恋は愛よりより格下か

 ジブリのアニメ映画に、『耳をすませば』というのがある。

 この作品の中で、主人公の二人同士が『結婚しよう!』というシーンがあった。

 主役の雫(しずく)ちゃんは、いったいいくつだと思います?

 中学一年ですよ! この作品を見た当時の私は、悟りやスピリチュアル的内容には何ら興味も関心もなかったので、悪態をつきまくった。



『こんガキゃ! チューボーの分際で、色恋が語れると思っているのかぁ?

 結婚ってのはな、三十路越えした大人でも、簡単にはいかないもの。

 ましてや、人生経験もすずめの涙ほどでしかないお前らに、何が分かる? そんなお子ちゃまの口約束みたいなものはな、はかなくつぶれる運命にあるんだよ!』



 まさか、息をゼイゼイと荒くして、肩を上下させていたほどではないが。

 かなり、息巻きましたよ。

「コクリコ坂から」の時も、魂の学びは進みながらも、少々引っかかった。

 当時、私は劣等感を抱えながらも恋愛にあこがれる、痛々しい男であった。

 散々辛酸を舐めているので、余計に腹が立ったのだろう。せっかく映画見てるんだから、自分なんかに重ね合わせないで楽しめばよかったのだが。

 ガキたれが将来の結婚の約束を交わすオチに、一気に気分が悪くなった。

 これと似たようなことは、私たちにいつでも起こり得る。

 


 心が訓練されていない魂は、外の情報をエゴによってとんでもなく歪めて変換させられてしまう。いともたやすく。

 素直に見れば、かわいらしい、応援してあげたくなるみずみずしい恋のお話。

 よかったね。これから大人の世界も見たりしていろいろあるだろうけど、頑張れよ。どうか君たちのその愛の芽生えが守られますように——。

 そんな見方で、いいのに。人間とは、ともすれば何でもかんでも自分の尺度で物事をジャッジしたがる生き物だ。



 例えば、ある男子高校生が、好きな相手を先輩に打ち明けた。

 その相手とは、かわいいが気の強い、いわゆる攻略難易度の高い女の子だった。

 その子のことを良く知る先輩は、このように後輩にアドバイスする。

「やめとけやめとけ。何でそんな脈のないのに挑むんだ?自爆するようなもんだぞ。だいたいな、恋愛なんて、壊れやすいガラス細工のようなもんだぞ」

 それを聞いた後輩は、一言。

「それって、先輩の経験ですか」



●人は、正しいことではなくて好きなことを言うものだ。

 そしてその内容は、自分からの経験の範疇を出られないことが多い。



 これは、本当だ。

 詐欺師がウソしか言わなくて、高名なスピリチュアルの先生が正しいことしか言わないと思いますか? そんなことはない。

 どちらも、好きなこと、言いたいことを言っているのだ。

 この言葉にむかっ腹を立て、「いいえ、私こそは人類のために間違いのない言葉を語っているんです! 皆が従うべき、正しい指標を提示しているのです!」と言う人物なら、まぁ大したことはない。

 尻の穴の小さい、その程度の人物。

(注:三次元的な話をしてますよ。本当はすべてあるがままで完全なのです)

 認めなさい。あなたは、実はすべて「言いたいことしか言ってない」。

 もちろん、そこに善悪はない。

 正しい、間違っているよりも、大事なことがある。



●あなたは、それを言って後悔しないか。

 イヤな気分にならないか。

 心から、それを言いたいのか。



 それだけが重要。

 これまで本書で何度か言ってきたことを 、ここでも繰り返しておく。



●人は、自分の利益になること以外はしない。



 この法則は、かなりの確率で成り立つ。

 私たちは、自分や世間の感覚、分かりやすい損得の感覚でものを見るから、見誤る。こんなことしても、何の得もないのに。かえって自滅するだけなのに——。

 でも、本人にしたら、それをすることで得になる世界があるのだ。

 もちろん、その人にしか理解できない世界ではある。いや、本人さえ自覚していないかもしれない。

 この場合、顕在意識ではなく深層意識の働きになる。

 つまり、人は自分の利益になること以外しないのであるから、当然自分の利益になることしか言わない、ということになる。

 


