判断基準はどこにある

『灯台下暗し』ということわざがある。

 ことわざ辞典で意味をひいてみると——



●「灯台」とは油の入った皿に芯を浸して火をともす燭台のことで、燭台は周囲を明るく照らすが、その真下は影になっていて暗いことから。

 ここでいう 「灯台」 は、港や岬に立っている航路標識のことではない。

 人は身近なことには案外気がつかないものだというたとえ。他人のことはよく知っているが、 自分のことになると、よく分からないという意味もある。



 筆者は、このことわざで言う「灯台」って、海でクルクル光が回っているあの灯台だと思ってた! 学生時代、ずっと……

 いい大人になってから、知りました。

 で、このことわざ通りのことが起きやすい時って、どんな時?

 それは……



●他者を批判する時。

 


 面白いことに、本書を公開していると色んな感想・コメントをいただく。



「あなたは、間違っています」

「最初は、この人分かってると思って応援してましたが、昨日の記事でがっかりです」

「やっぱりあなたは、ニセモノ覚者だと分かりました」


 

 さて。

 何かの対象に対して、「正しい」「間違っている」「良い」「悪い」を判断する時。必ず、何らかの『判断基準』なるものが存在する。

 君背が高いね、低いねと言う時。その判断の分かれ目になる平均的基準があって初めてそう言える。

 イケメンや美女という言葉を使う時も、やはり世間一般的な基準がそこにはある。でないと、ミス〇〇コンテストやイケメンコンテストで、審査など不可能である。

 ということは、私のことをどうやこうや言う方の中にも、何かの基準があって言っていることになる。そこで、今日の記事で私が皆さんにお伝えしたいのは——



●その基準が、いかに脆弱なものであるか



 ……ということに、気付いていただきたいのである。

 ここで、灯台下暗し、ということわざが生きてくるのである。

『神との対話』というシリーズもののスピリチュアル本の中でも、一貫して言われていることであるが——



●この世界(宇宙)をすべて貫いて「正しい」「間違っている」と言えることなどない。その人独自のの立場、信条、考え方に立脚して「正しい」「間違っている」があるだけである。



 究極には、「正しいのだからすべての人に押し付けても問題ない」真理などない。

 ゆえに、こういうことが言える。



●正しい・間違っているのやりあいは、お遊びの域を出られない。



 存在しない、架空の概念(正しい・間違っている)をもてあそぶことは、ニセモノで遊んで満足する「おままごと」と同じである。

 私の記事を読んで、「がっかりです」「おかしい」と思えるのは、それはその人独自の判断基準が言わせることである。

 私は、ある意味批判者を尊敬する。だって、そんなことが言えるなんて、すごいもの。私なら自分が絶対正しい、と思えない限り恥ずかしくて言えませんもの!

 あなた、どんだけすごいん?って思う。



●あんたは、神か??



 ……ってか、確かに『神』なんだけどね。(笑)

 もちろん、この宇宙は本当に自由なところなので、心から相手を批判したいんだったら、しても何ら問題ない。でも私が見てきた多くの場合、批判者の文字から感じるエネルギーからすると——



●楽しそうじゃない。

 幸せそうじゃない。



 そんな風に感じる。

 ほとんどの人が、自分の立場を明らかにしないで、言い捨てていく。

 その人のブログなりSNSなりのリンクがはってあるとか、ホントまれである。要は、「私は自分の意見に自信があるから、反論あるならかかってこいや~! 相手したるでぇ」くらいの気合いのある人物はいない。

 本当にまれなケースで、コメ主の発信媒体にリンクできるようになっていることもあり、飛んで行ってそちらを拝見させていただくと——

 本当に、読者も少なく細々とやっているブログである。記事も、四角四面なことが書いてあって全然楽しくない。

 ……あの、そっちのほうが私よりも的を射ていること言ってるんだったら、私より影響力があってもいいんじゃ?

 ここで、私と彼らとの差を指摘してみよう。



●私は、楽しむこと、好きなことを書くことにフォーカスしている。

 批判者の多くは、「正しいこと」を書くことにフォーカスしている。また、自分を少しでも否定していると感じる(被害妄想に過ぎない)ものは必死に攻撃して、視界からなくそうとする。

 本人は、批判対象より精神性において上な風をよそおってものを言ってくるが、その実はじつにいらだたしい、不安定な感情があることを必死で隠している。



 もう、正誤を見極め、正しいものを選ぶことで得をしよう、間違ったものに引っかからないことで損を回避しよう、という時代ではなくなった。

 時代はもう、「楽しいか、ワクワクするか」がテーマになった。

 今この瞬間において、何らかのモノサシで世界を斬りまくっていたら、時代に取り残される『一発屋芸人』のようなことになりますよ。 



 筆者も、皆さんにしたら言いたいことを好き放題言っている感じはあるだろうが、ひとつのエチケットは絶対に守っている。それは——



●わざわざよそさまのところへ言って、批判的なコメントはしない。



 自分のテリトリーでは、好きに言い放題。

 嫌なら、ここに見に来なきゃいいのである。見に来なきゃいいのに、わざわざ見に来て色々言うのは、Mっ気があるとしか思えない。

 私は、一貫して「宇宙のすべてのことは同価値」だと言っている。だから何を見ても聞いても、問題ではないと思っている。だって、宇宙が認めたからそれは存在できるのだから。

 起こるべきでないことなら、起こらない。存在するべきでないものなら、存在し得ない。

 私は、何かが(あるいは無形の思想や概念が)ただ存在するというだけで、そこに敬意を払う。だから、あえて出かけて行って、自分と違う立場のものを何とかしよう、とは思わない。

 ただ、自分の自由にしていい範囲 (ブログや本書・Youtubeでの動画配信)では、好きなように言う。



 私は、ショッカーのように世界征服を目指していない。(自分の考えが正しく、世界中の人に広まることなど期待してない)

 批判者にいちいち構うのは、歪んだ完璧主義である。まるでその人に、すべての人を納得させる義務があるかのようだ。

 もちろん、批判の中にも心にピンとくるものがあって、気付きを得れるようなものもある。そういうものに対して心から「謙虚に考え直してみたい」という思いが批判された側に湧くなら、批判もよいことだ。

 でも、だいたいが「相手を思うがゆえのまっとうな批判」ではなく、相手を攻撃して撃破し、貶めて留飲を下げるためだけの「批判のための批判」である。いい大人が、訳せば「お前の母ちゃんでべそ」程度の言葉を、立派な言葉を駆使して言っているだけ。

 まぁ、批判というものの性質上、だいたいがそうなるのは仕方のない部分ではある。ちゃんと批判する、というのは実はかなり難易度の高いことなのだ。

 私はただ、波動の合う仲間と面白おかしくできれば、それでいい。批判者のあなたにわざわざ好いてもらわなくても、仲間になってもらえなくても何も問題はない。 

 こっちはこっちで楽しくやれてますので、どうぞお構いなく。



 あなたは、あなたなりの幸せを求めて、幸せになってください。

 私も、私の道で、幸せになります。

 今はあなたとは交わらなくとも、遠い未来のいつの日にか、帰還したワンネスで逢いましょう。(逢うという認識は持てないだろうけど!)

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