覚醒者に勉強は必要ない?
今回の話題は、ズバリ『覚醒者になったら、勉強は必要ないか?』である。
いろんな覚者の言うことを聞いて総合すると、おおよそ次の言葉になる。
●目覚めた瞬間に、『真理の探究』なるものが終わる。
これまで、外に自分のまだ知らない真理なるものが存在すると信じて、探し回ってきた。自分以外のところを、必死で探し回ってきた。
しかし、目覚めと同時に感覚的に「すべては、外になどなく自分の中にあった」と分かる。自分には知るべき何かが外にあり、それを知らないことには一人前ではない、と思ってきた。重要な宇宙な真理に到達していない自分は、『欠けのある自分』なのだというイメージを抱いてきた。
しかし、自分が神であり創造主であると分かる。ある覚者はその現象をこう表現している。
●探求する対象など初めからなく
探求者もいなかったことを知れば
探求は終わります。
そのような境地に至るのであるから、エゴという幻想に囚われていた時代とは同じでいられない。覚醒によって顕著に変わってしまう生きる姿勢のひとつに、「勉強に対する姿勢」がある。
これ以上無理に知る必要のあることなどない、という感覚なので、趣味や興味以外で、勉強をしなくなる。本を読まなくなる。情報を集めなくなる。
他の覚者が何と言っているか、を知らなくても全然問題ない。自分が講演をすることはあっても、他人の講演など聴いても聴かなくてもどっちでもいい。
(むしろ、聞くのが面倒)
覚者はそんな調子なので、しばしば皆さんから誤解を受ける。
誤解というか、非難と言ってもいいかな。一般人が慣れ親しんだある感覚を否定された気になるので、落ち着かなくさせられるのだ。
その常識的感覚とは——
① 『切磋琢磨』
② 『謙虚』
この二大美徳をどうでもいいと言われるので、腹が立つのだ。
人から意見されたら、それらはすべてありがたく受け止め、良く考えてみるべきだ。嫌だから避けるのではなく「そこに自分を成長させてくれる何かがあるかもしれない」という謙虚さと柔軟さで、逃げずに向き合うのだ。
そうして、人同士は磨かれていく。成長していく。それがだいたい、この一般社会ではよいこととされている、学習姿勢だ。
でも、覚醒者は悪気なく、その辺を無視する。
ちゃんと理由あってのことだが、恐れがない(あっても、極端に少ない)ので、誤解されるのではないか、自分が損をこうむるのではないかという恐れから弁解することがない。で、案の定同じ感覚を得た人間(あるいは、魂レベルの近い人間)以外に、見事に誤解されることになる。
切磋琢磨という概念は——
●自分が未熟である。
欠けのある存在である。
そのままでは不十分である。
そういう意識的自己評価(前提)の上に立つケースが多い。
自分という存在に対して、そういう認識だからこそ大事に思える。
だから、そんな自分が「マシな自分」に成長していくために、学習や苦労・経験どうしても必要と考える。そこに、好きだとか嫌いだという概念が入り込む余地は少ない。だって「やるべき」だし、そうしないと、一人前にならないのだから。
しなければ、「怠け者」になってしまう。くだらない人間になってしまう。
そんな発想が一般的である。
皆、なぜああも必死に勉強するのか?
将来、得をするため。お金や地位、名誉のため、という理由は今回無視して言うと——
●恐怖のせい。
人が必死で勉強しようとする理由は、「楽しいから、好きで」という理由以外では、ひとつだけ。自分がダメなままなのが、怖いから。
勉強でもしとかないと、この自分は値打ちがないまま。人に認められるように、ちゃんとしとかないと——。
喜び以外で勉強する理由は恐怖だから、覚者はその恐怖の正体を見破っていて振り回されないから、恐怖を動機として勉強することがなくなる。
だから、研究や読書が趣味でもない覚者ともなると、「まったく勉強しない」ということになる。そこを「切磋琢磨が要らない、とは何事だ!」と責められる。
向上心を否定されたようなことだ。向上とは、下にいる(下がある)という前提がある。だから上へ向かえる。
だって、上も下もないんだもの。覚醒者には!