 いやいや、私はどこそこの神の言われることを代弁しているだけ。

 私は高度な精神文明をもつどこそこの何々星人をチャネリングしているので、自分が言いたいことを言ってるわけではない、とそう言うかもしれません。

 ブー! それだって、あなたが生み出している。

 言いたくて、あなたが引き寄せている。人は、自分の内部にないものは生み出せない。(裏を返せば、全部内側にあるということだが)

 言葉では表現に限界があり、誤解も生みやすいが——



●そのチャネリング相手の神も星人も、実はあなたである。



 どこまで言っても、あなたは自分が言いたいことしか言っていない、という縛りから抜けられない。もっと言うと、それは縛りなんかではなく「ひとりしかいない。ワンネスしかない。あなたしか存在しない」そういうことになるのである。



 話を、ぐぐっと戻そう。

 人は、言いたいことしか言わない。

 特に、覚醒とはほど遠い人(それも三次元的意味合いでしかない)は、自分が肉体で経験したことがすべてで、その情報の範囲でしか、物事を判断できない。

 だから、人生において男女関係で苦労したり、傷ついてきた人にとっては…



『愛だの恋だのは、壊れやすいガラス細工のようなものさ』



 が、その人にとっての真実となり、『耳をすませば』のお二人のように、愛や恋を前向きにとらえることができる者には——



『人を好きになるって、素晴らしい。信じれば、素敵な奇跡を生む』



 それが、その人の真実となる。 

 だから、人にアドバイスを求める行為というのは——



 ①自分の聞きたいことを相手から引き出して、確信を強めたい行為

 ②反対意見を他人から引き出し、反発することで余計自分の信念を強める行為

 ③本心では今の自分を変えたくて、目からウロコの情報を引き出す行為。



 これら以外ではあり得ない。

 例えば、③。

 筆者の記事を読んで、素晴らしい気付きをありがとうございました! と感謝されることがある。でも正確には、その方の魂に、私の言わんとしていたことを腑に落としたい、という願いがすでにあって(もちろん、表層意識上のあなたはそんなこと自覚していない。神意識はもちろん知っている)、現象的には筆者という人物を通してそれを聞くことができたように思う。

 厳密には、あなたがそのようにクリエイトしたのだ。

 


 あれ、もともと恋愛の是非を考える話をすすめようとしていたのだが。

 どうも、物事の認識の話にそれてしまったようだ。

 ここらで、軌道修正するか。



 私は覚醒前、年少者のもつ異性同士の好きだという感情は、お遊びの域を出ないと思っていた。くだらない、と。そんなもの、大人になったら現実が分かっていき、うまくいかなくなるのに、と。

 例え大人であっても、その精神年齢の幼い者同士のそれは、見下げていた。



「それは、アガペーの愛じゃない。ジコチューな、エロースの愛だ。

 愛とは何か、みんな何も分かっちゃいない」



 当時の私は、既成キリスト教の信者として、キリストの愛のことが頭に入っていたので、自分の命を捧げてでも他者を救う、という十字架の愛こそ最高だ! という思いがあった。

 ゆえに、その一見健全だが実はブレーキでいう「遊び」のない私の心は、聖書でいう神の愛、などどこ吹く風で恋愛を謳歌する世間を、どこか見下していた。

 若者たちの、幼くて内容もないくせにやることだけはマセた振る舞いに、こんなんじゃダメだ! とおせっかいにもジャッジをし。

 キリストの愛、真実の愛を広めなきゃいかん! そういうおかしな使命感に、身を焦がされた。

 だからその頃、伝道頑張りましたよ。結局……それでもほとんど信者増えなかったけど。今では、その時うまくいかなくてよかった、と思っている。

 そこで教会がにぎわいでもして、居心地が良くなり経済的に心配もなければ「私はこのままでいいのか? 本当のところ真理とは何なのだ?」そういう魂の問いをしなかったと思う。きっと、それ以上のものを求めなかったと思う。

 結局、すべての物事がうまく連携して、今の自分がある。



 じゃあ、賢者テラを名乗る今なら、どう考えるかというと



●学生同士が好きだ結婚しよう、という感情と

 大人同士が恋愛する感情と

 精神性の高い者が他者を愛する愛

 これらの間に、価値の上下はない。

 


