欲しがり、期待する

 悟り系のお話の中で、覚者とそれを聞く人との間に温度差がある。



『執着を手放せ』

『期待をしない』

『求めない』



 これらのことを、文字通りの単純な内容にとらえ「欲しがらない」「欲をなくす」というような、フラットで波形のゆるい心理状態にもっていこうとする。頭の中から、欲しいという思いや欲しい物のイメージを、はたきではたくようにかき消す。

 言葉というのは不便なもので、表現の枠としては限界がある。覚者も、言葉上そう言うしかない(うまい表現が見つかりにくい)ので、そう言う。

 で、聞く方は自らの体験、学習した内容を前提に言葉を受け取る。そりゃ、たいてい額面通り(文字通り)にとらえるはずだ。だから実行するんだけど……うまくいくと思います?

 私は、うまくいくはずがないと思う。仮に「うまくいきましたよ」と言う人がいれば、そこにはウソがある。かなりの確率でその人は「自分の中のある部分に関して目をつぶって、知らないフリをしている」 。



「人間」が本来神(意識)から授かった最重要なメインスペックは——


 

●情熱



 これである。

 エアコンは、室内の空調を快適にするためにある。トースターはパンを焼くためにある。そういうふうにつくられているのだから、その目的以外のことに使おうとすると、うまくいかない体験をする。

 トースターの扉を開けっ放しにして室内を暖めるなんて効率が悪いし、最近はセーフティモードで開けっ放しを感知すると熱が消えるのもある。エアコンの熱風に食パンを当てて、パンでも焼きますか? かなり滑稽である。

 情熱というのは、その成分は「エネルギー」である。しかも豊穣なエネルギー。その使い手であるのが、本来の人間のスペックである。

 ゆえに、それらしく生きていない時、人は苦しい。疲れる。ボタンの掛け違いをした時のような、奥歯にものがはさまったかのようなすわりの悪さを覚える。

 以前の記事でも書いたが——



●人が情熱をもって生きている時、その人は楽をしている。

 人が、情熱を持てずやりたいことが見つけられないでいる時、その人は情熱をもって生きている人よりも、頑張っている。なぜなら本来のスペックに逆行することは、スペックに合った生き方をするより難しいからだ。

 だから情熱を持てないで生きる人というのは、地球という演劇の舞台で、大変演じるのが難しい役を担当してくれているのだ。ある意味、尊敬に値する。



 だから、情熱エネルギーをふんだんに用いて、今のあるがままの宇宙、そして感情を味わいに来たのだから、スペックに合った生き方をするならば「思いっきり欲しがったらいい」。大いに、期待してもらったらいい。

 それを、何だかお上品に、いい子ちゃんに「欲しがりません。求めません」なんて——



●あんた、生きてるの!?



 そう言って、頬をペチペチ叩いてみたくなる。

 何のために、この世界に来た?

 おとなしく、こじんまりと「悟りの海」の中に座り続けるためか。だったら、帰れソレントへ。帰れくうの一元性へ。

(帰ろうとエゴで思っても、帰れないんだったね。要求してゴメン)

 思いっきり欲しがれ。期待に身を焦がせ。それが、生きるってことよ。

 どんなに悟っていようが、躍動的な、ビビッドな血がたぎっていないなら死んでるようなものよ。必殺仕置人(仕事人より古い)という時代物のドラマのなかで、こういう名セリフがあるが、まさにその通り。

『魂の老いを食い止めることが生きる、ってことよ』



 小さな子どもを見習いなさい。

 彼らは、正直である。素直である。ちょっと大人としては対応に困ることがあるが、「ほしい~!」って欲求に正直でしょ。

 おもちゃ屋の前で。お菓子売り場の前で。寝転がって、テコでも動かんぞくらいの勢いでゴネている子どもを見ることがあるだろう。あれが、本来あるべき姿だ。

「大人げない」という評価は、長年月かけて人間が勝手に構築してきた幻想の価値基準だ。じゃあ、大人げあるって何? 「聞き分けがいい」って?

 非常に、つまらないエネルギー波動である。筆者は、子どもが2歳の頃にそういうモードになった時、「美しい」とまず感じたものだ。

 ああ、いいなぁ。感情エネルギーを純粋に、最大出力で出すことを許可出来ているなぁ、と感心する。

 でもさすがに長時間になってくると「美しい」から「イライラする」に変わっていく。(笑)偉そうにこのような記事を書く私ですらそうなのだから、皆さかにおいてはどれほど許容度のないことか。



 結局、この世界に、無尽蔵の情熱エネルギーを使えるスペックをもってやってきたわけだから、素直に欲しい物は欲しがれ、求めよということ。

 キリストも、言っているではないか。



●求めよ、さらば与えられん。

 尋ねよ、さらば見出さん。

 叩けよ、さらば開かれん。



 キリストは覚者である。

 なのに、ずいぶんと悟り系のメッセージと毛色が違うではないか。

「求めない」とか「欲しがらない」とかを勧めていない。

 ただここで、これを読み解くためにちょっとしたヒントが必要になる。



●全力で求め、欲しがるために条件がひとつある。

 それは、

 得れれば、大いに喜べばいい。

 ただ、うまくいかなかった場合。それも、宇宙の最善として受け入れる。腐らない。結果得れない可能性もあることを覚悟して、欲しがるのだ。



 人によっては、そんな器用なことできません! と言うかもしれない。

 得れなくてもOK、と思って全力で欲しがるなんてそんな……

 実はこれこそが自然で、皆さんの方が器用なのだ。何千年の歴史の中で、その難しい方(欲しがる、求める以上は得れないと気が済まない)に慣れ親しんでしまった。ここで過去にも紹介したある言葉が、思い出される。



●実は、幸せになるのは簡単。

 不幸になることのほうが、難しい。

 でもこの世界では、人は言う。幸せになるのは困難で、不幸になるのは簡単、と。皆、簡単なほうができなくなり、難しいほうに熟練してしまったのだ。



 何とも、皮肉な話である。

 長い歴史(この世ゲーム展開)の中で、こんな事態になっていたのだ。



「執着を手放す」とは、欲しがらないことではない。

 結果を手放す、という意味。

 得れれば、よし。得れなくても、それはそれで宇宙に最善が起こったので、またよし。そこさえ、きちんと押さえることができていれば、この世ゲームで「求めて期待する」ことを存分にやっていいのだ。

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