小さな小さな最高の宝物

 グリム童話に、『三つの願いごと』というお話がある。

 ある日、老夫婦が妖精から三つまで願いをかなえてもらえる権利を得る。

 おばあさんはたまたまお腹がすいていたので、「こんな時に大きなソーセージでもあって、焼いて食べたらおいしいでしょうねぇ!」と軽はずみに言ってしまう。

 それが願いごとのひとつめとして認識されてしまい、願いかなってソーセージが現れる。それを見たおじいさんは、大切なお願いをくだらないことに使ってしまったおばあさんに腹を立て——

「何てことをしてくれたんだい、このマヌケめ! こんなソーセージなど、お前の鼻にくっついてしまえばいい!」

 おじいさんがそう言ったとたん、この発言も二番目の願いとして聞かれてしまう。

 後悔先に立たず。ソーセージはおばあさんの鼻にくっついて、取れそうもない。このまま生きていかなければならないとしたら、本当にかわいそうな状況である。

 でも、おばあさんはけなげに言う。

「もう、お願いは一回しか残ってないじゃない。お金持ちになるようお願いしていいんだよ、おじいさん。そもそも、私が最初に口を滑らせてソーセージが欲しい、なんて言わなけりゃこんなことにはならなかったんだから……私のことは気にしないでおいて」

 でも、おじいさんは心からの願いを口にする。

「おばあさんの鼻からソーセージを取ってください」

 これで、三つの願いはすべて使い尽くされてしまった。



 このお話を、皆さんはどのように受け取るだろうか?

 多いのは、人間は欲深く、何でも願いがかなう、なんて状況を与えられるのにふさわしくない生き物なのだ、という皮肉な見方。人間の愚かさを浮き彫りにし、読む者を戒めるのである。謙虚になれ、と。これは他の誰かさんではない。あなた自身かもしれませんよ? と。

 でも反面、こういう受け止め方もできる。

 確かに、この老夫婦をめぐる一連の出来事の結果だけを見れば、愚かである。何でもかなえてくれるという、三つの願いをかなえてくれるという権利を棒に振ったのだから。もし、この権利が自分に与えられたとしたら、こううまくやるのに! なんて夢想する人もいるだろう。

 でも、最後の三つ目の願いに注目してほしい。

 おばさんのことさえ考えなければ、地球の王にも、世界一の富豪にもなれた。空を飛べたかもしれないし、究極の強さを手にできたかもしれない。最後のひとつの願いの使い方次第で。

 でも、実際におじいさんが願ったことは、結果だけ考えればもったいない状況に終わった。自分のした失敗の尻拭いをして終わった。



 現実的な成果主義の観点で言うと、実績はソーセージ一本だけである。

 三つも願いごとをかなえられる権利を得ておいて、結果それだけですから!

 一体何やってんだ? バカじゃないの? という話である。

 でも、私はこう思うのである。



●最高の学びができたじゃないか!

 最高の気づきを得られたじゃないか!

 最高の宝物を得られたじゃないか!

 これは、最高の勝利の物語だ!



 最後のおじいさんの一言に、心打たれませんか?

 その一言を、三つめの願いとして言えたおじいさんは、最高だと思いませんか?

 本当に、三つの願いを的確に、かしこく駆使して、大金持ちになり地上の王となり不老不死を手に入れたら、それが一番模範的ですか? そうできたほうが、このおじいさんよりも偉いのだと本当に言えるでしょうか?

 宇宙には、本来は一切の価値判断がない。すべて同価値であり、良し悪しはない。

 ただ、この三次元ゲーム内でのみ通用する判断をさせてもらえれるなら、この老夫婦が三つの願いを巡って体験した感情・そして思いの世界は、「何にも代えがたい世界最高の宝」なのである。

 最後の最後、本当に大切なものが何か、という気づきを得た。

 金銀財宝もその他のどんな物質も名誉も、これを上回ることはできない。



 そう見ることができたら、この物語はガラリと姿を変えてくる。

 人間としての愚かさのゆえに願いごとを無駄に使ったが、最後かろうじて思いやりというものを発揮した。人間は愚かさの中にも、素敵な部分を持っている。

 よくある発想は、この老夫婦を素晴らしい・微笑ましいとしながらも、どこかでやっぱり「それでも、もうちょっとやりようがなかったか?」と思ってしまう。

 心の面では申し分ないが、現実結果としてはやっぱり失敗だと。

 でも、最後の最後の願いを言えたことこそが、他の失敗を補って余りある最高の宝物なのだ。この最高のものを得るために、それまでの二回の失敗があったと言っていい。つまり、過失や失言ではなく、学びのために最善が起きた。

 そして満を持して、三つめの願いによる人生のレッスンが行われ、おじいさんもおばあさんももはや以前の二人ではなくなった。

 結果得たのは、物質的にはソーセージだけだっただろうが、胸の奥に朽ちることのない宝を得た。それが何かを本当に知ったなら、世の王も賢者も富豪も、うらやましく思うだろう。何よりもそれを欲しいと思うだろう。

 自分の持っているものが、価値において逆立ちしてもそれにはかなわない、ということを認めるだろう。



 本日の、私の結論。



●失敗や成功、見た目や実績に関わらず——

 たったひとつでも、心の底から言いたいことが言えたり、気づきがあったり、心が軽くなったり、豊かになったりすることがあったら。

 それひとつが、他の失敗や無様さをすべて覆い尽くす。

 


『フライト』という、デンゼル・ワシントン主演の映画がある。

(以下、ネタバレです!)

 デンゼル・ワシントン演じる旅客機の機長は、優秀なパイロットである。

 ある時、彼の操縦する旅客機が、整備上の問題のため墜落した。

 しかし彼の機転と、たぐいまれなる操縦センスのおかげで、助かりえない状況でかなりの人命が救われた。

 彼は一躍ヒーローになるが、ある事実が明るみに出るのをきっかけに、風向きが変わってくる。

 実は、彼はアルコール中毒だった。しかも、麻薬にまで手を出していた。そのことが、事件当時の彼に何も影響してないのは事実だが、世間はそれでは納得しない。

 自分がかわいい彼は、自分がアル中である事実、フライトの前日まで浴びるほど酒を飲んでいた事実を、隠ぺいにかかる。彼と利害が一致する会社や弁護士も、証拠潰しに奔走。あとは、彼が何食わぬ顔で「知らぬ、存ぜぬ」を通せば、社会的な彼の立場は安泰だったのだが——

 ウソをつき通し、しまいには勇敢に死んだ客室乗務員にその罪をなすりつける状況になるに及んで、彼は、叫ぶ。一切の自分の利益や、周囲とのしがらみや、計算を超えて。


 

●実は、俺が悪いんです。

 私は、アルコール中毒です。

 ええ、事件当時私には酒が入っていました!



 彼は、パイロットとしての資格をはく奪され、刑務所に。

 形としては、すべて失ったように見える。

 でも実は、見た目に反して刑務所の中で本当の自由を味わっていたのである。

 捕まってもいなかった時。それどころか英雄扱いされていた時こそ、一番自由ではなかったのである。

 


 この映画の話と、さっきの『三つの願いごと』のお話が重なりませんか?

 三つの願いごとのおじいさんは、もう少しかしこくやりようがあった。

 映画の機長も、最初からウソなどつかなければよかった。

 そもそも、アル中で麻薬常習犯である時点でアウトだよ、と言う人もあろう。

 でも、最後の最後。おじいさんも映画の機長も、人生という名のレッスンで、最高の学びができた。この世がゲームだとすれば、最高の得点を挙げた。最高のアイテムをゲットした。

 お金でも、地位でもない。

 


●心の底から湧いてくる素直な気持ちに思い切って従う



 それ以外のものは、そう大したものじゃない。 

 これさえあれば、それだけでどんな失敗も格好悪い様も、その価値の輝きを曇らせることはできない。



 皆さんは、生きていて思うことがあるだろう。

 たくさんの失敗をした。

 恥ずかしくなるような苦い経験も重ねてきた。

 それを通して、学んだこともある。でも、本当に高い授業料だった——。

 もっとスマートに、格好良くこれれば良かったのになぁ!

 そう思うだろうが実は、それこそが最善だったのだ。

 何か気づきを得た。何かを実感した。

 それだけで、十分。いや、それだけで最高。恥じることなど、何もない。

 その一点だけで、あなたはヒーローであり、ヒロインである。



 筆者も様々な経験を繰り返し、様々な問題に直面し、見た目傷だらけになりながら生きてきた。でも、その一瞬一瞬の「今ここ」自体が、最善だったのだ。

 今でも、私という存在や私のしていることは、見る人によって評価は様々だろう。しかしそんなことは、私という人間の真の評価には何の意味もない。

 それは、皆さんにとってもそう。

 あなたは、常に今ここを最善に生きようとしている存在。それだけで、輝かしい。それだけで、最高の価値がある。

 結果として見た目に何を生み出すかなど、おまけでしかない。そのおまけが素敵なものであることに越したことはないが、自己肯定感と受容なくして、実績や見た目の華やかさがあってもねぇ。それでは意味がない。

 


 今日も、この世界では様々なことが起こっている。

 人間的に言えば、いいことも悪いことも。

 問題があるように見える。問題のある個人がいるように見える。

 問題のある国があるように見える。問題のある私がいるように見える。

 でも、私は全面的に信頼している。

 どんな人でも、三つの願いのおじいさんであると。

 映画『フライト』におけるデンゼル・ワシントン演じる機長であると。

 途中どんなに失敗しても、愚かでも、回り道をしても、必ず自分の魂の本質に戻ってくると。立ち返ってくると。

 その本質とは、さっき言ったこれである。


 

●心の底から湧いてくる素直な気持ちに思い切って従う



 別名を、喜びにフォーカスする、ワクワクに従うとも言う。

 ただここで、喜びという言葉のもつイメージに注意。

 何かホンワカとした、陽的な「うれし~っ 楽し~っ」ということだけを指すのではない。もしそういう見方をしたら、かなり見える世界が狭められる。

 喜びとは、もっと広い意味を持つ。厳粛な、厳かな喜びだってあるのだ。

 


 さぁ、あなたも失敗なくうまくやることや形だけの成功にとらわれず、たったひとつつかめるものがあれば、それでOKなんだという気楽さで、生きてみませんか。

 三つの願いを棒に振った老夫婦を笑うことなく。

 最後の最後で自分がアル中であることをやっと告白した機長に、「そこまで追い込まれないと真実が言えないのか」などと当事者でない立場から価値判断することなく。すべての生きとし生ける者を信頼しましょう。

 彼らは(そして私も)常に最善を生きている、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る