Q&Aのコーナー第三十五回「宗教の問題点は何ですか? 今後どう向き合っていけばいいですか?」

 Q.


 私は、生い立ちに過酷な状況があり、子供時代にプロテスタント系のキリスト教に依存しました。

 聖書の神は、怒ったり、裁いたり、慈しんだりと、とても人間的な感情を持ち、唯一絶対の一神教。人間は罪びとだから救済が必要との教え。不信仰も罪とされ、弱い心は洗脳も余儀なくされる。

 また十戒など「ねばならない」の教えも子供心に鋭くせまり、家庭環境による極端な白黒思考の素地があった私は、思春期になるころには、裁く神への恐ろしさ、見捨てられ不安から精神を病んでしまいました。

 数十年経て、今は現実に即して生活していますが、こちらに示されたような真実がほんの少しでもわかっていたら、不幸な半生は違ったものだったろうと思うと、悔恨の涙が出てきます。



 一人ひとりが光があり、神である自分を信じることができるなら。

 本来宗教は要らない、と今ならよく理解できます。

 でもその理解に行けず、苦しくて救い求める人たちが素直に聖書を読めば、聖書の記述そのまま信じ、聖職者の言葉を鵜呑みにしてしまうだろうと思います。

 なぜ、人類にこれほど大きな影響与えるキリスト教・聖書に、真実と違う記述がこれほどあるのでしょうか?



 A. 過去の恨みは忘れ、「ありがとう」と言ってそっと手放しましょう。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 私は若い頃(今だって若いぞ!?)統●教会という新興宗教の信者であった。

 ものすごく過激な教えであったから、親も含め周囲は心配した。

 私自身は、今から思えば勘違いであったとはいえ、救われた思いがしてそれなりに真剣であった。

 周囲の説得にも折れない頑固者(教会側からすれば信仰者?)であった筆者は、最終的に親族によって拉致監禁される、というところまでもつれた。

 結局信仰を捨てたのだが、その時の経験は大変苦いものであった。



 その後七年間くらいは、宗教には近寄らずに過ごした。

 しかし。現実に必死に向き合ううちに、我力ではやっていけなくなった。

 本当に、人生がボロボロになった。

 そこで思ったのが何かというと——



「そうだ。新興宗教になぞいきなり行ったから、まずかったんだ。

 大昔から続く、伝統的な宗教だったら、間違いないんじゃないか?

 そんなにズレたことやぶっとんだことは、言わないんじゃないか?」



 ……と、そのように考えた私は、既成教会の門を叩いた。

 そこで、質問者が言われるようなキリスト教の基本教義を叩き込まれた。

 私たちは、罪人である。

 それは、自分ではどうしようもないものである。

 ただ、罪のない神の子であるイエス・キリストによってしか、罪のあがないはない。だから、ただ信ぜよ。受け入れよ。救い主イエスを。

 洗礼(入信の儀式)によって初めて、神様の子どもとなるのである。他に救いはないので、残念ながらイエスの名を受け入れない者は、天国へは行けない。



 クリスチャンとしてある程度の信仰歴を積めば、このような考えが当たり前になる。やっているうちは気が付けないが、実はクリスチャン人生はものすごく苦しいのだ。一体、なぜか。



