働かざる者、食べてちょーだい! PART4
【まえがき】
このメッセージを私が発信したのが、6年以上も前です。
ゆえに、この記事内で話題にしているニュースも古い情報になります。今現在の実情とは違う部分もあると思いますが、その点はご了承の上お読みください。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
こういうニュースが、目に入ってきた。
『中高生51万人「ネット病的使用」1日5時間以上、睡眠障害も』
記事からの文章を、引用してみる。
●インターネットへの依存性が極めて高く、「病的使用」とされた中高生が8・1%に上ったことが1日、厚生労働省研究班の調査で分かった。中高生のネット依存に関する全国調査は初めて。研究班は病的使用状態にある中高生を約51万8千人と推計している。
私は、このニュースを聞いた時、そこに『楽しくない』エネルギーを感じた。
一体なぜなのかを、ヒマつぶしに綴ってみることにしたい。
例えば、本書の筆者であるこの私。
朝から晩まで毎日、ネットばかりしている。行為内容自体は、ネット依存の中高生とそう変わらない。ここで私が、そのことを次のように解釈したとしたらどうだろう?
●いいや! 私のやっているのは仕事だ(あるいは仕事につなげるための行為)。
高尚、かつ世のために人のためになることを発信している。
ああいうやつらと私を、一緒にしていただいたら困る!
そういう考えのスピリチュアル発信者やブロガー・文筆家がいたら、おおよそ「悟り」には程遠い。
私は、全然OKよ! スマホやPCに向かっている皆さん(記事が指す中高生)と私の値打ちなんて、変わらないと断言できます。
ネット依存と言われちゃうのと、そうでないのとの違いは恐らく「仕事でやっているのか、そうでないのか」というポイントだろう。
●その行為が何かの成果や実績を生んでいるかどうか。
具体的に、何かの役に立っているかどうか。
朝から晩までネットにかじりついて、眼精疲労は来るわ睡眠リズムは狂うわすることは同じなのに、片方は「そんなくだらないことばかりしてないで、勉強しなさい!」と言われる。
逆に私はというと、ネットにかじりついて発信情報を更新すればするほど、感謝される。この差は、一般常識感覚では、普通だ。
でも、私にとっては非常に違和感がある。
筆者が本書でしょっちゅう言ってきたことを思い出していただきたい。
●何かの基準を作って、そこからすべてをランク付けする行為。
これは、優劣という幻想が存在するゲーム世界では、仕方のないことである。
だから、いい悪いの価値判断自体は別にしてもいいのだが、あくまでも人間側が「それを使いこなす、主人の立場」であるべきだ。
世を見ると、その価値基準の方が王様で、人間の方がその奴隷となり振り回されている。これじゃ、何にもならない。
これまでの『働かざる者、食べてちょーだい!』シリーズでも言ってきた。
目に見えた成果や、具体的な仕事の量でその人が評価され、相応の報酬を与えられる、という等価交換のシステムはもう時代に合わなくなってきている、と。
働かざる者、食うべからず。
この考えだから、~依存症という言葉が出てくる。
●別に、いいじゃん。
こう言ってしまうと、エゴが刺激されてムッとする人が出てくる。
おっと、あなた。その気持ちは、ワクワクしないねぇ。
どうせ、意識を良く探れば「可哀想」という見下しが顔を出すはずだから。
依存症の人たちを擁護しているようで、実は彼らが「普通ではない」「依存症という、何か良くない状況にいる」という意識でもって現実を創造する手助けをしているだけ。
私は、依存症それ自体は、別にいけないとは思わない。だからと言って「みんななれなれ!」と奨励したいわけでもない。
結果として、依存症という言葉が指し示す状態にある人は、失敗してそうなったのではない。人より劣っていたから、そうなったのではない。間違った選択をしたから、そうなったのではない。
人間は、『最善の選択以外することができない』のである。
●その人は、今まで最善以外選択したことがない。
今も。そしてこれからも。
この世界はゲームなので。
しかも、分離した個々のキャラは、キャラ設定や初期設定(環境・遺伝)が全く違うので。すべての人が最善を選択しているとは言っても、我々の価値基準に照らして理想的な状況ばかり生まれないのは、当たり前だ。それが、二元性の世界というものだから。
宇宙に、善悪はない。絶対に正しい価値基準などない。
ただ、起こることが起こっている。
そうは言っても、ただひとつだけ従っていい基準がある。
それは、「感情」である。
『働かざる者、食べてちょーだい!』の記事で、何度も紹介した話。
あるブドウ園で、早朝から夕方まで働いた男がいた。
そしてもうひとり、夕方の数時間だけ働いた男がいた。
ブドウ園の主人は、この二人に全く同じ額の給料を支払った。
早朝から働いた男は、おかしいじゃないかと怒る。
でも、そこでブドウ園の主人は、どう答えたか。
「私は、何も間違ったことはしていない。
お前と朝から晩までこの額で働く、という条件で合意したはずだろ?
