信頼と恐れ


 児童文学の名作、ポリアンナ物語という小説に次のようなたとえ話が載っている。



●ある息子に、母が「暖炉で使う薪(まき)が倉庫に残り少ないから、いっぱいにしておきなさい」と命じた。

 しかし、息子は言いつけを守らなかった。

 後で父親が来て、言った。

「お前ならきっと、薪をいっぱいにしておいてくれるな?」

 その後、倉庫は薪でいっぱいになっていた。

 もし、父親が 「母さんから聞いたが、あれはいかんな。言いつけられたことはちゃんと守らないと。今からでもいいから、きちんとやってきなさい」と息子に言っていたら、どうなっていただろうか?

 きっと、倉庫は薪でいっぱいにならなかっただろう。

 つまりここで父親は、「お前なら、薪をいっぱいにしておいてくれると信じているよ」という信頼の姿勢を見せた。それを感じたからこそ、息子は重い腰を上げる気になったのだ。

 人が常に必要としているのは、信頼と励ましである。



 皆さんに、こういう経験はないだろうか。

 子どものころ、親から言われる前に頑張って宿題を済ませた。

 済ませた喜びも、親からの次の一言で台無しになる。

「あんた、宿題はちゃんとやったの? いつも遅かったり忘れたりするんだから、早めになさい!」

 思わず、カッとなって言い返してしまう。

「うるさい! もうやったよ!」

 もうきちんとやっていることを「やっていない」と思われて注意されると、気分の悪いものである。それはなぜか?

 


●相手が自分を心から信頼してくれていない



 ……ということを、感じてしまうからだ。



 人は、信頼されていると感じると、それに応えたくなるものである。

 しかし信頼されていないと感じると、その疑いの通りに振舞おうとする。

 たとえ、それが自分に不利になることであっても。

 自分に降りかかる不利益を承知でそうさせるほどのエネルギーが生まれる。



 この世界には、法律がある。

 犯罪を犯した時に適用される、刑法がある。

 なぜ、そんなものがあるのか。

 人を信頼していないからである。

 そういうものでもないと、人は無茶苦茶する、と考えているからである。



●お前ら、こういう法律でもないとずるいことするやろ?

 怖い罰則でもないと、悪いことするやろ? 



 そういうメッセージをぷんぷん発しているのである。

 国が、国を作る国民がそれを発信しているので、その波動を受け取った心に傷のある者が立ち上がるのだ。負のエネルギーに突き動かされて。

「だったら、お前らの望むようにしてやろうじゃねぇか!」

 罰則を強化しても、法律を整備しても、犯罪が減らなかったり世の中がうまく回らないのは、逆説的だが法律や刑法があるからである。本来、犯罪やトラブルを抑止するためにある法律や刑法の存在自体が元凶だったとは、皮肉な話である。

 誤解のないように言っておくが、法律はすべて要らない、というわけではない。この世の中が組織として、システムとして回っていくための決まり事は必要だ。

 ただ、世の中自体や人に対して、信頼を置いておらず恐怖から防御してしまう内容に関してだけ、要らないと言っている。刑法に関しては、本来一切要らない。

 ただ、我々はかなりスリルのあるリアル実体ゲームをしているので、防御したくなるのはやむなしだが。ゆえに、この記事で私が言っているのは悟り視点からの「理想」でしかなく、現実的ではないので気にしなくてもいい。



 今の段階で、私のこの言葉をすべての人が歓迎しないことは、分かっている。

 喜んでくれる人は、喜んでくれるだろう。

 世に罰則が要らないとか、腹の立つ人が出ることは避けられない。

 なぜならこれは、学びの究極な到達点だからである。

 学校で言えば、これが理解できれば義務教育修了。

 この境地に到達すれば、三次元ゲームクリア。



 ゲームをクリアしたら、もう敵も出てこないし課題もないが、踏破したそのワールドを、自由にゆったり見物したりできるモードを楽しめるゲームがある。

 ミッションクリア後の世界は、ちょうど、そんな感じ。

 この三次元ゲームは、何千年もかかってまだ全体としてクリアできないほどの、手の込んだ壮大なゲームである。ましてや、ラスボスとも言えるこの「すべての命を信頼する」という課題は、そうやすやすとは越えさせてくれない。

 だから、今しばらくこの意見は攻撃に遭うかもしれない。

 地に足のついていない、超理想論として。



 ……実際に脅威はあるじゃないか。それを罰するなと?  信頼しろだと?

 そんなこと言っていたら、こっちがやられてしまうぞ!