①伝道しなければならない。



 これは、宇宙の王であり神である他者に、自分の宇宙の信念を押し付ける行為である。すべての人を、同じ思想信条のもとに統一しよう、という危険な考え方。

 救われている者(信者)と、救われていない者(未信者)を分ける。

 存在するだけで同一の、最高の価値をもつ神々を、勝手な二分法で評価している。

 これは、共生共栄(あるがままで私もOK。あなたもOK!)の、宇宙の法則から大きく外れている。



②無意識に、未信者を色眼鏡で見る。


 よく、「上から目線」と言われる部分である。

 救ってあげないと。私を通して、神様の愛がこの人に伝わりますように——

 私、救われている人。この人、救ってあげないといけない人。

 まぁ、地球人と宇宙人みたいなものか。

 親友や親兄弟に対してであっても、信仰のない人が普通もつ認識とはビミョーにずれるのである。すべて、神による救いを基準として考えてしまうから。

 信者でない方からすれば——

「あんたやカミサマに救ってもらわないといけないほど、私は惨めじゃありませんことよ!」とでも言いたくなるところである。

 結局、伝道に成功するのは悩んでいる人・苦しんでいる人。付け加えて素直な人限定。とてもではないが、これでは全世界の人を変えることなどできない。



③楽しくないところへは誰も来ない、ということが理解できない。


 SMAP(元)や嵐のコンサートだったら、一気に数万人でも集められる。

 でも、キリスト教の伝道集会だったら、必死に集めても来ない。

 それはなぜか?答えは単純。

 楽しくないからである。

 クリスチャンになると、そんな当たり前のことが分からなくなる。

 これは、神の言葉だから。真理だから。

 私たち自身の力ではなく、イエス様が働かれるのだから信仰があれば大丈夫!

 そんな考えで、魅力の薄いイベントを平気で開こうとする。で、集まらないと、「信仰が足りなかった」と考える。

 自分たちが、本当に人が引き付けられるものを提供できているかまでは、考えない。すべてが、神の言葉、私たちより力あるキリストの御業、で回っている世界なのだ。教会に人が来ないことを、「神(あるいは悪魔)からの試練」だとか「世に俗的な刺激が多くなったせい」と考える。

 余計なお世話かもしれないが、もっと楽しく教会運営をやったらいい。


 

 私は、決してキリスト教を否定する立場ではない。

 何度も言ってきたように、すべての物事の価値は、中立であり、善悪はない。

 ただ、この三次元世界へは、ゲームをしに来ている立場だ。

 ゲームであるからには、まったく良し悪しがない、とは言ってられない。

 そういう、この次元における限定的な意味合いで、キリスト教というものがはらむ問題を挙げてみただけだ。(問題などないんですよ。本来)



 皆さんは、ゲームをすることがあると思う。

 例えば、RPG(ロールプレイング・ゲーム)を思い描いてほしい。

 キャラメイクをして、ゲーム開始時。本当に、最低限の装備しかない。

 薄い皮の鎧に、攻撃力の弱い剣。

 だから最初は、それでも倒せる範囲の弱いモンスターを相手にする。すると、少しづつではあるが、レベルが上がる。

 冒険を続ける中で、ちょっと強い剣や、硬い金属の鎧が手に入るチャンスもある。そうして、成長したキャラはさらに強い敵とやりあえる力を持つようになる。

 最高レベルにまで達した時。いよいよゲームクリアの最終目的である、大ボスを倒すのに挑むことができる。



 つまるところ、宗教の変遷とは、そのようなものである。

 最初は、民族宗教。

 自分たちの集団だけが、救われるというもの。

 キリスト教の前身である『ユダヤ教』は、これに当たる。

 その神自身も、全人類の神などでなく、その民族だけを救う神である。

 これが、RPGの初期のキャラである。

 次に、いよいよ民族や人種、男女関係なく「信じるなら差別なく救われる」という世界宗教。これは、RPGのキャラがある程度育ち、装備も充実し、冒険が一番楽しい時期である。

 そして、いよいよ人類歴史が煮詰まった今。

 神という、人間とは違う人格を持った絶対者がいる、という次元を突き抜け、私たちはゲームキャラであり、正体は神そのものである『神意識』だというところへたどり着いた。これこそ、RPGの終盤。

