問題は解決しなくていい
最近、間違ってはないんだけど、迷惑な考え方だなぁと思うものがある。
●私たちが目にするこの世界は、意識の鏡。もし、外側に問題や悲劇を見るのなら、その要素があなたの中にもあるということ。
だから、外に問題を見出すのではなく、あなたの内にこそ見出すべきである。
まぁ、その通り。
でも、この考え方は人を救わないなぁ、と最近思うようになってきた。
強い人はいい。その考え方でやっていけるから。自分の中の問題に勇気を出して向き合い、克服できるから。それが「楽しい」と思えるなら、なおよい。
しかし。私が接する人の中には、こういう人も多い。先ほどの考え方を応用することで、苦しむのである。
『私がこんな病気になったのは、私の中に何かそういうものを引き寄せる要素があったから? 私の中に問題がある、っていうの?』
自分のせい(自分原因説)、というのが納得できない。
どう考えたって、こんな病気にはなりたくなかった。
自分じゃない! 自分のせいなんて考えたくもない!
問題って、いったい何? 意識の中? もしかしたら、意識できる範囲の話じゃなく無意識の領域の問題かもしれないだって?
そんなわけも分からない問題に立ち向かって、解決しろって?
これでは、思考の負のループに陥ってしまって、内観どころではない。
はっきり言おう。
●意識が現実化する、という真実は人を救わない場合がある。
そんなケースでは、これは真実ではあっても値打ちがない。
ここから書くことは、万民に当てはまる真理ではない。
今の自分の状況に打ちひしがれている人。自分の内面のどこに原因があって、今の現状があるのか途方に暮れている人。そういう方々へ向けた、思い切ったメッセージである。
●あなたの身に起こっていることと、
あなたの心のあり方とは、
一切何の関係もない!
あなたは、だから何も悪くない。
今までも、今も、そしてこれからも!
あなたには、何の問題もなかったし、今もないし、そしてこれからもないであろう。あなたの日々の心がけと、起こる現象の間に、何の因果関係もない。
だから、あなたは自分の内面に問題を探さなくてよい。
逆に、探すことであえて「発見されるような問題」を創造して見つける、というひとり相撲をとる場合が生じることを知っておくべきだ。
では、問題に向き合わずに、どうやって解決するのか。
問題はひとまず放っておいて、喜びやワクワクにフォーカスするのである。
例えば、ここにAという植物とBという植物があるとする。
Aのほうには、水をたっぷりあげて、光も当ててやる。
Bのほうは、逆に光も当てず、水もやらない。
どちらが、よく成長するか?
当然だが、Aはすくすく育ち、Bは枯れ、そのうち植物としての生命も絶たれる。
私たちは、『問題』というものに、せっせと光を当て、水をやっているのである。
必死に構い、向き合うことでより存在する力を与えている。
そして、肝心な喜びやワクワクのほうは放っておかれる。
「この問題が片付かないのに、悠長に遊んでられるか!」そんなことを言って、こちらのほうを後回しにする。つまり、問題にばかり構って喜びやワクワクのほうにはなかなか水も光もやらないのだ。
2つほど、その実例を挙げてみよう。
あるところに、余命数か月と診断された男性がいた。
手の施しようがないので、治療しても仕方がないから、悔いのないように好きなことしなさい、と退院させられた。(ベッドに縛り付けられるような病気ではなく、ある程度歩いて普通に活動できた)
その男性がしたことは、ボランティアだった。人を笑わせるパフォーマーのセンスがあったので、老人ホームや養護施設・果ては刑務所まで回って、漫談のようなことをして回った。
人気が出て、ひっぱりだこになっているうちに夢中になり、彼は余命のことを忘れていた。気が付けば、1年が経過していた。
思い立って病院へ行ってみたが、医者は腰を抜かすほど、驚いた。
検査しても、かつてのような悪腫瘍がなかったのだ。
もし、彼が毎日毎日、明日死ぬか今日死ぬかなどと指折り数えて生きていたとしたら? 死ぬ、という意識に光を当て水をやり、せっせとお世話した結果、望み通り死んでいたかもしれない。
しかし彼は、自分の体のことを忘れ、慰問ボランティアに情熱と喜びという名の、水と光を与え続けた。その結果が、これである。
皆さんが、会社の上司から
『明日の会議までに、わが社の問題点を三つ以上挙げてくるように』
って言われたら、どうします?
