責任は楽しく果たそう

 責任、とは何か。

 今回一般的な定義を忘れて、改めて考えてみる。

 余談だが、筆者が受験勉強で責任、という意味の英語を覚た時の話。

『responsibility』 が責任、という名詞。

『responsible』は、「責任がある」という形容詞。

 形容詞のほうを、あえて発音をカタカナで書くと、「リスポンシブー」になる。

 ここで、ヘンな暗記法を習った。



『リスパンしゃぶる(responsible)のは、に責任がある。』



 めっちゃ強引でバカらしいが、だからこそ頭に残る。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。

 さっそく、本題に移ろう。



●責任、という概念自体は創造物である。



 宇宙に、本来的にそういうものがあるわけではない。

 例えば、鬼ごっことか缶けりとか、子どもの遊びがありますね。

 10数えてから、「もーいーかい?」と聞かないといけない。

「まーだだよ」と言われているうちは、鬼はズルして目を開けてはいけない。

「もーいーよ」と言われてはじめて、探し出すことができる。

 スポーツなんかもそう。細かいルールがあって、好き嫌い関係なく守るべし、となっている。

 私が学生時代、体育の授業で一番キライだったのは、バスケットボールの「トラベリング」である。何でこんなん守らないといけないんだ~! と腹立っていた私は、トラベリングしまくって体育の授業中にひんしゅくを買っていた。

 軸足を使う「ピボット」ならいいのだとか言われても、本番になれば 「オードウイウコッチャワカラヘン」とおかしな外人状態になってしまう。



 本来、宇宙でバスケなどする義務はない。

 そこで決められたルールを守らねば、宇宙の秩序を乱す、などということはない。わざわざ好き好んでやるゲームにすぎない。そこでのルールなど、宇宙での真理でも何でもない。

 それは言わばゲームを楽しくする上で、あえて縛られるための「勝手な決まりごとたち」だ。私たちが、人間ゲーム上で「責任、責任」とうるさく言っているのは、これである。



●三次元人間キャラゲームを面白くするための、独自ルール。



 だから、バスケやっている時だけ意味がある「トラベリング」みたく、この人間ゲーム内だけで通用する理屈で、この次元の外では(この次元であっても関係者である人間以外には)何の意味もない。責任、などという概念のない世界がどこかにあってもおかしくない。



 たとえばバレーボールが面白いのは、選手が皆ルールにのっとってプレイしているからである。反則をしないように、責任を果たしているのである。

 気を付けていてさえ、一生懸命なあまりタッチネットとか、サーブの際のライン超えなどが起こる。

 例え負けそうでも、だからと言って無茶苦茶して点を取りに行かない。

 もし、形勢が悪く、相手のエースが強すぎるからと言って銃で強い敵を撃って、殺したりしますか? 勝つために何でもあり、だったらスポーツなんて見ていても面白くない。



●両者が、責任を果たして同じ条件に立って競うから、意味がある。

 だから、見ていて面白い。



 このように、責任とは「あくまでも、生きることを楽しくするためにある」のである。しかし、この世界全般・皆さんの生きざまとかを見ていると、『責任』というものがどうやら重荷のようだ。

 人生を楽しくするどころか、何か面倒くさいもの、辛いものになっている。

 責任、という言葉を聞いて、ポジティブなものよりもネガティブなものを先に連想するなら、あなたは責任というものに誤った価値を付与している。

 そして、宇宙の王たるあなたが、残念ながら責任に振り回されている。



 責任を取る、という言葉を筆者流に言い換えると、次のような言葉になる。



●スジを通そうとすること。



 もちろん、宇宙にそうしなければならない義務はない。

 ただ、「好きでスジを通したいかどうか」だけなのだ。

 なのに、皆さんは「義理、義務、犠牲」の底なし沼に陥っている。

 私は、発信するメッセージの中ででよく「~ねばならない」はいらない、と言ってきた。それは、他のスピリチュアルでも聞かれる話である。

 でも多くの場合、どこかで次に挙げるような「線引き」がある。



●ここまでは、~ねばならない、を気にしなくてもよい。

 しかし、ここの境界線からは「~ねばならない」であっても、気にするべき。

 気分が乗るとか乗らないとか関係なく、嫌でも絶対やるべき。



 ……と、どこかで限界を設ける。たとえば現実にエラいことになる、とか生活が成り立たなくなる、食えなくなる、とか。

 しかし、私は言う。どこまでも、したくなければしなければいいし、したければしたらいい。そこに、こっからはどうとかいう境界線はない。

 仕事だって、やめたらいい。親だって、やめたらいい。

 結婚だって。友人関係だって。

(注:もちろん本気なら、ということですよ。中途半端な覚悟と決意で軽々しく実行するのはオススメしません)

 


 ゲームは、ルールを守って楽しむもの。スポーツもまた、しかり。

 だとしたら、この人としての人生というゲームでも、ルールを守るから楽しい。

 そう考えると、責任とはありがたいものなのだ。

 しかし、その「本来ありがたいもの」なのだ、という意識と感謝がいつしか薄れ、人は責任という言葉の中に「重苦しいイメージ」ばかりを見るようになってしまった。



●親としての責任。

 社会人としての責任。

 一家の長としての責任。

 


 これらの言葉に、重荷しか感じませんか?

 筆者なら、「ワクワク」を感じますねぇ。

 どうやって、楽しくその責任を果たしていこうか?

 どう気持ちよく、『スジを通す』作業をしていこうか?

 何事も、発想なのだ。視点の違いだけなのだ。

 筆者のほうが、あなたより恵まれていて幸せな現象が多く起こっているからできる、とかではない。同じ現象に直面しても、悲劇ととらえる人もいれば、チャンスととらえる人もいる。その違いが、ゲーム上のスコア差を生むのだ。



 例え、現実的に責任上「どうしてもこうしなければいけない」という場合でも、ひとつ、忘れてはいけないことがある。

 どんな状況だろうが、例外なく——



●あなたが、何かを強制的に選ばされている、ということは絶対ない。

 例えそう見える選択であっても、あなたが最終的に選び取っているという事実を忘れてはいけない。

 王としてのあなたの最終決裁がない限り、その選択は起こり得ないのだから。

 強制された、仕方がなかったという日本語は究極には「あなたが最終決断権を行使して選んだはずなのに、その責任逃れをしようとして言う言葉」なのだ。



 だから、仕方なくやったとか、イヤイヤやった、という認識をしていると、それは人間キャラゲーム上のプレイのまずさとなって、悪いスコアをたたき出す。下手をすれば、ゲームオーバーにもなり得る。

 だから、私が最低限皆様にお勧めするのは、次のような生き様である。



●どんなに仕方なく取った行動でも、やった以上は自分の責任においてやったのだ、と潔く認めること。



 たったこれだけの内的作業でも、ずいぶんと人生が違ってきますよ。

 あくまでも、何か自分の外のもの(幻想)が、王であるあなたに何かを強制してくる、などということはなく、すべてあなたが(自覚はないでしょうが、すべて好きで)選び取っているのだというのがこの次元における実相なのだ、ということをお忘れなく。 

 えっ、結局「楽しく責任を果たす」方法とかコツとかは教えてくれないのか、って? そんなもん、人に聞くことじゃないし、教えてあげられることじゃない。

 自分で、模索してください。

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