役割を超えて

 この世界で、私たちはさまざまな役割を持っている。

 子供がいたら、親という役割。親の前では、子という役割。

 夫と妻、という夫婦上の役割。

 仕事上では、上司という役割。部下という役割。

 職業もそう。医者という役割。料理人、芸能人、花屋の店長。



 あるドラマの一場面で、こんなのがあった。

 難病の子供をもつ親が、医者から全力は尽くすが助かる見込みは正直薄いです、と告げられる。

 それを聞いた父親は、逆上し医者の胸倉につかみかかって、こう叫ぶ。

「あんた、医者だろ? 医者は、治すのが仕事だろ? だったら、なんとかしろよ!」

 他にも、こう言ってしまう例がある。

「あんたは母親なんだから、もっとしっかりしないと……」

「あんたは、名門~家の一人息子なんだからね! イメージってものがあるんだから、自重しなさい!」

「お前、正社員だろ? アルバイトじゃないんだから、これくらいのこと自分で処理しろよ!」

「外で稼いで疲れて帰ってきてんだ。食事と風呂くらいちゃんと用意しとけよ!」

「のび太のくせにぃ!」



 ……まぁ、最後のはおまけの冗談として。

 なぜ、こういうセリフが出てくるのか。

 


●人のことを、役割として見ているからである。



 相手は 『医者』だから、病気を治せなければいけない。

 相手は『母』だから、それにふさわしい義務を果たさない相手はもっとしっかりするべきだ、と思う。

 相手が『上司』なら、それらしく人間的に尊敬できる人物であってほしいと思う。

 相手が『妻』なら、自分が外で仕事をしている間、家のことはちゃんとしてくれて当然だ、と思う。



 つまり、人は他者に対して、様々な『役割』というフィルターを通して見ている。下手をしたら他者を田中さん佐藤さん、としてよりも役割のほうで認識してる場合が多い。

 身近でない、とおりすがりの人物になると、その傾向は増大する。たまたま入ったレストランで接客してもらった女性店員は「ウエィトレス」さんでしかない。

 その人がどういう人かなど知らないし、その時だけ料理を運んできてもらえさえすればいいのだから、相手がどういう人かなどどうでもいいのは仕方がない。でも、あなたの隣にいる夫や妻、両親、子どもという身近な存在にさえ「役割」という仮面のほうを重視するような見方をしていることはありませんか?

 


 他者を、その役割で認識する時、気を付けていただきたいことがある。



●その人は、母親である以前に「佐藤京子さん」だということ。

 上司である前に、「山田太郎」さんであること。

 ウチの子ども、という以前に「鈴木良太」という一人格であるということ。

 医者である前に、「大山雄二」さんであるということ。



 私たちが、人間関係において必要以上にイライラしたり、他者に対して要求がましくなる時。嫌な気分に囚われる時。

 かなりの確率で、他者=役割(義務)として見ている。

 だから、その役割を十分果たしていない、という判断になった時、その人への評価は下がる。でも、逆に先ほどの例でいくと、母親役として模範的な人物は、ほめられる。礼儀正しい、言うことをよく聞く子どもはほめられる。つまり、役割をきちんと果たしている、という時にその人の評価は上がる。

 でも、落ち着いて考えていただきたい。



●役割を間違いなく果たしているから、その人には価値があるのですか?

 失敗したり、うまくできていない時には、その人には価値がないのですか?



 したことの良し悪しで人間の価値が上下してきたのが、今までの世界である。

 これからは、そうではない。

 その人のしたこと、役割において現状どうであるかということは関係なく——



●すべての魂は同等であり、それぞれが最高・完全である。



 ただ、この三次元人生ゲームにおいては、価値観やものごとの達成、という幻想の中で生きている。この事実を否定して完全、完全言っても仕方がないので、それぞれが与えられた役割をうまく果たせるように、働きかけたりしていく部分ももちろん必要であろう。

 でも、この世界の流儀にのっとって、そうはしながらも次のことは意識の根底に持ってほしい。



●役割は、本当のその人ではない。

 本当のその人は、もっと豊かな、無限の宇宙だ。



 意識の中に、その芯さえ持っておけば、他者に腹が立つ度合いがグンと減る。

 例えば、上司の田中さんが、部下の佐藤さんが仕事上のミスを犯したことを知るとする。佐藤さんのことを、『仕事はきちっとする責任のある社員』という役割で見たらー

「もっとしゃんとせんかい!」という、叱責の対象である。

 でも、社員である以前に「人としての佐藤さん」を思い出したら?



「……そういえば、こないだ初めて家にあげてもらったなぁ。

 料理が上手な奥さんと、かわいい子どもたちが3人もいたなぁ。3人もいたら、子育ても大変だろう。

 誰かが風邪をひいて、看病でもしたのかもしれない。疲れのひとつも、時として出て当然だ。こいつの根は誠実で、普段から決して物事をおろそかにしないやつだ、ってことは俺が一番よく知っている。

 ならば今回のことも、何かの事情があったに違いない」



 もしもこの時、上司の田中さんに心の余裕がなく、役割で見ることに囚われていたら、佐藤さん本来の人となりにまでは思い至らることはないだろう。

 きっと、失敗した、という事実ばかりがクローズアップされて、失敗=佐藤さんという、狂気の価値判断が生じていただろう。

 失敗が、佐藤さん本来の価値を決めはしない。この当たり前のことを、よく人は忘れてしまう。

 


●成功したその人と、失敗したその人は、別人ですか?

 成功したから値打ちがあるのですか?

 失敗したから、「ダメな」人になるのですか?



 命、そして魂こそが、人の本質である。

 もっと言えば、存在している、というただそれだけで最高の価値がある。

 その土台の上で何をするかなど、おまけでしかない。この三次元ゲームをする上での障害(障害がないと、ゲームじゃない のひとつが——

 


●そのおまけのほうに、価値判断の最大の根拠を置いてしまう


 

 ……というワナである。

 ですから、役割で人を見る、というトラップから脱出しましょう。またこれは、他者ではなく自分に対してしてしまっているケースもあるかもしれません。

「私ったら、母親として失格だわ……」

「オレは、この仕事を続ける資格がないんじゃ?」



 あなたは、あなたです。

 過去に何があろうとも、この先何があっても、あなたの価値は寸分も損なわれることがありません。

 一切の役割の縛りから、いったん解かれてみてください。そして、むき出しの自分の命の価値を、存分に満喫してください。

 それからでいいです。役割に忠実であろうとするのは。

 この世は、役割なくしては成立しないので、無視はできません。でも、何があっても私の価値は揺るぎない、と分かっていて役割を演じるのと、分からないで演じるのでは雲泥の差があります。気持ちの余裕が違います。

 後者では、苦しい戦いになります。



 もっと言えば、名前さえ縛りです。

 この世界に生まれた瞬間から、「縛り」の嵐です。

 まずは、性別。そして、つけられる名前。

 住む場所。親はどんなか。貧乏か裕福か中流か——

 あらゆる事柄が、あなたを事細かく規定します。

 なので時々、そういう一切のことを忘れ去る時間をお持ちになるといいと思います。すべての役割を忘れて、魂が自由になれる時間。(本当は、魂はいつだって自由なのですが、三次元ゲーム基準であえてそう言います)

 それを、瞑想という形でする方もいるでしょう。カフェで、今抱えている問題を全部忘れてボーッとしたり、好きな本を読む形もあるでしょう。カラオケで大熱唱してもいいでしょう。

 普段のことなんて忘れられる何かがあればいいと思います。やり方は様々でかまいませんが、役割を忘れるいわゆる『ガス抜き』は大事です。

 それぞれ、自分に合った方法を模索してください。



 あなたは、どんな時であってもあなたです。

 苦しい時には、自分から役割を外して考えてあげてください。

 他者をどうしても受け入れられない時。

 他人にも、役割を外して見てあげてください。

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