私は感謝を数えない

 色々なスピリチュアルや自己啓発に触れていると、よく見受けられるのが——



●感謝を数え上げよ



 ……という教えである。

 私がキリスト教をやっていた時も、聖歌の中にこういう歌詞があった。



『数えてみよ 主の恵み』



 児童文学の名作(アニメ)「愛少女ポリアンナ物語」でも、「良かった探し(原作では、喜びの遊び)」という、身の回りにどれだけ感謝できることが見つけられるか、という行為がある。

 一般的に、このように身の回りの感謝を数え上げ、「ああ有難い」と思うことは、良いことだとされている。私も、別にそれが間違っているとか、悪いことだと言うつもりはない。むしろ、好きなら趣味でどんどんやったらいい。

 ただ今回、ちょっと皆さんに釘を刺したいのは次の点である。



●世の中でいいと言われているからって、心からやりたいわけでもないのにやみくもにやってると、足元をすくわれますよ。



 …ということである。

「ある前提」を持たないでこれをやっていると、挫折する可能性があるのだ。

 さてその前提とは? 



●宇宙で起こることは、起こるべくして起こっている。

 起こってしまった瞬間に、それは最善と化す。

 もし起こるべきでないことなら、最初から起こらない。



 覚醒した、と言われる人は(たぶん)この前提がある。

 肉体を持っているので、もちろんエゴによる価値判断は可能。覚醒者といえども、自分の都合でいい悪いを感じる能力はある。

 しかし、エゴや思考を越えた部分に、この世界を生み出している神意識 (別の切り口で言えばワンネス・全体性)への信頼があるので、その信頼の強さがエゴを凌駕する。

 もちろん、覚醒者に何か良くないことがふりかかったその同時には克服できないことが多いだろう。一定時間、恐れや不満に囚われることをゆるしてしまう時間がどうしても出てくる。

 しかし、あくまでも一定時間である。その時間性さえ越えれば、起き上がりこぼしのように「センター(中心)」 に戻ってくる。「宇宙のすべてが感謝である」という、センターの意識的立ち位置に。

 その立場に立つ私から見たら、「感謝を数え上げる」というのは逆に奇妙な行動なのだ。たとえば、あなたがいくつか感謝な項目を挙げるとする。



「自分が健康であること」

「両親が健在なこと」

「仕事があること」

「借金もないこと」

「子どもたちも皆元気で暮らしていること」

「今身近で戦争が起きていないこと」……etc.



 せいぜい、あなたが感謝できることを思いついても、たかだか十数個でしょう。

 頑張る方なら、50個くらい挙げれるかもしれない。

 でも、言わせていただくと―



●少なっ! この無限の宇宙の中であなたが感謝できることって、言葉にして100個もないの?



 ここで論点を間違わないでいただきたいのだが、私がそう言ったからといって、じゃあ感謝を千個万個挙げれればいいのか? というお話なのではない。

 この無限の事象渦巻く世界で、そしてそれらのすべてが完全な世界で、数にして感謝を数えれるという発想そのものがおかしい、と言いたいのだ。

 現代人は、子供の頃から「減点法」に慣らされている。

 テストで、100点満点中、これだけできてないからその分を引いて、70点。そんな発想に慣れているから、本来比較して測ることのできないものを、無理やり測ったり数えたりするのが得意なので、ついつい「感謝が数えられる」という錯覚に陥ってしまう。

 だから、感謝などという、対象が無限にあるから一個一個ピンセットでつまみあげてもキリがなく無駄なものを、箇条書きに挙げて感謝し尽くせるはずがない。

 


 ゆえに、感謝を数えるという行為は、筆者からしたら「じゃあ、裏を返せば感謝できることはそれだけしかないのかい?」ということ。

 じゃあ、今あなたが挙げた以外の事は、何なんだい?

 あなたを生かし、育んでくれているこの宇宙に対して「私が感謝できるのは、これとこれとこれです!(これでおしまい。それだけです)」と言うのかい?

 感謝できないことは、宇宙が意地悪であなたに押し付けている、とでも?



 だから、いちいち思考で数え上げて表現しなくても、生きているだけで感謝。存在し得ているだけで感謝。受け取るものそのまま感謝。宇宙丸ごと感謝。

 これが、私。だから、筆者はこの発信を始めるようになった時期から感謝など数え上げたことがない。

 あ、でも感謝って言葉が成り立つためには、そうでないものが必要なんだよね。ってことは、全部感謝だったらそもそも比較対照が成り立たないから「感謝」という言葉それ自体、もう要らない?



 さて、この記事の冒頭で「ある前提がないと、感謝行をやっても足元をすくわれる」と言った。

 その前提とは何か。あらためておさえておこう。それすなわち——



●あなたが挙げた「感謝できること」の内容が、ある日突然消えてしまっても、大丈夫か? 臨機応変に、それに代わるものを見出せるか?

 今はその「感謝できるなにか」が無事だからいいが、それがなくなったら感謝できることがなくなる、というならあなたは何も持たないのと同じ。

 感謝できる具体的何かが失われても心を(ある程度)平安に保つ力がなければ、今感謝できていてもすべて意味がなくなる日が来る可能性があるよ?



 例えば、あなたが「日々の健康に感謝」しているとする。

 で、ある日突然、それが失われるとする。

 大きな病気にかかるか。事故に遭うか。

「配偶者や子ども、身内の健在」が感謝だったとする。

 じゃあある日、それが失われたら?

「仕事があること」が感謝なら、失われたら?

「借金がないこと」が感謝なら、大きな過失のゆえの負債を負ってしまったら?


 

 だから。感謝するという行為をどうしても大切にしたいというなら。

 あなたにとって感謝できていたことが消えた時、動揺し「もう感謝なんてできない」という無様なことにならないように、いざ今感謝できることが消えたとしても、その状況から感謝できるものを見出せる能力は持っていた方がいいよ。

 どうしても何もないなら、個のエゴを越えてただ「自分が今生きて在り、世界もただ在ること」に平安を見出す。これが人の最終兵器であり、それができるにはある程度スピリチュアル的に耕された土壌が魂に必要である。

 それを悟りと呼んでもいい。以上が私からのささやかな忠告である。 



 もちろん、皆がそうだとは言わない。そのへんがしっかりしていて、あえて感謝を数える生き方を選択している魂もあろう。

 でも非常に多くのケースで、自分が今、現象的に平和だから感謝が数えられている。でも、それらが一気に失われた時途方に暮れるような、格好の悪いことになりかねない「感謝の実践者」が多いのではないかと見ている。



 感謝を数える、というのは、一歩間違うとこうなる。



●これこれこういうこと(根拠)があるから、感謝



 つまり、何かの感謝できる原因があって、その結果感謝の心が湧いてくる。

 だから、その原因(感謝できる状況)が取り除かれてしまったら、とたんに感謝できなくなる。

 そういう風に、あなたが宇宙の主人公(主体)として感謝しよう、というよりは、これこれこういう状況があるから感謝、という『外部依存型』の感謝になっていては、くだらない。

 この幻想世界は、諸行無常。変化から逃れられるものはない。

 だから、目に見えるものがどう移ろおうとも、それらを通り越した次元で感謝できる魂は、強いのだ。



 では、本日のまとめ。



①感謝を数え上げる、という行為自体に意味はない。

②どういう意識で感謝を数えるのか、によってその効果に天地の差が出る。

③くだらないのは、外部(根拠)依存型の感謝。~があるから感謝だ、というような。

④その感謝できることとして挙げた状況がなくなったら、もうそのことであなたは感謝できないのでは?

⑤だから、あくまでも感謝を数えたいのなら、その項目に変動があってもいい覚悟が必要。

⑥私は、気付きを得た者として、いちいち感謝を数え上げるという次元に生きていない。

⑦だって、すべてがあるべくしてあるんだもの! すべてが私のためになっている。

⑧感謝でないことを挙げるほうが難しい。

⑨無限に感謝できることがあるのだから、数える意味がない。

⑩もちろん、人間エゴは肉体にあるので、私も都合による良し悪しは認知できる。

⑪しかし、時間性と共に「私はエゴでこの状況をジャッジしている」と客観視できる。

⑫皆さんが苦しいのは、自分に都合の悪いことが起こった時にセンターに帰れないから。

⑬鉄砲玉の使いのように、クヨクヨしてどっかに行きっぱなし。



 念のためもう一度言っておくが——

 感謝するな、とか感謝を数えるな、と言っているのではない。

 数えてもいいけど、心の片隅にでもいいから、この考えを置いといてほしい。



●感謝なんて、本来数えられるものなんかではない。

 仮に、今まで感謝だったその状況が消えても、宇宙規模の視点では私が「感謝できること」が減ったわけではない。

 二元性の世界は、変化から逃れることはできない。だから、究極の視座から見ればすべて感謝なのだ。ゆえに変化とは、ただその見え方が変わっただけだ。

 何かが変わってしまったことであなたが苦しいとすれば、感謝する対象のかたちがどう変わったのか、をあなたが見抜けていないだけ。



 昔の、時代物のドラマを見ていると、ギャンブルをしているシーンがある。

 テーブルの上に伏せられて中の見えない茶碗が三つほどあって、その中のひとつに石が入っている。ギャンブルの「親」は、目にも止まらぬ見事な手さばきで、茶碗の位置を入れ替える。

 そして最後に、相手に当てさせるのだ。どの茶碗に石が入っているかを。

 ずばぬけた動体視力のある人物でないと、当てられない。そうでなければ、本当に運任せの「当てもの」になる。

 この諸行無常・万物流転の世界の中で、いつでも幸せであり、感謝に満ちあふれているためには、ここで言った「動体視力」に相当するものが必要になる。

 すなわち、状況がどう動いても、常にその本質から目をそらさない力である。

 たとえば、「演劇が成功する」という時、それはどういう状況ですか?



●悪人が悲劇を起こす話なら、それが回避されることですか?

 役者が、「こんなのダメだ! 良くないことだ!」と叫んでセリフと動きを無視し、勝手な舞台に仕立ててしまうことですか?



 違いますね。

 善役は、善役。悪役は悪役として、与えられた役割をきっちりこなし、それぞれが与えられた役を、見事に演じきる事ですよね。

 だったら、あなたのエゴにとって都合のいいことも悪いことも、全部同じなのではないでしょうか。「感謝でないこと」などないのでは?

 この世界が壮大な演劇だとしたら、起こったことはすべてOKなのだから。



 問題など一切なく人生が(世の中の営みが)進行することが成功ではなく、すべてひっくるめて、起こるべきことが起こっていることが成功であり、感謝。

 私たちは、演じながら楽しめばいいのです。場面場面を、味わえばいい。

 心配しなくても、永遠という途方もない時間の中で、いつかあなたは全ての役を体験する。今、永遠の暇つぶしの中でどの可能性をやっているか、だけが違う。

 切り取られた今しか見ないから、比較してどうして自分は……という理不尽感に負ける。いつかすべてやるんだから、順番の違いくらいでそうカリカリしなさんな。

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