あなたは何かになれない

 もし、この世界の人々が全員好きな仕事をしたら、どうなるか?

 今日は、このことについて考えてみたい。

 ここまでの記事ですでに述べている話題も出てくるが、そこは復習ということでご容赦を。

 人によっては、「みんな好き勝手したら、収拾つかなくなるじゃん!」と恐れを抱くだろう。でも、その恐れは杞憂である。

 もし、すべての人が魂(内命性)の望むままに、心の命ずるままに動けば、すべてがうまくいくのだ。



 子どもが、よく自分の夢を語る。

「わたし、将来女優さんになりたい!」

 若者が、将来の目標を掲げる。

「オレは、社長になるぞ!」

「私は、アートの世界で食べていけるようになりたい!」



 これらの言葉には、少々補足が必要である。

 ここはしっかり認識いただきたいのだが、あなたは「女優」になろうとしているんじゃない。

 女優、という仕事をしている素敵な 『あなた』 になろうとしているのである。

 社長になろうとしているんじゃない。

 社長という地位を得て、独自のやり方で会社を切り盛りしようとする『あなた』になろうとしているのだ。

「画家」「アーティスト」になろうとしているのではない。

 画家である『あなた』、アーティストとしての『あなた』になろうとしているのである。つまり——



●あなたは、何かにはなれない。

 何かをしているあなたになるだけである。



 例えば、この世界に女優さんは無数にいる。

 みんな「女優」という定義でくくれる、寸分も違わない同一の存在ですか?

 いいえ。

 見た目も性格も、個性も十人十色。女優である前に、まず「その人」なのだ。

 だから同じ「女優」という仕事でも、アウトプットの部分で個性や違いが出るのだ。だからこそ、その同じ仕事をする人がたくさんいても、なんら困ることはない。

 皆違うのだから、需要があるのだ。

 そう考えると、職業人が売っているのは、女優なら演技・パン屋ならパン・衣料品店なら服・レストランなら料理・歌手なら歌という単純なことではなく——



●仕事を通して、その人自身を売っている。



 結局、そういうことなのだと思う。

 あなたは、何かになろうとしてはいけない。

 あなたは、あなたにしかなれない。

 あなたはあくまでもあなた自身として、あなたに合ったアウトプットの仕方で世の中に貢献するのである。(それが職業である)決して職業に就くことが最重要目的なのではなく、その職業に就く上でもっと重要なファクター(要因)である「あなた自身の内的世界がどうであるか」のほうが重要なのだ。

 


 みんなが本当に自由にするとうまくいく根拠を、ひとつのたとえ話で示そう。

 ここに10杯のお茶がある。そして、10人の人間がいる。

 ここで、おかしな感覚がどうしても働いてしまう。

 それは、長いこと人間の魂に刷り込まれ、疑うことすらしなくなったほどのものだ。つまり——



●10人にそれぞれひとつずつ、平等に分ける。



 こういう、単純すぎる平等の考え方だ。

 これは、「こうあらねばならない」という義理の発想とも、親戚関係にある。

 四角四面に、こういう型にはまった平等を実行すると、どうなるか?

 例えば、今のどが渇いていない人がいるかもしれない。でも、平等だからってんで飲みたくもないお茶を善意で押し付けられ、イヤイヤ飲むハメになる。

 一方で、ものすごくのどが渇いていて、一杯じゃ足りなくて二杯ほど飲みたい人がいるかもしれない。でもその人は、平等だからってんで一杯以上はダメ、と言われ、しぶしぶ一杯でガマンする。


 

 しかし、皆の魂の声の望む通りにしたらどうなると思いますか?



●みんなが、満足する結果になるんですよ!



 なぜなら、お茶を飲みたくない者は、飲まないですむ権利を行使できる。

 そのお茶はどこへ行くかというと、もっと「二杯以上飲みたい」という人のところに回せるのだ。その流儀で分配すると、不思議なほどうまくまとまる。 



 この理屈と同じで、皆が本当にやりたいことができれば、うまく回るのである。

 例えば、あなたが腕にケガをしたとする。

 あなたは、病院へ行こうとするだろう。

 もちろん、腕自身では分かっていてもどうにでもできない。

 しかし、そこで腕とは直接関係のない足が動く。もちろん、腕を治療してもらいに病院へ行くためだ。

 でも、当の足には何の問題もない。今、なぜ歩いているのか足自身は分からない。

 ……おれって、なんで歩いてるんだろう? でも、無性に歩かないといけない、って衝動は否定できない——

 足は、自意識上の自覚はなくても、突き動かされて結局腕のために(ひいては体全体のために)動いている結果となる。

 逆に、ある時足を怪我した。歩けないので、一日ベッドで足を休めながら、本を読んだりゲームをしたりしている。

 足を怪我していると分からない腕は、考える。何で、今日は出かけないんだろ? 理由は分からないけど、次のひとつの事だけは、何となくどこかから伝わってくる。

 ……きっと、今私がするべき一番のことは、本のページをめくりゲームのコントローラーを操作することなんだ。他のことは考えなくっていいっぽい。

 そうして、我知らずのうちに、ケガした足を助ける結果となる行為をしていることになるのだ。



 ただ、この三次元宇宙ゲームが、そう簡単じゃつまらない。

 最初からそんな風にうまく機能されたんじゃ、ゲームの醍醐味がない。

 エゴ(自我)というものをあえてゲーム要素として付加し、簡単には全体調和が出来ないようにした。

 人類がゼロから学び、時間性という幻想を利用し学びや気付きを全体として積み上げる中で、クリアを目指してきた経緯がある。



 あなたが、根拠なく何かの思いに突き動かされる時。

 どうしても、何かをしたい時。ワクワクが止まらない時。

 誰が反対しようとも、それがしたい時。それは紛れもなく、神意識(個人の魂という幻想性に送られる『内命性』というシグナル)からの指令だ。



 足であるあなたが、脳内での細かい事情など知らなくても、病院へと足が動く。

 腕であるあなたが、足の事情(ケガ)など知らなくても、結果室内で楽しめるように奉仕する。私たち人類も、言ってみればそのようなものだ。

 筆者が今こうして発信活動しているのも、本当に不思議なシナリオである。それもやはり、自意識など超えたところでの、最善のはからいがあってのことなのだろう。



 スピリチュアルにおいては、覚醒ということでも今日の内容が当てはまる。



●あなたは、『覚醒者』なるものになるのではない。

 覚醒した『あなた』になるのだ。



 先ほどの例で言えば、あなたは何かの職業人になるのではなく、その職業をするあなたになるだけ。「あなた」という魂の方が本質で、その上で何をするのかなど従属物に過ぎない。

 その従属物の方に重きを置き、自分自身の価値をそれよりも下に見たり、自分を犠牲にして何らかの職業を追い求めるなど、本末転倒である。(もちろん、心の底からそうしたかったら別である)

 


 だったら、あなたはどんな『あなた』になりますか?

 どんな風に、何をしたら『あなた』の独特な味わいが出せるでしょう?

 あなたにしか、出せない個性。モノやサービス自体以上に、他者はそこにこそお金を払っていることを意識してください。

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