そもそも、目指すべきものがない。宇宙観が違うから、ケンカになる。(覚者はとりあわないが)
私個人は、「覚醒者に勉強は必要がない」という言葉は、不十分だと思っている。
必要ないわけじゃない。無理にしなくていいと言うだけで、覚醒者が勉強などするべきでない、勉強するくらいなら覚醒してない、という話まで行っちゃえば暴論だと思う。
やはり、本を読んだり映画を見たり、他者から学ぶこともあっていい。
ここで、「必要」と「あっていい」は違う。
必要は、義務が伴う。それがなければダメだ、というニュアンスがある。
しかし「あってもいい」は、しなくてもそれでその人物の価値が貶められることはないが、しない状態よりはもっと可能性が開ける。つまり——
●マイナス(勉強しない状態) → プラス(勉強した状態)
これは、バツ。
●プラス(勉強しない状態) → プラスプラス(より情報を得た状態)
覚醒者には勉強は要らない、もう何も知る必要がないという言い方は、私は好きではない。
だって、元は神だとはいえ、肉体をもって不完全なゲームキャラとしてこの世界に来ている。神である記憶、宇宙のすべての情報(アカシック・レコード)へのアクセス権を自ら制限し、「何も知らない」かのように生きるゲームを始めた。
だから、この世界で様々な経験を通して気付きを得る、というのは「何も知らなかったところに、新たに知ったことがペタペタ自分に付け加わってくる」のではない。
●もともと知っていたものを忘れておいて、あえて思い出す経験をしている。忘れたフリ、知らないフリをしておいて「なるほど!」と納得するという幻想を、神(神意識)があえて楽しんでいる。
フリをしているとはいえ、この幻想ゲーム世界も手が込んでいて、かなりリアル。
だから、本来的にはすべて知っているとはいえ、ゲーム的にはそうでない。やはり「知らないことは知らない」のだ。
この世界に来るということは、一枚の絵を、黒く塗りつぶされたようなもの。黒い部分を全部取り除かなくとも、ある程度はがれて何の絵か確信を得ることができる。
これが「悟り」。つまり、その人物にとってはもちろんこの世界でまだまだ知らない事象や情報はいくらでもある。でも、それを知らなくても、生きることの本質をつかんでいるので(全体の絵が何を示しているのかは分かったので)、あえて残りの黒い部分を開けなくても、別に支障はない。幸せに生きるのに、何の問題もない。
でも、黒い部分を開けないよりは開けた方が、もっと楽しいかもしれない。絵が良く見えた方がいい、ということはあるかもしれない。
だから、私は覚者といえども、(そうするべきだからではなく、趣味や喜びで)この世界に興味をもち、幻想に興味をもち、探求する姿勢は大事だとも思う。
皆さん。覚者が「勉強や探求は要らない。しない」と言っても、話半分に聞いといたらいいよ。
●絶対、してるから!
喜びとワクワクでやっているから、本人はいわゆる「勉強」だと思っていない。義務でやるものを「勉強」とカテゴライズしている人が多いから、勉強じゃないって言っているだけ。
たとえば、筆者。私も、いわゆる「勉強」はしない。しないとまずい、知らないといけない情報があるとは思っていない。
だから、筆者が他人のスピリチュアルな発信を読んだり耳を傾けたりするのは、勉強するためというより「ネタ探し」のために読む。
スピリチュアル本など、出版社から献本でもされないと読まない。筆者が好きなのは、読書(スピリチュアル本ではなく、完全な娯楽小説やマンガ)、映画鑑賞。
これ、ハマっているんですよ!
人から見れば、これも勉強の一種と見えるだろう。最後に、もう一度整理しておこう。「勉強」という言葉には、二種類があることを忘れてはいけない。
●多くの人が考える勉強とは——
ダメな自分がマシな、良い自分になるための、必須の義務。
覚醒者は、これをやらないというだけ。
喜びのための、ワクワクする幻想探究。
この意味での「勉強」を、覚醒者はするのだ。
勉強とか学習という言葉自体が、時代に合わなくなってきているんだな。
勉強も、それまで結びつきにくかった「遊び」や「楽しみ」と一体となってきているんだな。恐怖から自己イメージを上げるために勉強する時代は、もう終わるんだな。そうじゃなく「ただでさえ素敵な自分が、さらに素敵になり楽しめるから教わる・探求する」わけなんだな。
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