 言い換えれば、すべてに最高の価値がある、と言いたいのである。

 中学生の時に、その時「本当に結婚したい!」という感情が湧くなら、それがその時の最善なのだ。

 まだまだ精神的に幼くて、例え愛情の正体が見栄であったり、相手を自分のものにしたい、という利己的な感情であったとしても、それは価値がないのではない。それが、その瞬間におけるその人のベストなのだ。

 心の目が開け、精神的に高度な世界を生きる者が、幼い者や愛を良く分かっていないらしい者(そんなのいないのに!)のことを憂え心配し、どげんかせんといかん!と必死になる時、それは実は問題解決からはかけ離れていく行為なのだ。

 あなたは宇宙の創造主の権限により、「愛において問題がある人」を創造するという、余計なことをする。

 そして自分で作り上げた問題を見て、「こりゃ大変だ!」と考える。



 私は過去にツィッターで、『恋愛万歳!』とつぶやいたことがある。

 その真意は、ここまでの説明でお分かりいただけるだろうか。すべての人が魂の道を歩んでいるのだが、その進み具合、進む速度はバラバラなのだ。

 それを一直線に横並びにしてジャッジするから、おかしなことになる。

 進んだ人が、遅れている人を心配する必要は、一切ない。



●どの人も、その人なりにちゃんと前進しているのだ。



 自分を物差しにして他者を判断するから、いけないのだ。

 進んでいる者は、遅れている者のやることなすことがもどかしい。

 遅れている者は、進んでいる者が言う小言がうっとおしい。ほっといてくれ、と思う。実はその両者ともに、最善の魂の旅路を歩んでいるのだ。

 ただ、それがゲーム的性質を帯びたものなので——

 横並びに比較すると、スコアが高い低いとか、プレイがうまいとか下手とか、そういう本来なくてよい概念が発明されるに至った。



 大学生が、小学生の勉強している内容を見て「程度低いな~」は言わない。

 例え1足す1は2でも、漢字で山とか川とか覚えることでも、大学生にはバカみたいでも、小学生にしてみたら必死なのだ。

 その年代の最善を、尽くしているのだ。そこに価値の高低はない。

 逆に子どもは、大人の世界が分からなくても、方程式や二次関数が分からなくても、気にしない。自分に何かが欠けていて、それを必死に埋めないと自分には価値がない、とは思わない。

 子どもである自分の立場を謳歌しているはずだ。

 だから、彼らには上からお説教するよりも、認めてあげたらいい。応援してあげたらいい。そのうち、子どもも成長し魂ステージの次段階を迎える時が来る。

 その時に、聞かれたら教えてあげたらいい。説教なんて、どんなに正しくてもその程度の機会にするだけで十分。そのほうが、相手も成長しやすい。

 押し付けたら押し付けただけ、自分の力で腑に落とせるようになるのが遅くなる。



 それでは、今日のまとめに入ろう。


 

①人は、自分の経験からものを言いたくなるものだ。

②人の言葉を聞くときは、皆自分の尺度で、自分の言いたいことを言っていると覚えておく。

③アドバイスを求める他人も、実は深いところで自分が生み出している。

④精神性の高い者の陥る罠は、歩みの幼い者を正したくなることである。

⑤実は、すべての旅人はその通過点や進むスピードが違うというだけで、価値の差はない。

⑥ゆえに、旅の速度の速い者は、遅い者もその時の最善を成していると認め、応援する。

⑦歩みの幼い者も、自分がダメなのでは、こんなことは分不相応なんじゃないかとか思わないこと。

⑧すべての者が、お互いの在り様を認める。皆、ベストを尽くして生きているところを評価する。



 どんな魂も、自分が悪くなりたくてなっている者はいない。

 皆、その瞬間瞬間で最善と思われる選択をし、その積み重ねの上に今がある。

 そのことを忘れてはならない。逆にそのことを忘れない限り。あなたは他の命の価値を不当に低めることはなかろう。

 愛と恋を分けたり、これは偽りの愛だと言ってみたり、これこそ真実の愛だと差別化を図ってみたり——

 くだらない。皆、素晴らしいものということでいいじゃないか。

 問題が起これば、その都度一緒に考えればいいだけじゃないか。

 恋をいじめる者は、度量が狭い。



 恋愛万歳!

 小さな恋のものがたり、万歳!

 それぞれの人の、それぞれの愛のカタチ万歳!

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