 先日の本書の記事で、私が申し上げた『最後の戦い』 。 

 最終戦は、やっぱりキツい。でも、それを乗り越えラスボスを倒した暁には、最高のエンディングが待っている。

 スピリチュアルに触れ、本書に触れた皆さんは、いわばラスボスに立ち向かえる特殊装備を手に入れたようなものだ。それをフル活用すれば、勝てる。

 言い換えれば、装備があるだけで何もしなければ、勝てない。



●最高の武器。

 そして、喜びをどこまでも追及するあなたの情熱。



 この二つが揃った時。

 あなたの最後の戦いは、とても戦いやすいものになる。

 私も、宗教というものには大変な目に遭わされてきた。

 今回の質問者の方も、そう。

 悔しい。あの年月を返して! そういう思いになるのも分かる。

 現に、筆者自身40過ぎまでの日々をかなりの部分宗教に費やした。

 でも、今になって思う。



●やっぱり、感謝だね。

 今の私を、ここまで導くのに必要だったんだ。



 いろいろあったけれど、やっぱりそう思いたいんですよ。

 私たちは、物事に対して自分の都合で単純にこれは良いこと、悪いこととレッテルを貼る。そして、悪いとしたことには嫌悪感を抱き、そんなものをもたらした他人、あるいは社会を恨む。

 でも、この世界のすべては、ただあるがままにあるだけ。

 人類は、自分の神であることを封印して、肉体人間として壮大なRPGを始めただけ。その過程の中で、自分の成長や魂の気付きのために、一時的に役に立ってくれた。確かに損害もこうむったけれど、全部が全部悪いことばっかりだったか、といえばそうでもない。

 やっぱり、心動かされることもあった。自分なりの成長もあった。

 だから、やっぱり最後は感謝で締めくくりたいなぁ。

 筆者は試行錯誤の末、真理探究の長い旅を終えた今、素直にそう思うのだ。



 では、今日のまとめに入ろう。



①究極の真理は、人格を持った絶対神などおらず、人こそ神自身だった、ということ。

②でも、神(神意識)は、全能で完全であることに退屈した。

③そこで、不完全な二元性の世界をあえてつくり、神としての自覚も取り上げて冒険を開始。

④無力なキャラとして冒険を開始した人間は、やはり自分より上の、強い神という存在がいると発想した。

⑤民族的宗教は、やがて世界的宗教へと発展した。キリスト教・仏教・イスラム教がこれに当たる。

⑥ゆえに完全な真理から見れば穴だらけのキリスト教であっても、人類の成長のために必要だった。

⑦新時代を迎え、今まで役立ってくれた宗教は、その役目を終えようとしている。

⑧覚醒者が増え、「私自身が神(神意識)だった」 という認識が急速に広まっている。

⑨その確信に到達するという恵みを受けて、私たちは古きものに「今までありがとう」と言う。


 

 イエス・キリストは覚醒者であった。

 今の時代で覚醒者なら脚光を浴びる可能性もあるが、圧倒的少数派であった当時は、変人だった。

 当時の平均的な人々の理解を、はるかに超えて不可解だったことだろう。

 そのせいで、罪もないのに十字架で処刑された。それほどまでに、世の常識にとらわれた者にはうっとおしかったのだろう。殺意を抱くほどに。

 イエス自身は、何かの新しい宗教をつくろうなどとは考えていなかった。だから今あるキリスト教は、厳密に言えばイエスの意図を完全に反映してはいない。

 弟子たちが、勝手に始めた。

(クリスチャン側は、それも神の指示だと言うだろうが)

 特に、イエスに会ったことすらないパウロという人物の考え方が、キリスト教の骨子になっている。

(クリスチャンは、それも神の御心です、と言うだろう)

 でも、私はイエスは人類の覚醒を促すために、偉大なことをされたと思っている。そういう歴史的イベントがあったからこそ、スピリチュアルの歴史が動いてきた。

 キリスト教の存在も、しかり。

 今の時代、最後の戦いを迎えられるのも——

 私は、聖書やキリスト教のおかげもある、と思う。


 

 ですから、質問者の方。

 私もあなたと同じように、宗教に数十年を奪われた者として、アドバイスしたい。



●聖書と、キリスト教と、和解しましょう。

 色々あったけど、水に流しましょう。

 過去は忘れて、『今ここ』を生きることに、情熱を傾けましょう。

 喜びのみに、フォーカスしましょう。



 そして、過去のすべてに感謝して。さようならを告げて——

 一緒に、ラストバトルに挑みましょう。

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