「う~ん、うちの問題点、問題点、問題点は……」
o(_ _*)o
盛り下がりまくり。
そして、次の日。
宿題を出された社員たちが集まり、そこで上司が——
『さぁ、みんな考えてきたかな? では、どんどんわが社の問題点を挙げてほしい』
…………。
(T_T)
気分、だだ下がり。
でも、こういう会議だったらどうか?
「部長、今までやったことないですけど、こういうやり方はどうですかね?」
「ほう、それは私も考えつかなかった。でも、前例がないからなぁ」
「あっ、それならこういうアプローチもありなんじゃないですか? 意外性があって、面白いんじゃ?」
「だな。具体化さえできれば、これは実に面白いことになりそうだな」
こういう会議だったら、盛り上がりまくり、テンション上がりまくりではないだろうか。しかも、これが勢いに乗れば、ただ短所を見つけてカバーするよりも、何十倍もの成果に跳ね上がる。
短所を補おうとするのは、電車で言えば『各駅停車の普通』である。
長所を伸ばすことや、ワクワクから来る挑戦や冒険は、『快速急行』 。
人は、何でもかんでも、頭で納得しないと気が済まないし、気持ち悪い。
例えそれが自分にとって嫌なことでも、納得するためなら背に腹を変えてしまう。
例えば、あなたが昨日、母親と大ゲンカし、暴言を吐いてしまったとする。
今日、あなたは自転車で転び、大ケガをした。
その時に、こう考えてしまう誘惑に駆られないだろうか。
「もしかしたら、私が昨日お母さんを傷つけるようなことをしたから——
そのせいで、バチが当たったんじゃ?」
はっきり言いまして。
この方がお母さんに言った悪口と、今のケガとの間には何の因果関係もない。
何の関係もないし、自分にとって何の得にもならない理屈なのに、それでも人は、頭で納得できる理由付けが欲しいのだ。それがあったほうが安心する。
その安心のためには、多少自分に不利益な解釈(私が悪かった)であっても、無理矢理にそう考えたくなってしまうもののようだ。
因果応報、という考え方や原因と結果という概念がちょっとゆがめられた形で信じらている。もちろん正しい側面もあろうが、知ったからといってまったく役に立たない理屈だ。
さっきも言ったように、問題にフォーカスせずとも喜びやワクワクにフォーカスすることで、問題に取っ組み合わずにそんなものを凌駕する成果を叩き出せれば、因果関係が判明したところで意味がないからだ。
だって、原因に触れなくていいのだから。
起こったことの原因を考えて、自分をいじめる人が多すぎる。
自分が悪いと思えなくて、あるいは思いたくなくて、自分原因説を捨ててしまいたくなる人もいる、という点は見逃せない。決して、自分の問題を棚に上げての「逃げ」というのが当てはまらない場合もあるのだ。
●私は思う。
人によっては、自分原因説を捨ててもいいんじゃないか?
それで苦しみから救われる人もいる。
自分をいじめなくて済むようになる人もいる。
喜びにフォーカスし、問題点にエサをあげずに死滅させる方法が成功するなら——
必ずしも、内面に向き合いゆるし・統合という過程でなくてもいいのではないか?
宇宙が究極には愛であり、自由であるなら。
このやり方でしか人は魂の成長ができない、というのは尻の穴が小さい。
そんなチンケな宇宙!
もし今、自分が抱えている現実のゆえに、自分を裁き罰している人がいるなら、私はこう声をかけてあげたい。
『あなたは、何も悪くないよ。
あなたには、何の問題もないよ。
だから気にせず、お行き。
自分をいじめるようなことを、わざわざ考えなくていいんだよ。
もっと、あなたの心が浮き立つことを、一緒に考えようよ。
そして、そのワクワクをでっかい風船にして、ふくらまそうよ』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます