働く者、食べてちょーだい!

 今現在は表立った活動はないが、筆者は過去の一時期、スピリチュアルな講演活動で全国を回っていた時期があった。

 その時に、言われることがった。金儲けしてるくせに!とか。どうせ金儲けでしょ?とか。

 私に直接言ってくるのはかなり少数だが、声に出しては言わないけれど、心の中でそんな風に思っているかもしれない人を考えれば、かなりの数にのぼるのではないかと思ったりする。

 今日の話題は、ズバリ「宗教やスピリチュアルでお金儲けをしていいのか」についてである。



 結論を先に言えば、してもいい。

 してもいいよ、という許可どころの騒ぎではない。

 どんどんやっちゃってよ!それくらいの勢いである。

 八百屋も、本屋も、自転車屋も。サービス業も、製造業も、芸能人も……人智を越えたバランスで、存在している。誰が操作するわけでもないが、増えすぎたら減り、いなさ過ぎたら誰かがやるようになっている。

 覚醒者やスピリチュアルをタネにメシを食っている人も、八百屋や会社勤めのサラリーマンのごとく——



●職業のひとつである。



 私は、そう認識している。

 もっと言えば、私は自分のことをこう考えている。



●『覚醒屋』さんである、と。



 人類歴史の長きにわたって、支配的に君臨してきたある考え方がある。

 実は、根拠もなく大見当はずれなのだが、皆が信じ込んできてしまった概念。



●聖者や宗教者、つまり人の魂や心を扱い救う人は、お金儲けをしてはいけない。

(余計に稼いではいけない)

 生きるために多少は仕方なしとしても(できれば信者の厚意による寄付だと望ましい)、大金を稼いではならない。

 ましてや、お金持ちになるなど、もってのほか。



「聖と俗」という考え方がある。

 これはもう、掟と言っていいほどの、守るべき「二分法」となった。

 聖なる領域には、俗が絡んではならない。

 両者は、きちっと棲み分けができなければならない。

 金儲けは金儲けの世界。つまり、経済世界(俗)に属する。

 一方、神を崇める・あるいは人々がそれをするのを助ける人々は「聖」に属するので、無償が理想である。

 ただ、理想ではあるが「食べていかないといけない」ので、高くはないが一定の収入(寄付金・献金)などを得ることがある。または、信者なりお世話になった者が「これをお納めください」と渡した食料なりが、聖職で生きる者の生活を支えていた大昔からの歴史がある。

 その歴史的に積み重ねられてきた「聖職者は大金を稼がず、清貧に」という意識が、人類のDNAに深く刻み込まれてきた。

 まぁ、そうは言っても人間のすることだから、表向きとは違う裏事情も沢山あったのは事実だが。ローマ教皇、などというのは、聖職のトップが堂々とカネと権力を得られたケースである。



 皆さんの、勝手な心配事のひとつ。



●人間は、カネに弱い。



 カネの力は恐ろしい。

 カネの力で、人は簡単に誇りを売る。堕落する。

 そのような実例ばかり経験的に見てきたので、人々を導くべき聖職者が、沢山のカネを手にしたら、心と魂を清く保ち、正しく聖務をまっとうするのが困難になるのでは? 思いっきり、邪魔になるのでは?邪魔どころか、それこそが聖職者の魂を毒するのでは? そういう、おせっかいな心配事による部分が大きいだろう。

 だから、老婆心から「スピリチュアルで金儲けするなよ! そのうち初心を忘れて、手段が目的になるぞ!」と警告したいのだろう。つまり、一定のメッセージを広める目的で本を出版したり講演会をしたりしていたのが、そのうち講演回数・一回の講演の収入や本の印税、お金の出入りや税金対策の方が、日常の関心事のメインになるかもよ? ということを警告したいのだろう。

 どうも、聖職者(スピリチュアルなリーダー)には、清貧であってほしいという押しつけが、一般大衆にはあるようだ。自分はどうせ、金儲けしている俗物ですよ!という無意識のひがみとともに、その裏返しで「きれいごとを言える立場の聖職者にはこうあってもらわねば、納得いかん!」 という不健全な怒りが、根底にある。



 清く貧しく、美しく。

 これを実践している聖職者は、尊敬の的となる。

 しかし、豪邸や外車を持っていたり、暮らしぶりがハイソだったりすると「あの外道め! 宗教者の風上にもおけねぇ! 地に落ちたもんだ」などと言われる。

 もしこのように言う人がいるなら、その人は過去の人生ゲームプレイ履歴の記録に縛られ、そこから「無意識の反応」を引きづりだされた「奴隷」だと言い切る。宇宙の王として、自分で判断することを放棄し、DNAに刻まれた、楽な感覚に身を任せることに甘んじているから。

 もしあなたが、そうではなく自分でよく考え、判断した結果であるというなら、笑うしかない。よく、熟考の末でそんな答えになったもんだ。



 聖と俗、と分けて考えるからおかしなことになる。



●この世界に、聖も俗もない。

 あらゆる物事の価値は、同価値である。

 言葉遊びになってしまうが、すべてが聖であり、また俗でもある。

 



 例えば、お金が「俗」というのはおかしい。

 お金に、失礼ではないか?

 お金だって、豊かさのひとつのバリエーション。

 豊かで、いいではないか。一体、どこが問題?

 そのお金の使い道によって、「聖」ととらえられる目的も達成できたりするではないか。結果もたらされる結果が「聖」なら、その過程で使われたお金も「聖」。

 さらに、エッチなこと (性的なこと) が俗、というのもおかしい。あれこそ、素敵な「聖(性)なること」ではないか! (ダジャレ言ってすみません)

 美味しいものを食べることが俗? 快楽を得ることが俗?

 逆に修行したり、瞑想したり、聖典や宗教的教えを学ぶことが聖?

 そんな考えだから、幸せになれないんです!



 だから、お金儲けは「俗」ではない。

 スピリチュアルでメシを食っている者がお金儲けをしても、何ら問題ではない。

 それとも何ですか、あんたら私を殺す気? 他に副業やって、無償でスピリチュアル発信もやれ、って? どんだけ心が狭いんですか、アンタ!

 あと、もうひとつ、歪んだ思い込みが多くの人の中にある。



●講演費は、安くしろ!

 お前の話を聞きたくても、オカネがない人は聞けない、ってのか?

 そんなのおかしい。

 そういう人には、タダにしてあげるべきだろ?

 そもそも、そういうタメになる話ってのはな、無償ですべきなんだよ!



 暴論である。

 言ってて恥ずかしくないのか? と思ってしまう。

 人情的には、オカネがない人のために安くしろ、タダにしろという言い分は分からないでもない。でも実は、これは大変な間違いなのだ。

 相手のためを思って、講演料を下げたり、タダにしてやる、というのは——



●タダにしてやるほうの無意識の認識の中で、「この人は貧乏な人。十分にお金が払えない人。稼ぐ能力がない人」という動かしがたい確固とした認定があることになる。その認識こそが、現実を強化する。



 そういうエネルギーの力によって、この先もその人はオカネのないかわいそうな人であり続ける可能性が高まる。

 親切にも、「貧乏で可哀想で、お金をまけてあげにといけない人」という目で見る皆さんのおかげで、その人はその先も貧乏を満喫できる。



 私が講演や個人セッションを受ける際の料金体制については、自分で決めたものが存在する。その料金設定の根拠に関して、理由がふたつある。



①自分に許可がおろせている。豊かであっていいと心底思えている。

②そして相手もまた、そうであると信じている。



 たとえば、仮に私の講演会のひとりの参加料を三千円としてみよう。

 私は参加者様を、「必死こいて三千円払えば、あとが心配な人」とは認識していない。それを払ってなおより後で豊かになれる、素敵な人だと思うようにしている。

 私は、そういう人を相手にしている。だからどうしても払えない人、あるいは私のやり方に納得できない人は、来なくていい。

 そういう世界で生きたらいい。またそういう者同士集まって、同意見だねと気分良くなったらいい。

 世界中のすべてのひとの心配しろ、なんて無理! そんな、できもしないことを真面目にやろうとしているから、疲れる。

 私たちは、このゲーム世界に「役」を与えられてやってきた、演劇役者。

 自分の役を演じることに忠実であればいい。てか、それ以外不可能。

 自分の魂が望むことをし、その流れの中で波動が合い引き寄せられた人間関係の中で生きるので、十分だ。



 今の私の在り方で出会えない人とは、別に今生で出会えなくても構わない。

 私に出会わない人は、出会う人の範囲の中に必要な人がいるから、別に私でなくてもいい。

 だから、私が三千円払えない人(あるいは、お金を取るのに反対の人)と出会えなくても、そこに何の問題もない。彼らも神だ。彼らにふさわしい別のドラマがある。



 私は、聖人とか聖者って迷惑なやつらだと思う。

 お金いりません。

 地位、名誉いりません。

 異性、興味ありません。

 腰を覆う布一丁あればOKです。

 あとは、神人合一の境地(神とひとつになる喜び)だけで生きていけます——。

 で、一般人がそういう人を見て、とんでもないやつ! などとは絶対思わないのが面白い。何かそういうのって一番の理想で、すごいっていう誰が決めたんだか分からない前提がある。だから、お金を稼いで結婚して、物欲名誉欲もってフツーに生きている人は、考える。



●何て、素晴らしい生き方なんだろう!

