守ること・攻撃すること
スピリチュアルの世界では有名なエックハルト・トールの『ニュー・アース』という本の中に、こんな話が載っている。
「光は音より早い」ということを、あなたが知っているとする。
でも、誰かがそれを知らないで、悪気なく逆のことを言ったとする。
するとあなたは、相手にどう対応するだろうか?
ここには、2つのケースが考えられる。
ひとつは、「光は音より早いのであって、決して逆ではない」という客観的(であろう)事実を淡々と述べるにとどまり、そこに感情の波の揺れが起こらないケース。
これは、「光が音より早い、という事実を否定された」ということと、「あなたが否定された」ということを混同、同一視していない。
よって、何も腹が立たない。
2つ目は、「君はとんでもなく間違っているよ! これは紛れもない真実なんだ。それとも何かい、君は僕がウソを言っているとでも思っているのかい?」と、ムッとするケース。
ここでは、「光は音より早い」という真実が、エゴに利用されている。真実が、自分と同一視されている。
つまり、真実を否定された=言った自分が否定された、というふうな『すり替え』が起こるのだ。
例えばこれは、芸能人や尊敬する人物、もっと言えば宗教の教祖に関しても起こり得る。
「この偉大な先生を認めないなんて、ゆるせない!」
「嵐で一番カッコイイのがニノくんじゃないなんて言う子、信じられない!」
「●●●先生のお伝えになるお言葉こそ真理だ! 間違っているなんて言うと、地獄に落ちるぞ!」
こんな感じで、一見何か価値あるものの正当性を、必死に守ろうとしているように見える。時としていいことのように見えてしまうから、始末が悪い。
聡明な皆さんはもうお気づきだと思うが、これは
●自分を守っている。
その人は気付いていないが、この段階ではすでに真理や他者を守ってなんかいない。エックハルト・トールも皮肉たっぷりに、こう書いている。
『エゴはすべてを個人的に受け止める。
そこで防衛感情や怒りまでもが生じる。
あなたは真実を防衛しようとしているのだろうか?
そうではない。
いずれにしろ、真実には防衛の必要はない。
光も音も、あなたや誰かがどう考えようと関知しない。
あなたは自分自身を、いや自分自身という幻想、心が創り出した自分の代替物を防衛しようとしている』
上記のようなドラマは、日常茶飯事に、掃いて捨てるほどある。
誰もが、身に覚えがあったりするだろう。なぜ、このからくりが見破られず逃げおおせ、人がまんまとエゴの罠に陥りやすいのか?
それは、人類にとってひとつの考え慣れた思考パターンがあるからである。
●この世界に、間違いというものが存在する。
(裏返せば、私は正しいことが何かを知っている)
だから、間違いは正されなければならない。
でないと、その間違いを信じてひどい目に遭う人が出てくるから。
私は、そういう悲劇を未然に防ぐために間違っている人を攻撃する。
そしてそれは意地悪ではない。正義である。見た目はきれいではないかもしれないが、それでも私は正しいことをしているのだ!
戦争が正当化されるのは、「こちらが正しいから」「~を守るために必要だ」という理由だ。
「相手が間違っている」「相手がひどいことをする前に叩いて、被害を最小限にする」。そんな言い方もあるだろう。
この世界には、何が正しいか(真実か) 、そうでないかを鑑定するのに血眼になっている人種がいる。TV番組で、何かを批判するコメンテーターであったり、相手勢力をあわよくば責めようとする政治家であったり、気に入らない有名人のブログを炎上させようとする人たちであったりする。
相手を正してやらないと、間違っていると気付かせてあげないと! こんなやつの言うことを真に受けて傷付いたり損をしたりする人が出るのは、阻止せねば!
そういう美名のもとに、人は何かを攻撃できる。その時には、人の心は大して痛まない。なぜなら、『大義名分』『自分は正しい』という麻酔がかかっているから、何も感じない。
私も、執筆する上で人の顔色は気にせず色々なことを書くため、上記のような人にも出会う。ご苦労さんなことだ、と思う。
あと、言われている私より言ってる本人のほうがダメージが大きいだろうなぁ、と思う。私は、すべてが中立に見えるから。善悪はないし、宇宙には常に最善が起こっている、と知っているから。
でも、少なくともこういう方々はそういう境地には達していないはずだ。だって、わざわざ言ってくるんだもん。だから、相手の心は平安ではいられないはずである。
ここは注意しなければならないが——
●正しいから、攻撃がゆるされる。
何かを守るためなら、攻撃もやむを得ない。
これは、完全な認識違いである。
新時代の常識にならえば、次のようになる。
●すべての攻撃は、的外れである。
攻撃に、正しいも間違っているもない。
攻撃は攻撃である。
そして攻撃とは、弱さである。
例外はない。
攻撃するほう、先に手を出す方は、弱いんだと思っていただいて間違いない。厳しいようだが、その相手の先制攻撃に対し反撃していたら、同レベルに成り下がる。
ただ、この学びはまだまだ人類には難しいようだ。小学生に、高校生の教科書を理解しろと言うようなものだ。
戦争を仕掛けられ、祖国が破壊されそうになったら、戦わないだろうか?
家族が、愛する人が悪人の手でひどい目にあわされようとしていたら、戦わないだろうか? 黙って、見てますか?
かつてガンジーという人物が、徹底した『非暴力』を貫き、その姿は世界を感動させた。しかし、あれは幼い人類には学びが高度すぎた。
実際に、あれを取り入れ貫ける人は少ないだろう。多くのケースで、こう考えられてしまう。
「すごいとは思うし、正しいとは思うけど、実際問題そんなふうに生きていたら食い物(カモ)にされてしまう。美しいけれど、あまり現実的ではないな」
実は逆で、これは思いっきり現実的に役に立つ。
意識が現実を作る。だから——
●この世界は、攻撃されうる世界。
だから、守らねば。武器を持たねば!
こういう意識が、実は投影している世界に『先制攻撃』をしている。
あなたがそういう意識だから、お望み通りの世界が出現する。
●この世界は、幻想である。
その幻想を生み出している究極は、完全。
だから、本来は善悪もなく、問題すらない。
宇宙のすべては私でありまた味方だから、私は何からも守られる必要などない。
他の誰がどうかとか、実際世界がどうだというのはとりあえず放っておいてください。まずは、あなたの意識が変化することです。
奇跡のコースという教えでも、『無防備こそ力』だと言い切っている。そうすると、あなたは『期待通りの』世界を外に見ることになります。
もちろん、三次元物理世界に生きているので、魔法やインスタントラーメンのように一瞬ではできません。時間性、というものの制約を受けていますから。
また、背伸びして無理をするのもよくありません。ここに書いたことはあくまで「理想形」であり、それが困難だからこそのこの世ゲームなのです。
簡単にそこがクリアしてしまえるなら、そんなちゃちなゲーム最初から要りません。
私は少し前の記事で、こう言った。
「危険な目に遭ったら、スピリチュアルどうのなど忘れて反撃してください」
それは、絶対正しいという意味では言っていない。一番いいのは、反撃しないことである。(注:心からそうできる場合のみ。耐えたり、気が進まないが頑張るのは効果なし)
ただ、今のその人に合った学びというものがある。
ムリはいけない。
先ほど言ったように、多くの人にとって完全な攻撃放棄は、小学生が高校生や大学生レベルの問題に挑むようなもの。だから、小学生は小学生の問題の解き方でよいのだ。
程度が低い、という問題でもない。だって、あなたは自分の子どもが足し算、引き算をやっているのを見て、大人の立場から「レベルの低いことやってるな」なんて思ってバカにしますか?
だから、私が「攻撃してもいい」と言うのは、その人に合わせているのである。
皆、攻撃され実際に自分の安全が脅かされそうになったら心穏やかではいられないレベル。ましてや、我が子や愛する人を危険にさらされたら、鬼にもなるだろう。
でも私は、魂の学びの過渡期として、その段階における自然な心の発露を大事にしてよいと思う。
やがては宇宙の完全なプログラムのもと、時間とともに人類も成長し……小学校を卒業し、中学生になる時を迎える。やがて高校にも行く。
私は、その流れを信頼している。だから、今は今の自分として背伸びせず、自分の心からの思いを生き切る。その上で、宇宙が素敵な気付きを間違いなく与えてくれるはずだ。
●究極の境地は、「無防備」「無為」である。
でも、急がずともよい。無理をせずともよい。
愛する者を守りなさい。家族を、国を守りなさい。
ただ、守ることを口実に、進んで余分に攻撃してはならない。
その営みの果てに、自然に次なる魂の学びの段階に進むだろう。
今この時代こそ、その節目だと思うのである。
折しも、今は卒業式・入学式シーズン。
あわてずとも、人々に意識の変化の節目が訪れるはずだ。
それを信頼しようではないか。
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