図太い者が得をする
これは、大学生時代のある友人の話。
仮にA君としておこう。
ある日、彼は本の活字の一部を指さして、私にこう聞いてきた。
「あのさぁ、ここの漢字何て読むか分かる?」
A君の指さしてきたある漢字の言葉は、確かに正解率の低い難しい漢字熟語だった
が、私はたまたまその答えを知っていた。かつて私もその字に本でお目にかかったことがあり、読めなくて悔しい思いをしたからだ。
悔しくて、頑張って調べたので、覚えていたのである。
「ああ、これはね、……って読むんだよ」
「へぇ~そう読むんだ! 教えてくれてサンキューな!」
目的を達したA君は、満足そうに去って行った。
さて、翌日。
大学の授業があったので、指定された教室に入った。
同じ授業をとっているA君が、すでに教室にいた。
どういうわけか、彼の周りにはたくさんの人がいた。どうも、A君が場の中心になって話しているようである。
「みんなさぁ、この漢字何て読むか分かる?」
A君に聞かれた皆は、頭をひねったが、最後には降参して——
「さぁ?いや、見たこともないなぁ。何て読むんだい?」
するとA君、エッヘンと咳払いをしてから、得意げに言った。
「これはね、……って読むんだよ」
すると、周囲から感嘆の声があがる。
「へ~っ、Aって物知りなんだなぁ!スゲー」
私が横で口をあんぐりさせていても、気まずい風はまったくない。それどころかこちらに気付いて、Vサインまでしてくる始末。
コイツは長生きするよ、と思ったものだ。
さて、皆さん。
私は今回、この話を悪い例として出したと思いますか?
いいや。その逆である。良い例として挙げたのだ。
一見、図太い神経の持ち主であるこのA君の生き方とスタンスこそ、皆さんにオススメしたいものなのである。
●一度好きになり、腑に落とし自分のものとした他者の教えは——
図々しく自分が言ったことにしてしまえ!
今日は、これが最重要点である。
この世には、数々のスピリチュアル・リーダーがいる。
彼(彼女)らは、沢山の本を出版し、ネットで発信し、講演活動もしている。
皆さんは、そういうところからスピリチュアルな知識を得、人生に生かしていることだろう。でも、それではいつまでたっても以下の状況を卒業できない。
「エックハルト・トールが言った」
「バシャールが言った」
「偉い誰それ先生が言った」
……と、クソ真面目に人生の終わりまで、自分の納得した教えに対し誰それが言ったと口にしたりはしないか? もちろん、出典を明らかにする意味で、もともとは誰それの言葉だと説明するのはいい。
でも、いつ何時でもそんな意識では——
●あなたの宇宙の中心、宇宙の主人公はあなたなのに、いつまでもその位置を幻想上の外にいる他人に与えることになる。
第一位を他者に譲り、自分はそれ以下と定義づけすることになる。
あなたがすべてを生んでいるのに、生んだものに主権を奪われている。
あなたよりも 「よく分かっている」「すごい」人が存在するという幻想に生き続ける。一生、あなたの認識の中ではその人を超えない。
覚醒前の私は、そうだった。イエス・キリストという他者が最高で、この人の言葉(聖書)に従ってこそ幸せになれると思っていた。
ある覚者と名高い先生に師事していた時には、この先生についていけば間違いない、自分の人生を高めていただけると思っていた。
もちろん、そういう側面もあるし、間違いではない。でも、いつまでもそれでは困る。いつかは小学校を卒業しなけりゃいけない。いつかは、学生から社会人にならなきゃいけない。
私は覚醒体験をしてからは、自分が神だと認識するようになった。
別に、神だから万能だとか、失敗をしないとか、完璧というわけではない。
現実評価的には、決して私は他のスピリチュアル・リーダーほどではないだろう。でも、そういう次元の話ではなく、私は神なのだ。
だって、これは私のゲーム。私が主体としてプレイしているゲームなのだから「私が最高」でいい。そのゲームの中の登場キャラのほうを必要以上に崇めたり、自分より上の位置に持ってきたりするのは、行き過ぎというものだ。
(聡明な読者には言うまでもないが、それは何も他を見下したり、くだらないと思うこととは違うし、他を敬うという気持ちを貶めるものではない。敬うことと、その対象を自分より価値があると見ることとは別物なのだ)
ぶっちゃけた話、私はエックハルト・トールをはじめ世界に名だたるスピリチュアルリーダーと同等だと思っている。あちらが上だ、という意識はない。
逆に、ホームレスであっても犯罪者であっても、仕事がなくブラブラしている人でも、彼らの方が劣っている、とは思わない。
●同等である。
私にとっては皆、肩を並べる人たちでしかない。
私は、人を「尊敬」はしない。尊敬と言うと、相手の方が自分よりも「上」であるというニュアンスを含んでいる場合が多いから。
私の場合は、「尊重」かな。
誰が何をしようと、何を言おうと同価値。それらのすべてを認めます。受け入れますというスタンス。劇において、自分以外の役の人に感謝する(その人たちあっての劇であると認める)のと同じ感覚かな。
あらゆるタイプの役の人がいて、皆が自分の役を演じきることで、この世界が成り立っている。決して、どの役が優れていてどの役が劣っているということはない。
だから、ちょっと過激にオススメしたい。
いったん腑に落としたことなら。自分の人生に本気で取り入れよう! とまで惚れ込んだ内容なら、たとえ他の偉い先生の言葉であっても、講演会や本から仕入れた知識であっても——
●自分が言っていることにしちゃえ!
手柄を横取りしちゃえ!
そんでもって、あなたが最高のメッセンジャーになっちゃえ!
人から聞いたことを、次の日には自分が昔から知っていたかのように振舞うA君のように、あなたももう誰それが言ったなんてことを、必要がない限り気にしなさんな。自分のものにしちまいなさい。
もちろん、時々は教えてくれた人物を思い出し、感謝するのはいい。でも、いつも~先生、~さん最高! なんて言っていると……
●いつまでも、神であるあなた自身の血や肉となりませんよ。
いつまでも、社会人になりきれない学生気分のままですよ。
スピリチュアル・リーダーは尊敬されるためにいるのではない。
「道」を指し示すためにいるのだ。標識に過ぎない。
その標識を崇め奉ったり、好き嫌いを論じる人がいる。
主役はあくまでも、標識を見て実際に動く「あなた」自身なのだ。
きっと、スピリチュアル・リーダーたちの言ったことをさもあなたが言ったように言う人がいても、彼らは怒らないと思いますよ。
むしろ、沢山の人が言ってくれれば、本質的な目的からすると、かえって広まってありがたいこと。それで気を悪くするスピリチュアル発信者なら、損得という幻想に負けてる勘違いさん。
もし、本書を読んで感動していただいた内容があるとするなら。「それ、いただき!」「それ、採用!」 と思っていただけた言葉があるなら——
●賢者テラとかいうやつが言っていた、なんて言わなくてもいいですよ。
あなたのオリジナル! ということにしてください。
遠慮なく!
だって、あなたは私だから。皆、繋がっているから。
悟った人悟らない人、魂の旅のすすんだ人遅い人がいるように見えるのは、時間性という幻想のある中での、順番というこれまた幻想のせいでしかないから。
偉大な誰かさんの言った言葉は、あなたが受け入れたならもうあなた自身の言葉なのです! あなたが自信をもってそれを自分の言葉にしてくれるのを、言い出し主は喜ぶはずです。
素晴らしい教えを図太く自分のものとできてこそ、パワフルなマイワールド創造主としての主権的立場を取り戻せるのです。
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