 私は、とてもああはできない。

 私のような俗物は、こうやって生きるしかない——。



 そんな感じで、聖者の生き方が最高の生き方で、私のは最善ではないという無意識の自己卑下がある。たとえば、マザー・テレサの本を読んだ人が感じることを考えてもらったらいい。素晴らしいと思うが、自分には無理(なんか申し訳ない)という。

 でもこれは、無茶苦茶おかしい。



●聖人の生き方が上等で、お金を稼ぎ普通に生きている人が俗的生き方、などということはない。どちらも、同価値。



 だから、山籠もりして一切の俗的欲望を捨てるタイプの人にお願いがある。

 こう宣言してから、あとは好きなように生きてほしい。



『皆さん。

 私は、こうして生きることを、あえて選択したのです。

 言わば、私の趣味なのです。好きでやるのです。

 だから、こうしなければならない、なんてことはないのですよ。

 ましてや、これが一番いい人としての在り方、というわけでもないのです。

 皆さんは皆さんとして、人生の主人として心の命ずるままに、望みに正直に生きてください。その結果がどうであれ、そこに優劣はありません。

 私のマネをするなとは言わない。よっぽどしたければ、止めません。同志よ、一緒にやりましょう、と言うでしょう。

 でもどうか、義務感や「これが正しいだろうから」という理由で、目指さないでください。あくまでも「自分がどうしたいのか」だけを大事にされてください』



 では、今日のまとめ。



①私が、スピリチュアルで金儲けをしているとんでもない奴、というのはおかしい。

②そう言われる原因は、歴史的に人のDNAに深く刻まれるほどに付いてしまったある思い込み。

③聖職は、お金儲けという「俗」とは別カテゴリーだというような「聖と俗」という根拠のない二分法が蔓延している。

④人は弱い。だから聖職者がお金儲けをすると、本職に差し障りが出るのでは、という恐れがある。

⑤人の魂を導く者は清貧であらねばならない、という押しつけが、多くの人々の中にある。

⑥皆さんは、そうとも知らず「無意識の反応」を引きずり出されて、反応の奴隷と化している。

⑦相手を思ってタダにする。負けてあげる。その意識こそが、いいことのようで実は問題。相手を弱くしている可能性がある。

⑧「この人はオカネのない人」という認識が、それを強化するとも知らず。

⑨私は、仕事上の料金設定をした上で、皆さんはそれを払える豊かな人と認識している。

⑩目の前の問題に対処するよりも、意識の前提を変えた方が世界を変えるのには早い。

⑪聖なる生き方に見えようが、俗的な生き方に見えようが、見え方はどうでもいい。

⑫要は選択の問題であり、すべて同価値である。



 聖とか俗とか、そういう発想をやめません?

 二分法、疲れたでしょ? 正しい・間違っているとか。善と悪、とか。

 聖人と俗人、なんてのもバカげた考え方。

 金儲けが一部人種にはゆるされない、というのも了見の狭い考え方。

 お金の豊かさも、「豊かさ」のバリエーションのひとつ。だから、お金が豊かであっても何の問題もない。

 逆に心が豊かであるのはよくて、金銭面で豊かなのはいけない(危険)なんてどんなひねくれた理屈なんだ?



 まとめの⑦に関して補足。

 相手にお金がなくて、負けてあげたりタダにしてあげたりするのがいい場合がある。それは「負けてあげる本人が、心から(喜びをもって)そうしたい場合」。

 要は、哀れみからではない、ということ。単に気前がいい、ならオッケー。

 ただ、自分がそうすることで他人にもそれを押し付ける(自分はこうしているのに、なぜあんたはこうしない?)など、宇宙の王としての相手の選択にケチをつけたり、腐したりする方向にエネルギーが向く場合、アウトとなる。

 あと、他人(偉い人)がそうしているから、皆が良いというものの枠を外れると怖いからという理由で、マジョリティーなやり方に合わせるのも、楽しくなさそうですね。



 でも、一言言わせてもらえれば、私なんてスピリチュアルがどうとかそういう概念を抜いて、日々の仕事量や質のことだけ考えても、一般の方が仕事をしているくらいの仕事量に劣らないクオリティはありますよ、これ!

 イエスも言っている。



●『働き人が報酬を得るのは、当然である。』  ルカによる福音書10章7節



 だから、筆者は自分のスピリチュアル発信活動でお金を得るのに、何の問題意識もない。だから、このシリーズのこれまでのタイトルとは違った一言を最後に。



●働く者、食べてちょーだい!



 ……特に、日々本書の記事を更新しているこの私。(笑)

 間違っちゃいけませんよ。

 多くの人間(色々な職業の方)がいるその上に、『覚醒者』が君臨しているのではない。皆さんが会社勤めをされているように、自営業でお店をやっていたりするように、『覚醒屋さん』が一定人口比率でいるだけ。

 私は、たまたま自分が向いているそれでその職業に携わっているだけ。とやかく言われる筋合いはない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る