信頼論

 たまたまスピリチュアル系のブログを何とはなしに眺めていると、次のような記事に行き当たった。よく見られる内容で、詳しい人なら別にどうということのない内容なんだが。



●ありのままのあなたでよい、というのは文字通りの意味ではない。

 実際には真我(仏性)としての「あなた」ととらえるべきであって、本当に何もしないでいい(エゴの垂れ流しでいい)ということではない。

「ありのままでいい」が、怠惰になることへの免罪符となってはいけない。



 そのブログで言いたいのは、要約すると上記のようなことになるだろう。

 これに関して、私の思いは異なる。

 私は、本気のホンネで——



●ブログ主が警告している、文字通りの「ありのままの自分」でいいと思っている。

 本当の自分に立ち戻ったその人に価値があって。そうでない、エゴに囚われているその人はまだ真の価値を発揮していなくて。それこそ、単なる審判であり価値判断である。どんなその人でも、その存在の瞬間において完全である。



 ……と思っている。

 ぶっちゃけた話、エゴ垂れ流しのその人で最高だと思っている。

 こう言い切って終わると、???だと思うので。

 私がそう言い切るだけの根拠を、ここから述べてみよう。



 私の徹底したスタンスは、『命への信頼』である。

 それは、三次元に縛られる一時的なものではない。時間性を超えるものである。

 今信じていても、後で信じなくなるというものではない。今は信じていないが、いつか信じられるかもしれない、というものでもない。

「今」しか存在しないから、今信じるということは全てにおいて信頼するということになる。



 例えば、ここに引きこもっている人がいるとする。

 三年寝太郎で、仕事もせずゴロゴロしている人がいるとする。エゴに囚われ、そこからなかなか抜け出せない人がいるとする。

 私は、エゴに囚われたその人のままではいけなくて、囚われないその人になってはじめて価値が出る(本当のその人になる)などというケチ臭いことは言わない。

 スピリチュアルの一般概念にダイナマイトを落とすようだが——



●文字通り、エゴ垂れ流しだろうが何だろうがそのままでよい。

 引きこもっていても、働かざる者でも、そのままで最高である。 



 私は、その人の見せかけだけの「今ここ」に惑わされない。

 多くの人は、「今ここ」という概念を表面的に理解し、分かった気になっている。例えば——



「今ここ」でその人が真我にたどり着いたから、素敵だ。

「今ここ」ではまだその人はエゴの罠に囚われたままだから、問題だ。


 

 では、幾つもの「今ここ」があるということか?

 今しかないのに。なぜ、断片的に切り取り、その変化に重きを置く?

 私にとって「今ここ」とは、宇宙のすべてである。始まりも終わりもなく、すべてである。ということは、今実はすべてのシナリオは終わっている。

 すべての人物は、すでに「完全なるさま」をあらわしているのだ。



 私は、どんな人を見ても、こう認識している。


 

●この人も、ワンネスから別れ出たひとつの最高の魂。

 もとは同じの、旅の仲間であり、兄弟。

 時間、という幻想性のゆえに様々な状態を見かけ上観察することにはなるが、必ず全ての旅は完全に終わる。そしてもう、そのシナリオは描きあげられている。

 きっとその人は、神であるその人自身の力で、本当の自分にたどり着ける。それを信頼する。

 私が何か言ってやらないとダメとか、その人をそのまま放っておいたらダメなんじゃ? とか、そういう恐れは相手への信頼のなさ。

 ただ、魂からの突き動かし、すなわち『意駆り(怒り)』が生じたときだけは、相手に干渉しても、何かアドバイスしても問題はない。 

(※ただのやすっぽい怒りではないので、あえて『意駆り』(魂の衝動に駆られる)と表記した)

 そこが分かれば、焦る必要などどこにもない。

 命というものを信頼すれば、心穏やかに生きられる。



 もちろん、記事の冒頭に紹介したスピリチュアルブログの発想が、間違いなのではない。間違いどころか、この世界でおなじみの表現を使うなら、『正しい』 。

 この教えを口にするスピリチュアル発信者の方にも、覚醒者の方にも、素晴らしい生き方をされている方は多い。

 ただ、これだけたくさん人がいれば、捉え方が人によって微妙に変わってくる。

 真我のあなたが本当のあなたですよ。今のエゴまみれのあなたは、本来のあなたではないですよ、という言葉の裏には——



●本当のあなたは、もっと素敵なことを私は知っていますよ。

 それからすると、今のあなたは 「本当のあなた」らしくない。

 これは、本当にもったいない。



 こういう気持ちがあってしかるべきである。

 これは、形を変えた信頼である。本当のあなたの姿はもっと素晴らしいんだから、今のあなたはあなたらしくない。そういうニュアンスでこの内容を伝えるのなら、まだよい。

 でも——



●そうそう。ありのままでいいったって、エゴまみれの私じゃいけないのよね。

 真我としての私にならなきゃ、だよね。

 おお危ない。ありのままでいい、ってことを都合よくとらえるところだった。

 やっぱり、いくら宇宙に起こることは必然・あるがままで完全って言ったって、いい悪い・本物偽物ははっきりさせないとね。

 エゴから脱却できるように、頑張らなくちゃ!



