揺らぎ

 筆者に、こういう質問が寄せられた。



●前回記事にされた『得たいのなら、求めないこと・手放すこと』という内容に関して、ある時パァーッと開ける感じがあって、ものすごく腑に落ちた感じがしたんです。大きな、気づきの体験だと思います。

 でも今、時間がたってみて、その時の開けた感覚が薄らいでいるんです。今では、疑いの思いすら湧いてきます。

 こんな状態ですから、あの体験はニセモノだったのでしょうか。揺らぐぐらいだから、やはり本物ではなかったのでしょうか?



 では、この質問に答えるために『揺らがないのが本当にいいことなのか』を考えてみる。また『揺らがない、という状態の継続がそもそもあり得るのか』も。



 この世界は、一元性の『ワンネス(神意識)』という究極存在が仕掛けた、二元性の壮大なゲーム世界である。私たち人間は、そのゲーム世界に遊ぶ神意識の手駒・つまりプレイキャラである。

 この世界で言葉にしてしまうと、仕掛けた首謀者「神意識」と我々プレイキャラはどうしても別物のように聞こえてしまうが、実は大元で正体は同じである。

『神意識』であるあちら(一元性)は、完全・永遠・絶対であるのに対し、こちらは陰陽という二極(正反対の対になる性質)によって規定される、不完全・有限・相対の世界である。森羅万象は常に変化し(諸行無常)、その変化の波をまぬがれるものはない。



●つまり、変化するのがフツーなのである。

 変化しない方が、異常なのである。



 それはなにも、目に見える物質的なことだけではない。

 目に見えない、精神世界においても同じである。

 刻一刻と、心の状態など変化をし続けている。

 よく、「永遠に変わらない愛」とかいう言葉を聞くことがある。

 ここで注意したいのは——



●愛そのものが、絶対に変わらずまったく同じということを指していない。

 愛自体は、状況により展開により新しい体験により変化する。

 ただ、「愛する」という大枠での方向性が変わらない、と言っているだけ。

(もちろんこの世界に絶対はないので、変わることも可能性としては存在する)



 この世界のすべては、波動である。

 波動というからには、『波』とその性質は相似形である。

 つまり、最高点から最低点までを行ったり来たり変化する。

 だから、信念や確信なんていうのも、変化する。余計に強まるという変化もあれば、上記の質問の方のように「揺らぐ」という方面での変化もある。

 では、揺らぐことはまずいことなのか? ちょっと禅問答のような表現になるが、よく聞いていただきたい。



●揺らぐ、ということが認識できるということは、一番奥底の土台は揺らいでいない、ということだ。大枠ではしっかり立っているからこそ、揺らいでいると認識することができる。

 土台自体を(その信念なり確信なりを)捨ててしまえば 、そもそも揺らぐという認識さえできない。



 人が「揺らぐ」と言う時。

 そこには必ず、何かを基準にして、そこを起点に考えて「揺らいでいる」と観察している。揺らいでいないという基準点が分からないなら、揺らいでいるという状況自体確認不可能だ。

 だから、揺らいでいると言える人は安心してよい。それは、根本的には揺らいでいない、という証拠だから。揺らがない、ということがどういうことか知っている人は「揺らいでいる」のではなく、「揺らいでいると思わされている」のだ。



 話を変えるが、揺らぐことは良くないことなのか?

 遠藤周作の小説 『沈黙』という小説作品を例に考えてみよう。

 江戸時代初期の、キリシタン弾圧が背景になっているお話だ。

 キリスト教の布教のために日本にやってきたある司祭が、捕えられてしまう。彼は棄教を迫られる。お前が信仰を捨てないなら、お前も他の仲間も殺すぞ、と。

 人を犠牲にしてでも信仰を貫くのか。それとも人を救うために自分の信仰を捨てるか? 結局彼は、信仰を捨てる(踏み絵をする)選択をする 。



 でも、彼はある境地に至る。

 踏み絵をしたことで、信仰を捨てたことになったのではない。

 私は、罪のない命を助けたかった。私も生きたかった。

 その理屈じゃない素直な願いに、私は従っただけ。

 神は、キリストは、自分も生き人も生かした私の選択を、喜んでいるはず。

 そのために神の子の顔を踏みつけにしたことなど、何とも思っていらっしゃらないはず。なぜなら、キリストは自分を踏みつけにするような人物のためにも、十字架にかかられたほどの方だから! 神が本当の意味で愛ならば、踏み絵をしたしないに関係なく、この私を愛している。

 そこをしっかりつかんでおけば、何があっても神との関係から外れることはない。

 


 命を懸けて、何かの思いを絶対に貫くことが美しいなんて、とんでもない。

 特にそれが、「貫かねばならない」だった場合に。

 心から「貫きたい!」と思い、それが喜びである場合にのみそうすればよい。

 そういう人種は、きっと苦痛や死をも厭わないだろう。後悔もないだろう。

 しかし、そこまでは思わない場合。あっさり、信仰でも信条でも変えたらよろし。捨てたらよろし。

 それは、情けないことでも敗北でもない。むしろ勝利である。 

 だって——



●信仰を貫くべき(義務・強制)、という呪縛から抜け出して、自分がホンネでしたいようにできた(人生の主権を取り戻した上での選択)のだから。



 最初の質問に戻って、今日の話を整理しよう。

 


①過去におけるあなたの神秘体験・気づきの感覚は本物です。ニセモノなんかじゃない。

②ただ、あなたという宇宙の中心が「ニセモノ」だと思いたいなら、望み通りニセモノになります。

③揺らぐこと自体に、何の問題もありません。むしろ揺らぐことは義務であり、この世の楽しみ方のひとつです。

④二元性の世界に遊ぶ以上、変化やゆらぎをまぬがれ得るものはありません。

⑤まぬがれ得ないのに、まぬがれようとするところに苦しみが生まれます。

⑥つまり、信仰や思想・信条の上で揺らがないことを目指すのは、バカバカしいことです。

⑦目指すのではなく、フタを開けてみたら結果として揺らいでなかったというのが自然です。

⑧揺らぐという表現自体、土台はしっかりしているという前提で成り立つ話です。心配ありません。

⑨むしろ、陰陽の波の中に身を預け、ゆったり漂うくらいの心の余裕があればいいと思います。

⑩どんなに揺らいだところで、すべては『お釈迦様の手のひらの上』でのこと。大丈夫です。

⑪神という存在がいたとして、あなたが幸せを犠牲にして神である自分の顔を立ててくれても、喜びません。

⑫それどころか、あなたが自分のしたい選択ができるなら、そのことを喜ぶでしょう。



 揺らぐことを、楽しんでください。

 揺らいだら私の確信はウソではないか、というバカバカしい完璧主義を捨ててください。揺らぐのが仕事のような世界に来ているのですから。

 揺らいでる、って言えることはまだ余裕があるのです。根本で揺らいでなければ言えないセリフだから。

 揺らいでいる、なんて言えませんよ。あなたがその確信を捨てちゃってたら。逆に「自分は揺らいでいない」と変に自信がある時こそ、要注意です。

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