言って社会で私がうまくいってないか、といえばそうでもない。世間に合わせてうまく立ち回っているから、活躍できているのではない。



 ホンネでしか生きていないから、時々衝突や不和(表面的な)は起こることもあるが、トータルとして恵まれた環境(人間関係含め)になっている。

 おかげでホンモノ、いいものだけが私に残っていく。(もちろん、私にとってだけ、という限定的意味である。皆それぞれの世界で素晴らしくあれるから)

 私が自分に正直に生きることによって遠ざかる者は、それほど要らなかった、ってこと。今ここでのその人の役目が終わった。私の演劇の脚本上、その人の出番が終わった、というだけ。惜しくも何ともない。 



 急がずとも、よい。

 皆さんもゆっくりと、今後「照れ」を捨てるよう意識してみられてはいかがだろうか? 今から種を蒔いておけば、それは遠からず無理なく芽を出し、素敵な花を咲かせるだろう。 

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