悟後の紅茶

 最初に断わっておくが、私はキリンビバレッジのまわし者ではない。(笑)

 私は、自分以外のスピリチュアル・メッセンジャーが何を言っているのかに、特に興味はない。だって、全部分かっちゃったから。

 他のを読んでも、それは個性の違い・表現の違いでしかない。(見当違いの内容を除く)だから私は、スピリチュアル本などもう手を触れることもない。

 あとの人生、勉強はないので娯楽系の小説やマンガ・映画を楽しむだろうな。

 


 でも、時々は同業者の文章も読む。

 実は、その本文はほぼどうでもよい。私の目的は、本人の言葉よりも「コメント欄」である。皆さんが、悟り系の話題に関してどんな感想をお持ちになっているのか。どんなことを疑問に思っていらっしゃるのか——そんなものを読む方が、本文そのものよりも面白い。

 それを読む中で、私の理解に苦しむ言葉があった。

『悟後の修行』とかいう。

 そんなものが、要るとかなんとか。何じゃ、それ?

 午後の紅茶なら知ってるけど??



 もちろんまったく理解できん、というわけではない。

 私にもちゃんと思考というものがあり、大卒まで鍛えた。だから、「悟後の修行」という言葉が何を言わんとしてるかは思考で理解できる。

 でも、感覚の世界では、あり得ない。そんな世界。

 ここで、スピリチュアル界の常識をひっくり返す筆者流宇宙観をば。



●悟後の修行など、必要ない。

 てか、存在しない。



 あの~、「悟り」って何か、分かっていらっしゃいますか? って言いたくなる。

 この宇宙のすべてが、決まった意味を持たず同価値で中立だと気付く。自分がいかなる振る舞いをしていようとも、そこに善悪も価値判断も要らないと気付く。

 あるがままで、完全。最善。ずっとその感覚を維持はできなくとも、腹の底で分かった世界があるのでその視点にまた戻れる。

 もちろん、覚醒意識ではない認識からすると、覚者でも修行しているように見えるかもしれない。でもそれは、表面的な必死さや頑張り、情熱を懸けている様を見るから。で、自分たちのものの見方で判断する。

「ああ、覚醒した後も、やっぱり生きることは修行なんだな。学びの連続なんだな」



 確かに、覚醒したからって楽な人生などではない。

 頑張っているように見えるだろうし、時には勉強をしているようにすら見えるだろう。でも、それは私の感覚からすると『ただ、面白れぇからしている。宇宙の主人公としてしたいからしている』に過ぎない。

 決して、「修行というものが必要」だからではない。気付きが起こってからの私は、すべてが完全で、どんな選択をしようが失敗すらできないと知っている。だから、あとの人生どう私が生きようと、それはもう趣味の世界の話でしかなく、決して「学び続けなければ、ベストな自分を維持できない」などというくだらない恐れではない。



 思うに、悟後の修行とかいうことを言う人には「恐れ」がある。

『勝って兜の緒を締めよ』という古来のことわざがある。

 日本では時に、謙虚とか油断しないとか、努力をし続けることの大事さというものが美徳とされてきた。その歴史的積み重ねがあるので、覚者(自称もいる?)が「悟後の修行」とか言うと「そう。そうですよね! やっぱり、気付きが起こったからってもう何も学ぶことがないなんて傲慢になったら、足をすくわれますよね! やはり人間謙虚でないと!」 そう、感心されるのだ。

 えっと、足をすくわれているのはあなたのほうです。悟りを、何だと心得るのですか?

 もちろん、人として完全になることではありません。完全でなくても、その状況こそが本当の「完全」だということを知ることです。

 もちろん、ゲーム世界なので 「選択」 はできます。その選択の良し悪しで、いかにも「成功」「失敗」があるように見えます。でも、それはただの幻想です。同価値です。

 その視点で考えれば、悟後の修行をちゃんとやって、皆さんから見て立派な外ヅラを保つことによる成功も、そんなものしなくてこの人悟後の修行を怠っているな、と見られてしまう失敗もない。本人の趣味の問題であって、決して陰陽の片方の側であるべき、というのはない。



 他者から見て私が 「悟後の修行」をしているように見えても(実際私は、人間的観点からするとすっごく努力して生きてるよ! 皆さんに負けてないよ)それは、気付きから足を踏み外さぬよう、兜の緒を締めるように気を付けて努力しているのではない。恐怖がないから、ただ楽しんで情熱を注いでいるだけである。

 皆さんが言うような、「悟後の修行」的な感覚はまったくない。どう転んでも、それが最善と受け入れられる腹の括り方をしているから。



 宇宙の究極に触れて、解放されてなお悟後の修行が要ると言っているならば、その人は悟っていないか、もしくは、世間に合わせるための方便(知恵)として、確信犯的に言っているかのどっちか。

 筆者は婉曲的なのはキライなので、嫌われても本当のことを言う。

 そもそも、修行とは、何かの基準に照らし合わせて今が不十分だから、そのズレを直してあるべき位置にするためにやるんでしょ? 何かを目指すのが修行でしょ?

 そんな概念自体が、歪んでいる。そもそも、あるがままで完全。

 その上で、あとどうしようか、という楽しみ(けっして~べきではありませんよ!)があるだけ。せっかく、悟ることで「~べき」の世界から離れたのに、なんでその世界にまで「~べき」を持ち込む?



 私にとって悟後の修行とは何か。

 もはやあるべき基準などなく、自由でいいと分かったので、まるで『午後の紅茶』で一杯やりながら、ティータイムを楽しむかのごとき。やっていることが大変に見えても、汗して頑張っているように見えても、それは表面だけ。

 内面は、涼しいものである。悟ったら、あとはいつだって午後の紅茶タイム。

 


 皆さんも、「悟後の紅茶」を楽しみませんか。

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