リングサイドのスピリチュアル


 皆さんは、ボクシングを観戦することはあるだろうか。

 1ラウンドが3分。ラウンドの合間に、リングのコーナーで1分間の休憩(インターバル)がある。そこで選手は体を拭いてもらったり、トレーナーからアドバイスや激励をもらう。

「大丈夫だ。お前ならやれる。行って来い!」

 そして選手は、その言葉を信じ、糧として、今ここの「試合」に挑んでいく。



 私は、思うことがある。

 この三次元ゲーム世界で生きるということは、まさにボクシングの試合のようなものだ、と。3分間の必死の打ち合いが、日々生きることに相当する。仕事をすること。他者との関わり合いで様々な選択をしていくこと——。

 しかし時として、スピリチュアルの世界を人生の最上のものとして位置づけ、祭り上げている方がいる。そういう人はいつ何時でも、スピリチュアルの教えを念頭に置いていないと気が済まないらしく、あらゆる対応において「それを忘れずに反応しているかどうか」を気にする。

 少しでもスピリチュアル知識の応用を忘れて、無意識に反応してしまおうものなら……



「ああっ!これを意識するのを忘れてたぁ!」


 (>_<)



 ……なんて、痛々しく自省をしてしまう。

 まるで、ちょっとした修行のような人生である。

(人生これすべて修行である、という観点からはそれでいいのだが)



 私は覚醒することで、もっとスピリチュアルに傾倒したかというと、全然そんなことはない。

 もっと皆さんに、この内容を広め、目覚めさせなければならない! と思っているかというと、それもそんなことはない。

 じゃあ、筆者さんはこんなスピリチュアル記事を小説投稿サイトにアップしたり、動画配信したりしているの? それって、世界に発信して世界を良く変えていこう、としてるんですよね?

 そう思われる方もいるだろう。そんな誤解をしている方が、私を批判をする。

 要するに、人様に向けて発信する以上「私が正しいことを言う責任、間違っちゃいけない責任」があると勘違いなされている。

 ブー!である。


 

●私は、自身の楽しみのために発信行為をやっている。

 面白いから。言いたいこと言いたいから。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 


 だから、スピリチュアルなんか学ばなくてもこの世でうまくやれている人は、私の言葉なんか無理に聞かなくていい。私がそんな人に対して——

「あなた、この世の真実が分かってませんね。この内容を知れば、本当の幸せがつかめますよ!」なんてことは言わない。

 


 スピリチュアルなんて、リングサイドでの1分間の休憩でいいのだ。

 3分間という、この世界での生活という打ち合いで、結構疲れますよね。ゴングがなって、コーナーにフラフラと戻ってきます。試合で、かなり消耗し疲れています。

 お仕事が大変だったのかもしれません。それとも、人間関係で色々あったのかもしれません。

 選手は今、励ましを必要としています。有効なアドバイスを、そして水分を欲しています。コーナーに座ると、まさにそれが与えられます。トレーナーから、「次はこの戦法で行け!」とアドバイスをいただけます。

「お前はやれる!大丈夫だ!お前をずっと見てきたオレが保証する!」

 そんな、自分の存在を肯定してくれるような、励ましのメッセージももらえます。

 スピリチュアルの本を読んだり、スピリチュアルメッセンジャーの講演会に行ったり、個人セッションを受けたりすることは、言わばリングサイドでの休憩時間。

 位置づけとしては、その程度。まぁ、その程度とはいっても、重要なファクターであることに変わりはないですが。

 その「リングサイドのスピリチュアル」程度でよいはずのものが、過度に重要視され過ぎているきらいがある。生活のひとコマひとコマに至るまで、神経質なまでにスピリチュアル的生き方や発想ができているかを気にされる方がいる。

 心配しないがよい。



●思い出さないと何かを意識できない状態では、無理矢理思い出すことができたとしても、そこに大した違いはない。だって、魂の知識になっていないから。

 逆に、魂の気付きを得た状態や、腑に落とせた自分なら、無理に意識しなくてもその魂の知恵が自然に発動する。頭でいちいち思い出さないでも、それが生き方の一部になっているから。

 だから、もっと自然な自分、というものを信じてあげるのが良い。



 1ラウンド3分間のボクシングの打ち合いで、思考の働きが一体何%を占めると思いますか? 本当に、微々たるものである。

 もし、考えることに意識のほとんどを使っているボクサーがいたら、ボコボコにされますよ。その場の思考より、今まで体に教え込んで叩き込んできたことが、ものを言うはず。それが、まるで独自の意思をもっているかのように。

 思考は、その力を引き出す上でほとんど役割はない。



 人生、目の前のことに真剣に向き合ったらいいんです。

 試験の時に、教科書読んだらカンニングです。

 スポーツのプレイ中に、そのスポーツの教本を読む人はいません。

(例外的に、ジャッキー・チェンの『カンニングモンキー天中拳』があるが)

 だから、生活の隅々にまでスピリチュアルの教科書的知識みたいなものを蔓延させる必要はない。3分間、という限られた人生の試合中では、ありのままの自分で勝負したらいい。

 1分間の休憩の時にこそ、スピリチュアルの世界を満喫したらいい。そして元気を得たら、また日常生活という名の試合に出ていく。

 その繰り返し。



 スピリチュアル的知識とは、常に念頭に置いて現状に合わせようとするものではない。意図的に習得される性質のものではない。

 例えば、何かの時に頭に入れたことが、ある場面でつながることがある。

「ああ、あれはこういうことね」と。

 そういう経験によって、自然に身についていくものである。そして一度実感として分かったことは、無理に意識せずも、必要な場面で出てくる。

 だから、自分は自分として完全な魂の旅をしているのだ、ということをもっと信頼してあげること。

 今の自分が足りない、もっと学ばなきゃ、腑に落とさなくちゃ、というのは悪いとは言わないが、ピントのずれた認識である。あなたはこの瞬間、今のあなたであるしかない。いくら頭の中で、あんな理想の自分・こんな素敵な自分を思い描こうが、今どうしようもない。

 そして実は、『今この時』しか存在しない。だから、今ここにある自分を信じて、勝負するしかない。

 ポーカーでワンペアでも、自信に満ちた顔だったら勝てることも多い。ストレートかフルハウスでも、自信のなさそうな顔をしていたら、負けることも少なくない。

 今の自分を 「これでいいのだ!これで最善な~のだ!」(バカボンパパのノリで)とすれば、生きるのが楽になる。そして、楽しくなる。



 どうか、スピリチュアルに入れ込むのはコーナーでの1分にしてください。

 そして、自分と宇宙を信じて、3分間の試合は余計な思考に囚われず、存分に打ち合ってください。

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