感謝の反対は当たり前ではない
『感謝という言葉の反対語は、当たり前』。
これは、よく聞かれる話。どこぞのスピリチュアル発信者が言い始めて、広くスピリチュアル界で引き合いに出されるようになった。
筆者も最初は、その話に対して「ふぅん」という程度で、大した感想も持たなかった。なるほどそうかなぁ?くらい。そんなこと分析しなくても幸せな次元に生きているから、取り立てて考えてもみなかった。
でも、さぁ今回はどんな記事を本書に加えようか? なんてことを思っていたら、急にこれから話す内容が降りてきた。
感謝の反対は当たり前ではない、と!
まず断わっておくが、『何が正しいか』はこの場では問題ではない。大事なのは、この世界には自由があり、無数の「在り方(考え方)」のバリエーションがあるということ。この世界には、それを楽しみ味わい、
だから「こっちが正しいんだよ! 他のに騙されるなよ!」という気持ちは、間違っても私にはない。ただ、私のワールドではこうなんだけど、どう? と紹介したいだけである。
以上、前書きでした。それでは、言いたい放題しゃべる本題に移る。
このことを論じる前に、整理しておくべきことがある。
①感謝、という言葉の前提、定義。
②当たり前、という言葉の前提、定義。
ここが皆さん、実にいい加減で、テキトーなのである。
深く考えたことないでしょ? ないまま聞くから、先ほどの「感謝の反対は当たり前」に「なるほど!」となる。それはもう無条件に、反射的に。
生まれてからこのかた、親や教師や社会から吹き込まれて出来上がった、「何となくの感覚」に全部頼り切っていて、何か聞くといちいち判断をそこに「外部発注」する。無意識の大前提に関して、再構築しようなんて気概のある人は少ない。
「いいや、正しい情報だからこそ、スッと心に入ってくるんだよ!」
そう反論する人もいるかもしれない。
でも、それならこちらも問い返そう。
●正しい情報ならスッと人の心に入ってくるのなら——
もっと人類歴史は「穏やか」だったはずじゃない?
なんで、こんなに戦争をはじめ悲惨なことが無数にあった?
仏教やキリスト教が発祥した時点で。
悟りの言葉、叡智の言葉が他者の耳に触れた時点で、解決。
だって、正しかったら人間みんなの心にスッと入って、理解するんでしょ? 身に着くんでしょ? なのに、世界は今のザマですよ?
世界史も、学べばそりゃ悲惨です。だから、「正しかったら人の心に入る」というのは暴論です。
いくらすごい感動的な言葉でも、ある原則の前には勝てません。それは——
●人は、自分の聞きたいことしか聞かない。
自分が頑張って構築した信念体系の総体を、プライドをかけて守りたいので、それらを著しく逸脱する情報は、どんなに良い言葉でもスルーする。
(意識的、無意識的を問わず)
まず、「感謝」という言葉から、取り組もう。
言うまでもないが、何かの対象(人、モノ、自然 etc)に対して「ありがとう」と思うこと。しかし、この「ありがとう」の前提が問題なのだ。
ありがとう、という気持ちが湧くケースには、深く探ると「ある前提」が隠れていたりする。それは——
●その「ありがたいこと」が、めったに起こらないものだという前提。
めったにないのに起こったので、「ああ良くぞ起こってくれた!」という感激になる。
ものすご~く聞く人のエゴにとってイヤな話をするが。
感謝の裏に、「こんなことフツーないよ! なんてラッキーなんだろう!」そんな意識があることで、あなたは「確かにそれがめったにない」という現実を創造することになる。
だって、意識が現実を生むんでしょ? だから、あなたが無抵抗に『反応』というものの奴隷と化して感謝をする時、感謝という良いことをしているようで実は「これは幸運なケースなんだ。フツーはそうでないことの方が多い」という、裏返せばそういうことになる世界を強化している場合もある、と知ってほしい。
では、ここで「筆者流・感謝の定義」を整理してみよう。
それはただ「ありがとう」という気持ちをもつことではない。
なぜありがとうなのか、までを問う。
①めったにない、そうそう起こらない中で起こったから「ありがたい」のか。
②この世界は豊穣の世界で、あなたにとって良いことが起こって「当たり前」という前提の中で、そうではあっても実際に目にすると「ありがとう」という気持ちがこみ上げてくるのか。
①のケースでの感謝が、この世界には多い。掃いて捨てるほどある。
表面的には「感謝」でも、皮肉にもそれが「欠乏ワールド」を強化している。
健康で、感謝。(周りには病気の人も多いのに)
裕福で、感謝。(周りにはもっとお金に困っている人もいるのに)
子どもに、感謝。(周りには子供が欲しくてももてない人もいるのに)
平和に感謝。(外国では戦争していて、ミサイルが飛び交っている所もあるのに)
こんな調子の感謝こそが、あなたの「裏ホンネ」を強化し、欠乏ワールドが存続されるのに一役買っている。
だから、私がする感謝は②である。
この世界は、私のためにある。もっと言うなら、私自身が創った。
だから、すべては起こるべくして起こり、私に意地悪するものは何もない。
ただ、エゴという曲者が、幻想としての個という一面的な視点から、都合の良し悪しや自分にとっての善悪をジャッジする。このことが整理できていないと、②の感謝はできない。
この世界がどんな見え方をしようと、すべては私の味方。私のもの。
このように、「悪いこと、不都合なこと、イヤなことがフツーに多いこの世の中で、キラッと輝く良いことがあって、そのコントラストがまぶしいので、際立って感謝したくなる」というのが、従来のパターンの感謝だが……
●すべてはどう見えようとも、宇宙は常に最善に動いている。
どう見えようとも、豊穣の世界以外の何者でもない。
だから、本来すべてが感謝で「当たり前」なのだけれど、今ここにおいて実際に素敵な物事を見ると、やはり感情の流れは自然なものとして抑えられないので、素直にありがとう、と思うのである。
分かるだろうか。
「すべてが感謝なのが当たり前」という前提があっても、それでもなおしたいのが 「感謝」 。
⊖ ➡ ⊕
(そういうことはそうそうない) → (これは良いことが起こった!幸運だ!)