 先手必勝。やられる前にやれ。

 間違いを犯した人間は、また間違いを犯すかもしれない。

 徹底して、償わせるのだ。そして、犯罪の芽を未然に摘んでおくのだ。

 悪を絶対にゆるすな。甘い顔を見せたりなんかしたら、たちどころにつけ込まれてしまうぞ——。



『意識が現実をつくる』という言葉は、スピリチュアルではよく聞かれる言葉である。それは、ある程度までそのとおり。

 だとしたら、ひとつこういう話はどうだろう。



 都会では、家にカギをかけるのは常識中の常識。

 なぜなら、犯罪者が鵜の目鷹の目で、泥棒に入りやすい家を狙っているからである。カギをかけないなんて、とんでもない。

 一方、かなり田舎な場所では未だに、家にカギをかけない土地柄な場所も残っている。それはなぜ?

 泥棒なんて入らないからである。正確には、そこに住む者がカギなんていらない、とムリなく自然に思えているからである。つまり——



●都会では、そこに住む人間が集合意識的に「カギをかけないと、泥棒に入られる」 と恐れている。だから、ある程度その期待通りの現実が起こっている。

 田舎では、そこに住む人間が集合意識的に「カギなんかいらない(もしくはその発想自体がない)」と普通に考えている。だから、その認識がある程度反映した現実がそこにある。



 多くの人は、逆に考えている。

 カギをかけないと泥棒に入られる、という現実があるから、カギをかけるのだ、と。そうではない。

 あなたが恐れて防御しようとするから、期待通り泥棒さんが来るのだ。

 だって、もったいないでしょ? あなたが頑張って防御するのだから、折角だから泥棒さんにトライしていただかないと。

 田舎には泥棒が入らない、という現実があるから、皆カギをかけないのではない。泥棒なんか入らない、という信頼があるから、大枠でそういう現実になっている。



 強い集団意識は、守られてそれ独自のワールドを作る。

 違う波動のものとは、交わらずに共存できる。

 だから、カギをかけないとやっていけない都会と、カギをかけなくても問題のない田舎が同じ日本に共存できる。

 例えば、私はこういう話を聞いたことがない。


 

●ニュースです。

 田舎はカギをかけない、ということに目を付けた犯罪グループが、田舎の各地で暗躍し甚大な被害を与えている模様。今後は、田舎も都会並にしっかりカギをかけるような世の中にシフトしていくのではないか、と社会学の権威、〇〇教授は述べています!



 人が意識するもの、フォーカスするものが個人としても、集団としても守られるというひとつの例である。



 結果として、言えること。

 人は、自分が意識していることと同じものを、周囲の世界にも見ることになる。

 あなたが世界を信じなければ、世界から不信で返される。

 信じれば、信頼で返される。

 もちろん、この世界は壮大なゲームであって、そう単純ではない。一人一人はこれまでのゲーム展開、自分のキャラ設定、総合スコアを背負っている。

 今、あなたが(自分なりに)意識を変えたからと言って、魔法のように目の前の世界が変わるという風にはいかない。でも、短気を起こさず、信じることだ。目の前の現実の見た目に、惑わされないことだ。

 人を信じられない時。多くの場合、その人の『したこと』しか見えていない。その相手の「魂」「命」まで見通せていない。だから、恐れが生じる。

 その恐れが、社会的には法律や刑法、警察という形で現れてきた。

 でも、今から少しずつでもいいから、変えていけばいい。時間は十分ある。



 今すぐ、家にカギをかけるのをやめろ、と言っているのではない。

 今すぐ、法律をなくせ、警察は解体せよと言っているのではない。

 私がこれまで言ってきたように、宇宙において否定するべきものは何もない。

 起きるべきことが起きている。その意味では、現状に何の問題もない。

 けれど、私たちがゲームをしている、という事実は無視できない。これまで世界が積み上げてきたものを無視はできない。

 すべてはあるがままでOK、というのは真実だが、ゲームである以上は一定のクリア条件を目指してはいるわけである。ゲーム上の障害(シューティングゲームで言えば敵機、マリオで言えばクリボーやクッパになる)をよけなければならない。

 だから、今のゲーム状況としてこういう世界であることを認め受け止め、生きる上で必要なことはする。その上で、でもやっぱり宇宙も人も信頼に足る存在だよね、なぜならもともとはワンネスなんだから、と意識し続ける。

 その時間性の果てに、世界は変容を遂げていくだろう。

 


●いつかは、カギなど必要ない世界に。

 いつかは、他者を世界を、心から信じられる世界に。



 本当に自由にすると、人は本来の自分を取り戻す。

 本当に自由にすると、人はかえって魂が真に望むことしかしない。

 信じられず掟で縛ると、人は本来の自分を見失う。

 信じず疑うと、人はかえって魂が本当は望んでいないことでも、してしまう。

 武田鉄也の歌『贈る言葉』の歌詞にも、こうあるではないか。



『信じられぬと嘆くよりも

 人を信じて傷付くほうがいい』

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