お前の給料を減らした、とかなら責められても仕方がない。
でも、ちゃんと約束の額は支払っている。
私は、事情があって朝から働けなかったあの者にも——
●良くしてやりたかったのだ。
自分のお金を、自分のしたいように使ったらいけないのか?
それとも何か、私があいつに良くしてやったことで、私をねたむのかい?」
ここでの大事なポイント。
ブドウ園の主人の行動原理は何か。
一般常識に基づくなら、夕方少し働いた人の給料よりは、朝早くから仕事した人の給料を高くするはず。もしくは、夕方からの人の給料を、朝早くからの人よりは安くするはず。
でも、このブドウ園の主人が従ったのは、「感情」である。「良くしてやりたかった」のである。
新時代の、我々の行動原理も、これだけでいい。実にシンプル。素直にどうしたいか、だけ。
比較対象・等価交換・成果主義というものがあればあるほど、それは足枷になりおもりになる。まるで、囚人のようだ。
宇宙には、すべての可能性を味わい尽くすために来ている。
だから、ネットにのめり込もうがタバコをスパスパ吸おうがギャンブルにハマろうが、それはそういう体験をしにきたに過ぎない。その人が演劇上の、そういう役柄なのに過ぎない。
それを、我々が勝手に「依存症」という名前を与え、良くないことと決めてしまっただけ。もちろん、この解釈しかまかりならん、と押し付けられているわけではない。意識の在りようによっては、もちろん依存症から頑張って脱却して、選択しなおすこともケースによっては可能。
だから、「依存症はダメだよ~!」っていう警鐘を鳴らす情報は、無益である。
だって、「否定」でしょ?
やめなさいな、ってことでしょ?
宇宙の王たるその人が、納得して選択しているんですよ? その人がやめたきゃ、やめたらいいし、やめたくなきゃやればいい。ダメも何も、その人は「ただ、そうであるだけ」。
依存症はダメだから、治す方向で頑張ろうね——。これ、スタンスとしてバツ。
他者が気を揉んで頑張っても、ある人の依存症がどうにもならないのは、単なる感情のもつれである。いくら相手の言うことが正論でも、その人は悪くなろうと思って自暴自棄になっているのではない。その人なりの『最善』を選択した結果が、そうなっただけである。
本人は自覚していないかもしれないが、宇宙の王なのであり、自分の人生の主人。
だから、例え正論であろうとも、お前は宇宙の王ではないと言う他者の宣言や、お前は間違った選択をしている(最善を選択しているのに!)、という他者からの指摘に、我慢がならないのだ。
間違っちゃいけない。
どんなに言い聞かせても、依存症から抜けられない人は何も悪くない。
言い聞かせるあなたのほうが、99.9%悪いのである。
この人は意固地だ。何度言っても分からない、という評価は正確ではなく、相手にしてみれば『自分は現象としてはこう見えても、自分という人生のシナリオの中で、最善を生きているんだ! 文句あるか?』という至極まっとうな魂の叫びなのである。分からず屋は、ほとんどが「相手を自分の都合の良いように何とかしよう」とする、「健全」な側だ。
筆者も、そのへんの人が趣味で読者の少ないブログをするように、活躍してない時期があった。無名ないちブロガーとして、ネットにかじりついていた。
今も昔も、情熱の上では変わらない。やっていることは、昔も今も同じ。
私にとっては、何も違いがない。しかし、成果やことの大小ばかり見る人には、違うように見えるのだろう。
失礼な話である。昔も今も、私は何も変わっていない。
何で、みんな「今」しか見ないんだろう。
例えば私のように、ネットにかじりついていて、ある時その体験が生きたということは起こり得る。
現象にだけ踊らされる人々は、その人がネット依存に見えて何も生み出していない時にはバカにし、そんなことやめなさいと言う。しかし、成功し脚光を浴びると、とたんに態度が変わる。それだけネットで調べて打ち込んできた下積みがあったんですね。何と素晴らしい!と。
エジソンをはじめとする偉人も、最初は批判されたり、おかしい奴呼ばわりされた。しかし、目に見えた実績を出した時、手のひらを返したように、誉めそやす。
ホント、笑える。
永遠、という観点から見つめなおしてみようよ。
今のこの状況は、それだけ切り取って眺めたら、理解に苦しむかもしれない。
相手が、最善を生きていないように見えるかもしれない。
でも、そのことは必要だから、宇宙に起こっている。
そのことは巡りめぐって、きっと素敵なことにつながる。
限定された、この世キャラとしての認識能力では、演算不能なだけだ。
信頼しようよ。依存症、なんてない。あがいてでも生きようとする、不器用かもしれないがひたむきなその人がいるだけである。
最善を選ぼうとするその人が、いるだけである。
だから、正しさを押し付けて水を差してはいけない。
相手の命を信じて、見守る。
そうできたら、素敵ですね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます