期待したものを得る

 まずは、以下の例え話をお読みいただこう。



 昔、昔のある村には——

 定められた祭日に、村を守る神様にお供えをする習慣があった。

 その年、収穫された最高の穀物の一部を、夜のお祭りで家ごとに神前にお捧げするのだ。



 さて、ある農夫が、今夜の備えのための穀物を束ねる作業をしていた。

 作業も一段落したので、井戸の方へ行き水を飲んで休憩していた。

 ふと、胸騒ぎがして穀物のある蔵へ戻ってみると——

 大事なお供えの束を、持っていこうとしてる人物がいた。



 それは、村の司祭の息子だった。

「ま、待てぇ!」

 追いかけてみるが、相手も足が速く、追いつけない。

 制止の声にも反応せず、逃げ切られた。

「あ、あのクソガキ……」



 怒りに我を忘れそうになったが、ある事実が彼の怒りを鎮めた。

 実は、司祭の息子が 『知恵お●れ』(当時は知的障がいという言葉はない)のようだということ。

 それは村中の周知の事実で、多少常識と違うことをする分は、よほど目に余るものでなければ抒情酌量されていた。だから、今回も決して悪気があってのことじゃないかも、と思い直した。

 きっと、今夜がお祭りだから、お供え物はたくさんあるほうがいいとでも思ったのだろう。ただ、誰のものかという明確な所有意識に乏しいので、悪意なく家に持ち帰ったのかもしれない。だったら、司祭の家に行って返してさえもらえれば、この一件は水に流すか、と思った。

 必要以上に事を荒立てることもない。息子が知恵お●れだということだけでも、司祭の立場で考えてみれば我々の知らない苦労もあるはず。



 さて、しばらくして農夫は司祭の家にやってきた。

 広い庭には、すでに今晩の祭りのための道具が、所せましと並んでいる。

 農夫は、盗まれた穀物の束を、その中に見つけた。

「ああ、あった。これだ」

 この時、農夫の頭には、司祭にクレームをつける気などなかった。今回の事は、ちょっとした事故だ。こっちが騒がなければ、そう大したことではない。

 しかし、自分のお供え用の束を抱えて帰ろうとしたその瞬間——

「やい、泥棒!」

 遠くで声がした。

 司祭の声だ。

「ここに準備されているものを持っていくとは、何たること! 神の怒りを買うぞ」

 農夫は、瞬時に考えた。こりゃ、誤解されている——

 司祭の怒号は、続く。

「これは重大な罪であるぞ。後ほど祭りで、神の前で申し開きをせよ!」



 最初は、司祭と司祭の息子に対して、寛大な気持ちでいたのに。それどころか、同情までしたのに。

 今、こちらの事情も確認せず、はなから泥棒と決めつけられた農夫は、イラッとした。そうか。そこまで言うならこっちも——

 結局、事態は村の裁判にまで発展し、祭りの前に行われる大事となった。



 結果として、後ほど農夫の誤解は解かれた。

 なぜなら、農夫の穀物の束は、彼しか持ってない特別な布地でくくられていたからだ。これが決定的な証拠となり、この一件は知恵お●れの司祭の息子の、悪意はないもののはなはだ迷惑ないたずらとして、村人も納得した。

 確かに、司祭に声のひとつもかけず束を持ち帰ろうとした農夫にも非はないとは言えないが、やはり宗教的リーダーでありながら、先入観をもって農夫をはなから泥棒と決めつけてしまった司祭の方の責任は重く、なおかつ知恵お●れとはいえ、実際に盗みを働いたのは司祭の息子だということで——

 司祭の面目は失われ、信用は失墜し、再び信用を取り戻すのに長い年月を要した。



 さて、先ほどの物語から、何が学べるか。

 農夫は、最初相手をとがめる気などなかった。事件を明るみに出し、騒ぎ立てる気などなかった。ましてや、司祭とその息子を苦しめる気など毛頭なかった。

 でも、結果としてその親子の社会的信用をおとしめることになった。なぜ、こんなことになってしまったのか?

 それは、司祭の『期待した通り』になったのである。



 人は生まれてから、当然親や社会から様々なことを吸収して、学ぶ。

 ある程度、パターン化され味わったことは、その人の常識として定着する。

 警察もなく、法律も整っていない当時、自分の財産を守るのは自己責任だったことだろう。だから、必死だった。「人を見れば泥棒と思え」なんて言われてきたのかもしれない。

 これは司祭を責められないことだが、司祭は瞬時には冷静かつ謙虚にはなれなかった。真実は、自分の知恵お●れの息子が、人様の家から勝手にモノを取ってきてここに置いた、ということ。

 でも、自分の庭から勝手に何かを持ち出そうとしている人物を見て、一番想像しやすいのは泥棒である。人間は、放っておいたらマイナスに、ネガティブに物事を想像しがちである。ここで、司祭が今まで教わってきた「したたかに生き延びるための知恵」が、悪い方に働いた。



『ああ、これは盗みにちがいない。

 私に悪いことをしに来たに違いない——』



 司祭は、ある意味 「そう信じて」 農夫を泥棒扱いした。

 そう信じる根拠は、今までの人生において学習した認識パターンである。

 裏切られたり、傷付いたパターンばかり学習してきた人ほど、立ち止まって違う可能性に目をやることは難しい。



●かくして、事実とは違うが、司祭は農夫を 「泥棒」 だと信じたわけだ。



 司祭が刺激さえしなければ、農夫は束を持っておとなしく帰る気でいたのに、何が彼を変えた? 以下、誤解しやすい文章なので、よく読んで真意を汲み取っていただきたい。

 司祭が、農夫が泥棒であることをホンネで信じ期待したので、そのネガティブなエネルギーは、本来起こらなくていい言い争いを生み出した。そして——



●人は、自分が世界に期待するものを受け取る。



 司祭は、世界をまず否定的に見たので、世界から否定的に「見返された」のである。まるで山びこのように、自分が他に成したことが返ってきたのである。

 試しに、やってみるといい。

 山に行って、見晴らしのいい所で叫んでみる。

「お前はバカだなぁ!」と。

 当然、山びこは 「…お前はバカだなぁ!」 と返してくる。

 では、こう叫んでみよう。「お前は、素敵なやつだなぁ!」

 すると山びこは、「……お前は、素敵なやつだなぁ!」と言ってくれる。



 本日、皆さんに覚えて帰っていただきたいのは——



●あなたは良きにつけ悪しきにつけ、

 自分が世界に期待するものを、最終的には受け取ることになる。

 自分が発するものと似た波動の現象を、受け取ることになる。

 自分が世界を「こう見たい!」と思ったその見方を、

 様々な手段で、世界は強化してくれる。



 最初の話は否定的な例だが、逆もある。

 ある泥棒が、警官に追われていた。

 逃げるに事欠いて、なんと修道院へ逃げ込んだ。

 そこに住む神父は、誰もいないはずの夜の教会に人が潜んでいるのを目撃した。

 しかし彼はそれを泥棒だとは思わず、懺悔したくて、神の前に祈りに来たくてやってきた「熱心な」信仰者だと考えた。

 だから神父はその気で、やさしく見知らぬ訪問者に接した。

 泥棒も、途中から「俺は泥棒なんだぞ!悪いヤツなんだぞ!?」とは言い出せずー

 神父のおかしなペースに巻き込まれ、ついには修道院のメンバーになってしまう。

 そして十数年後。彼がその教会の神父になっていた。



●あなたは、世界を何だと思っていますか?

 自分を、何だと思っていますか?

 他者を、どう見ていますか?

 


 改めて、自分に問うてみてください。

 きっと、その答えが反映した世界を今、あなたは見ているはずです。

 変えたかったら、あなたが世界の見方を変えたい、と心から思えばいいのです。

 世界が変わるのを、待たないでください。それでは、いつ変わるか分かったものではありません。あなたが、宇宙の中心ですから。

 あなたが一番先に変わることで、あなたの意識が生み出している世界も、ある程度変貌していきます。



 波動、というものがある程度影響します。

 世界を信頼して見るのは、高い波動。

 信じられない、どうせロクなことがない、というのは低い波動。

 その波長に合ったものに親和性が高くなるのは、当然です。

 どちらがいい悪いではありません。究極的には、どっちだって同価値です。

 ただ、あなたが同じこの世界で時間を過ごすことになるのなら、どっちがいいですか? ということ。

 お好みな方を、どうぞ満喫してくださいまし。

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