これは、バツ。
⊕ ➡ ⊕⊕
(ただでさえ宇宙で私に起こることは最善) → (そうは言っても実際これはありがたいよな!)
だから、感謝というのは「別にしなくてもいいが、したいからあえてするもの」なのだ。
この世界は「宇宙ではたいてい思い通りにいかないことや、辛いことであふれている」という前提だから、「感謝しなさいよ」「感謝すべき」という義務が奨励されることがある。
あんた、こういう恵まれたことが起きたんだから(全員に平等にある事じゃないんだから)感謝しなさいよ! 感謝しないと、バチが当たるわよ! という論調になる。
さて。皆さん。ここで重要なキーワードが出てきたことには気づきました?
そう。『当たり前』という言葉である。
では、次の展開に行きますよ。ついてきてくださいね~
●「当たり前」は、感謝の反対語ではない。
感謝、とは双子の兄弟である。
引き離すことのできない、ソウルメイトである。
ふたつでワンセット(一人前)、という関係にある。
先ほど言いましたよね。
本当の感謝の大前提には、「この世界が豊かで、最善で当たり前」があると。
皆さんは、「当たり前」という言葉に、歴史的に引っ付いてきたイメージの方ばかり、ボケーッとして見ている。だから、深く意識してみる前に、すでに「悪いイメージ」で見てしまう。
だから、感謝(いいこと)の反対語は、当たり前(感謝の伴わない良くないイメージのもの)だ、という図式に納得してしまう。
ちが~う。
感謝と当たり前は、「仲良し」なのだ。
双子の兄弟なのだ。
昔、クリープというコーヒーに入れるミルクパウダーの宣伝で、次のようなキャッチフレーズがあった。
『クリープを入れないコーヒーなんて……』
クリープ好きな方にしてみると、コーヒーだけでは、ダメなのだ。
だからといって、クリープだけあれば、クリープ好きは幸せか?
いいや、そんなことはない。だってクリープは「コーヒーに入れるためのもの」 なんだもん! だから、コーヒーとクリープ、どっちもなくてはならない。どちらが欠けてもいけない。
ダース・ベーダーの出てこないスター・ウォーズ。
デスラーの出てこないヤマト。
岬くんの出てこない、キャプテン翼。
ぐりの出てこない、「ぐらとぐら」 。
(あとは皆さんで、好きな例えを考えてください)
だから、当たり前は感謝の反意語(反対語)どころか、かけがえのない同志なのだ。当たり前(この世界へのすべてへの受け入れ、基本となる大元の静かな感謝) が常にあるからこそ、際立ってする、大きな感情エネルギーを使ってする「感謝」が健全に行える。
当たり前、というクリープがなければ、その感謝はクリープを入れないコーヒー(かえって逆の状況を補強する感謝)になってしまう。
改めて考えてみると、「当たり前」とは、本来は感謝の欠けた状態の事ではない。
豊かで当たり前、すべての人が完全で、素敵で当たり前。すべては当たり前なんだけど、実際に体験するとホンマ素晴らしいわぁ~!
感謝と当たり前は、ワンセットでこそものすごい力を発揮する。
片方だけだからこそ、感謝は本来の機能を発揮できず、「当たり前」も悪者のイメージで見られる。
全てが最善であり感謝だという前提での「当たり前」は、今まで悪者だったイメージから脱却し、その当たり前は「宇宙への信頼」となる。
皆さん。これからの時代は、信頼に裏打ちされた「当たり前」の方をよろしく!
きっと、あなたの人生は変わるはずだ。劇的に、安定と強さが流れ込むはずだ。
当たり前、が悪いものではなくなる瞬間を、是非体験してほしい。
筆者流に「豊穣と最善を当たり前とする感謝」の反対語を挙げると——
●疑い、そして迷いという言葉になる。恐れ、と言ってもいい。
宇宙では起こるべきことが起こり、それらは最善なのであるが、「そうではないのでは?」と疑わされる。迷いが生じる。
エゴの勝手な価値判断にうまくだまされ、信じてしまうから。
こんな宇宙、最善でも何でもない。私の味方どころか、ひどいものしか与えないケチな敵だ。この世界は、生きるに値しない世界だ——。
これが、本当の意味で感謝できなくなる魂の状態だ。
この世界を、豊穣の世界でありあるがままで完全と思えなくなった時、その人物の人生ゲーム展開は辛い展開になろう。
でも、実際に起こるとしたら、それすら起こるべくして起こった。すべてを体験してコレクションする宇宙では、誰かがその役をやるのだから。
だとしたら、私はその人物に対して、厳粛な思いをもって頭を下げることだろう。
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