Q&Aのコーナー第三十四回「菜食する魂は高尚で、肉食する魂は低俗?」

 Q.


 以前、他のスピリチュアル系のブログコメント欄で、その時たまたまお昼にカツ丼を食べていることを書いたのですが、他の方からコメントで「ここのブログに来てコメントを書くような人が、肉を食べているなんて!」というような書き込みをいただきました。

 私自身スピリチュアルという分野を知って間もないためか、スピリチュアルな人は肉を食べないということを知りませんでした。

 ただ少し勉強したら、お肉を食べない方でもお魚は食べるらしいですよね。

 私はお肉でもお魚でも野菜でも同じ命なのに、なぜにお肉を食べることが軽蔑されるのかと思いまして。

 よろしかったら、筆者さんなりの見解をお聞かせくださいませ。



 A. どんなに良い事でも、それを絶対基準として他を測りだしたら、アウトです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 まず、最初に宣言しておく。

 筆者は、肉結構好きです。

 焼肉屋行くのは、楽しみのひとつです。

 ケンタッキーなんかも、いいですよねぇ。



 さぁ、ここでエエッ! 筆者さん肉食うの? 見損なったわ!

 そういう方。本書でずっと言ってきたことが、お分かりではないですね。

 肉食の筆者の言うことなど、聞けるかい! という方は、特に引き止めませんので。動物愛護運動を推奨し、肉を絶対食べないスピリチュアル指導者の先生のところへ、どうぞ。



 まず、肉食が良いとか悪いとかいう議論自体が、無意味だ。

 この世界は、あるがままにある。

 すべての人は、その最善を旅している。

 ただ、人生のイベントのタイミングが千差万別なだけ。

 善悪はない。そこに価値判断などいらない。

 たとえ価値判断しても、自分に当てはめるのなら、まだいい。

 それを、他人に適用しだした時。目も当てられない。



 重要なことは、ただひとつ。



●今のあなたにとって、それをすることが喜びかどうか。



 それ以外の基準は、必要ないのである。

 こうあるべき、~せねばならない、ということはない。

 ただ、~したい、があるのみ。

 例えばあなたが、「動物を守りたい」「菜食が素晴らしい」と心から思って、心からの喜びをもって実行するのならいい。是非、やっていただきたい。

 ただ、だからそうしない者はダメなんだとか、他の皆もこうなるべきだとか、そういう方向に行きだしたらアウトである。

 この場合、その内容が正しいかどうかということは、一切関係ない。

 例外なく、どんな内容であれ他人に押し付けた時、その内容から人の行為の価値を判断し始めた時。その人物の心から次第に、心の平和と喜びが失われていく。



 この質問者が肉を食べたということを何気なく言ったら、他者から否定的な反応が返ってきたという。その人は、間違いなくスピリチュアル関係者である。

 私は思った。



●その人は、何のためにスピリチュアルやってるんだろう?



 意味がないのでは? と思った。

 でも、その人はそういうゲームをしているんだし。

 その命も、最善のタイミングで幸せに向かうことを私は信頼しているし。

 まぁ、いいと言えばいいのだが。



 本書で言ってきたこと。

 


●外に問題はない。あるとしたら、自分の中にある。



 だから、外に問題を見つけ、問題視することでそれに構うことは、結果として余計対象に力をもたせる結果になる。

 映画が気に入らないので、スクリーンにケンカを売る行為である。

 そうは言っても、幻想だからといって、ゲームを楽しまないのも偏りだ。

 だから、高名なスピリチュアルの先生が動物愛護に乗り出すのも、別に構わない。

 スピリチュアル探究者が、菜食を好むのも別に構わない。

 


●ただし、ホンネからの喜びを動機としているなら、である。



 もしも、「頑張らないと、このままでは世界はタイヘンなことに!」とか。

「私が、目覚めない民の目を覚まさせなければ!」とか。

 そういう 義務感 から菜食や動物愛護をするなら、くだらない。

 


●宇宙を信頼していないから、問題を外に見て躍起になる。

 自分の確信と同じ道を歩んでいない人が、ワカッテナイ人に見える。



 あなたが、動物愛護や菜食を心からしたいなら、どうぞなさってください。

 でも、肉を食べている人のことを、ほっといてあげてください。

 はっきり言いましょう。肉食は、霊性を低めますよ、とか動物の肉を食べるのは愛という観点からどうのこうの、とか——



●余計なおせっかいです。



 うるさいです。

 究極的には善悪がありませんが、この三次元にゲームをしに来ている以上、一定のルールがないと楽しくないことは、確かです。つまり、架空の勝利条件ですね。こうすれば有利。こうすればクリアしやすい、とか。

 そういう意味で、百歩譲って「菜食が一番知的生命体にはフィットする」ということがあるとしてもです。


 

●一人一人が、喜びを追及して生きる宇宙の王である。

 その王に、欠けがあり非があると認識するから、その通りの現実を見る。

 すべて、あなたが生み出しているのだから。

 


 私は、おいしいと感じるので、肉を食べています。

 身近なんですもん。親しんできた味なんですもん。

 私が何か間違ったから、こういう状態なんでしょうか?