 ……という利用法になると、だんだん話がすり替わってくる。

 せっかくのスピリチュアルの教えに、この世の成果主義と価値判断至上主義が侵入してくる。それを、何か『地に足の着いたスピリチュアル』だとか都合よく解釈して、満足する。

 筆者は、本書の中で『働かざる者、食べてちょーだい!』という記事を書いた。(未読の方はお探しになって読んでください)

 その時に、一番多かった批判が……


 

●そんなことを認めたら、怠ける人間がつけあがるのではないか。

 それを頑張る人が一生懸命サポートすることで、余計働かざる者を甘やかすのではないか。



 ……いったい、何をそんなに恐れているんです?

 きっと、私の言うことに危機感を抱く人たちは——



●自分自身が、働く者食うべからず、の成果主義的対応しかされたことがない。

 自分がそうだったので、他を知らないから相手にもそう仕返す。

 等価交換を超えて働く、無条件の愛の強さを知らないので、「余計甘やかすのでは」という恐れからの問題をあえて創造する。



 それと同じ構図が、今日のお話にもあるわけである。

 結局、すべての元は「恐れ」である。恐れがあるから、ありのままでよい、を免罪符に安逸をむさぼるかもしれない自分(他人)を警戒するのである。

 そして、それでは「自分は(あいつには)価値がない」と思ってしまう。

 いやいや、「真我にたどり着いた私(相手)なら価値があると思っていますよ」 と言ったとしても、でもあなた今実感として「まだまだだ」と思ってるわけでしょ?

 じゃあ、やっぱり価値がないんですよ。だって、「今ここ」がすべてなんだから。



 すべてOKだよ、にするとうまくいかないのでは、と怖がる人はただの心配症である。自分がそういう世界しか見てきてないから、命を信じることができない。

 放っておけばダメなほうに行く、ということのほうを結構強く信頼している。だから、手放しで今の自分(相手)を認める方向に行けない。

 いや、これはエゴに操られてて本当の私じゃないとか、本当の私のほうにゃ価値があるだの——



●どっちのあなたも、結局『あなた』でしょうよ!



 そこを忘れて、自分の状態の様々なパターンに名前をつけて分析するの、やめていただきたい。

「今」幸せではない者は、未来も幸せになれない。この世の文学で、そういう文句があった。未来、という表現はあまり好きではないが、分かりやすさのため便宜上あえて使う。

 だから、今の自分はエゴに囚われていてどうの、今こんなんだからどうの、ではあなたの言う真我なんて、来やしませんよ。



 例えば、映画。

 私たちは映画館で、リアルタイムに映し出される展開を見るが、あれ実は撮り終わっているんですよね。実は、全部済んだことなんです。

 でも、まさに今起こっているように見ている。

 この世界もまた、そのようなものである。



 私は初期のころのジャッキー・チェンの映画が好きだ。

(現代風なテイストになる前の、~拳というようなタイトルの)

 こういうシリーズでの、大体のお約束事的な展開がある。

 最初、ジャッキー・チェンは拳法もド下手な、ダメダメな男の設定である。

 しかし、拳法の師匠的な人物との出会いを通して、次第に強くなっていく。

 そして最終的には、かつては手も足も出なかった、強力な宿敵を倒すのだ。



 じゃあ、この映画の中の、主人公がまだ弱っちく情けない時代のシーンは、いらない? 主人公が強くなった時だけの映像だけでいい?

 もし、良いところだけを残して、そこに至るまでの試行錯誤や苦労を省いたら、そんな映画誰が見る?

 すべてのシーンがあって、はじめてひとつの映画として成り立つのではないのか?



 最初から最後までの、全過程を含めて、その人なのだ。

 どこがいらない、ということもない。例えそれがエゴや、そこから派生した行動やその結果であっても、決して汚点ではない。

 時を経て成長したり、意識の目覚めが起こったりするならば、それまでのすべては、むしろ「必要だった」とさえ言える。



●今この瞬間の自分に必要なものなんて何もない。今がすべてだから。

 今この瞬間に自分に必要でないものなんて何もない。今がすべてだから。



 エゴを警戒する、すべての人に告げる。

「エゴに騙された私のままではいけないんだ! 何とかしなきゃ!」

 そんな感じでエゴ狩りに必死になっていると、あなたが気付かないだけで、そのエゴ狩りを頑張ろうとする意識の正体こそが「実はエゴの本当の実体だった」なんてことがあるかもしれませんよ!

「そらそら、その調子だ。ガンバレ!」

 エゴはそんなことを言いながら、笑いをかみ殺すのに必死です。

 だって自分に気付かず、自分の偽物を人は追っているのですから。

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