 今は、だいぶおとなしくなりましたが。一時期、動物愛護関係のブログが、やたら私の書く記事に批判的な反応をしてきたことがあった。

 どんなやつが来てるのかと、相手の名前にリンク先が貼り付けてあったのでとんでみると、それはコメ主のブログのURLだった。一応プロフ画像は、動物の顔とか、おとなしめの画像を使っている。

 で、気をゆるして内容を閲覧すると……

 そこには、動物の悲惨な状況を訴えたいのか、ものすごく残酷な画像や映像の嵐。

 これは、非常に損なことを自分でしている。

 本来彼らのこころざしや主張は良いものなのに、あのやり方では、人は不快感だけを受け取って、肝心の「命を大切にしよう」というメッセージ性が薄れる。

 なぜ、そんなやり方を選択するのか。



●すべて、感情問題にすぎない。



 深層意識を暴けば、この人らは喜びを動機としてやっていない。

 動物を殺し、ひどい目に遭わせているやつらがゆるせないだけ。

 需要があるからいけない。だから、皆が肉を食わなくなればいい。

 そのために手っ取り早いのは、肉を食いたくなくなるようにすればいい。

 じゃあ、動物が食肉のために殺されるショッキングな映像でも流せばいいだろうという、まぁ考え方としてはそんなところだろう。



 私が問いたいのは——



「そんなことして、あなた楽しい?

 心からの喜びがありますか?」



 ……ということである。

 いや、楽しいかとか楽しくないか、とかじゃないでしょう。こうでもしなければ、世の中は目覚めない。だから仕方なく——

 そんな弁解をするなら、これは罠だ。

 こうでもしないと、なんてことはこの宇宙にはない。すべて、あるがままで完全。心配しないでも、全ての魂は必要なことを必要なタイミングで学び取る。

 それをあえて心配し、外の現象に対して「けしからん!」とか認識する時。

 それは、本当に相手が悪いんではない。宇宙の王たるあなたが「悪い」と決めるので、そのようになるだけのことである。



●菜食がよい、という決まりさえ作り出された真理である。



 このことも、長い宗教やスピリチュアルの歴史を通して、人類の深層意識に深く刻まれてきた。だから、最終的にすべての人が守るべき真理として格上げされてしまった。そのせいで、菜食が実行できている人は、スピリチュアル的に「できた人」という印象になり、逆に肉を食うのは俗物で、スピリチュアルなんか本当には分かっちゃないやつ、という価値判断になる。



 肉を食う筆者へ対する評価が下がった、というスピリチュアル実践者の読者がいたなら「じゃあ、菜食のあなたが私をうならせるようなスピリチュアル記事書いて、沢山の人に感動を与えてみなよ」と言いたい。

 私は、皆さんがお読みのとおりのメッセージを日々、世に送り出している。

 肉を食べる生活でも、この活動に何ら支障はない。

 前回書いた記事『最後の戦い』は、皆さんの温かい応援コメントを多数いただきましたが、あれ書いていた時の晩御飯は焼肉でしたけど、何か?



 では、ここらで今日のまとめに入ろう。



①究極には、物事に善悪はない。価値判断も必要ない。

②そうは言っても、この世界にはゲームをしに来ているので、ある程度のルールは必要。

③そのルールの設定基準には、個々の魂の「喜び」だけが影響するべきである。

④なのに、人は時としてそこに「~べき」というのを入れるのが好きな、マゾな存在である。

⑤自分の信念は、自分だけのものでよろしい。それを、他人を測る物差しにしないように。

⑥菜食が良い、というのは個々人が宇宙の王として生み出した「限定的真理」である。

⑦菜食が実行できるのが進んだ魂で、肉を食うのは程度が低い、という認識は罠である。

⑧菜食したければする。肉食したければする。その自由は守られるべき。

⑨同様に菜食したくなければしない。肉食べたくないなら、食べない。その自由は守られるべき。

⑩外部に働きかける運動(行為の世界)は、喜びが動機なら価値がある。

⑪義務感なら、あなたは自分で問題を創造し自分で解決するという独り相撲を取っているだけ。

⑫肉食が霊性を低くし、真理に照らしてよろしくない行為とするのは、作り上げられた真理。

⑬どんなに正論を吐こうが、何かが正しくて何かが間違い、と言うのはただの感情問題である。



 動物がかわいそう、とか肉を食って残酷、とか言うあなたへ。

 植物が良くて、動物がダメという根拠は?

 植物にしたら、自分の体は「肉」ですけど?

 動物は、意思をもって動くから? 感情があるから?

 あらら、植物や石ころに感情がない、というのは偏見ですよ?

 この世界に、生きていないものはありません。

 皆、素粒子(専門的な話は抜きね)から出来てますよね。

 そこまで考えた時、すべては同じもの。区別なんかない。

 だったら、道に転がっている石ころをストレス発散で蹴り上げるのだって、どうかと思いますが?

 だから、ここまではどうで、ここからはどうだというのは無意味なのです。

 何でもアリ、というのが宇宙の真理です。

 ただ、そこに「喜び」というそれぞれの尺度があるというだけ。



●傷つけられる命がある、という認識がそもそもおかしい。

 そんなものは、ないのです。

 死もない。すべては、完全。

 ただ、完全でない、というゲームをしにきているだけ。



 同じゲームをするなら、楽しみませんか。

 自分のが絶対で、人を変えようとかやりだしたら、楽しさがどっかに行っちゃうでしょ? だから、こうあるべきと外部を操作することに時間を費やすよりは、自分がやってて楽しいことに意識をフォーカスしましょうよ。

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