Q&Aのコーナー第二十九回「子どものしつけに関して教えてください」

 Q.


 ひとつお願いなのですが、いつか機会がありましたら『新時代の子供のしつけ』について書いていただけないでしょうか。

 幼稚園から小学校低学年位の子供って、基本的に『好きか嫌いか、したいかしたくないか』を基準にして行動していますよね。『良い悪い』を基準にしていない。そういう意味では、子供ってまさに筆者さんの言う『宇宙の王』であることを実践している、とも言えるわけですよね。

 ただ、実際の日常生活において、親としてしつけないといけない状況ってやっぱりあるわけで。例えば——



①「ご飯食べたくない」と言って、お菓子ばっかり食べて、しかも歯磨きを嫌がる。

②「挨拶なんか面倒くさい」と言って、おはようも、いただきますも、ありがとうも言わない。

③「ぼくは無敵のヒーローだー!」と言って、交通量の多い道路の近くを縦横無尽に走り回ったり。

④「私はキャンディ、おてんばいたずら大好き♪」 とか言って、人様の家の壁に落書きしたり。(このネタ、年寄りしか分からないんじゃ?)



 ……等々。

『宇宙の王』なのだから、信じて見守りたい気持ちは分かるのですが、このような状況を放置していたら、ゲーム開始早々ゲームオーバーになってしまいそうです。

 親心として、我が子にはできるだけ長くそして楽しんでゲームをしてほしい。そのためにしつけを行うわけですが、でもそれって『良い悪い』の価値判断に基づいていると思うのです。

 良かれと思って行うしつけのために、 『宇宙の王』でもある子供を 『価値判断の奴隷』の大人に育ててしまっているのではないのか? と感じてしまうのです。



A. 宇宙の王はあなたであって、お子さんではありません。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 今回のご質問は、皆さん非常に混乱しやすい部分です。

 質問者の方は、一人ひとりが宇宙の王である、とこの書でよく言うことを覚えておられる。大変、素敵なことです。

 しかし、ひとつ見落としていることがあります。



●他人はいるが、あなたが認識する世界での主人公はあなたである。



 私がよく主張する「一人ひとりが宇宙の王」という考え方は、上記の概念とペアで考えないと破綻する。

 質問者のお母さんは、優しいお方である。人間としては、筆者も尊敬できるような、愛情深いお母さんだろうと推察する。

 だからこそだろう。宇宙の王は「この子もそうだ」という発想になる。

 だから、過度に干渉することや、世間では当然する「しつけ」 関しても、実際これはどうなんだろう? 宇宙の王に対してやっていいことなんだろうか? と考えてしまっても仕方がない。



 あなたは、あなたの開いている宇宙の王である。

 他人ももちろんそうなのであるが、あなたの宇宙にはいない。

 あなたの宇宙にいるように「見える」のは、実はあなたの内側を外に映写したもの。他人は他人なのだが本当の他人ではなく、「あなたが見たいように見ている他人」なのだ。

 この世界(宇宙)は、ひとつではない。

 無数のパラレル・ワールド(少しずつ、その人が何を選んだかの結果が違う異相世界)が存在する。

 その人の魂の段階・どんな信念を持っているかで、どのワールドに住んでいるのかが違う。だから、あなたが見ている相手は、正味の相手ではなく、あなたの意識レベルに合わせた、パラレル・ワールド版の「その人」 なのであって、正味のその人とはちとズレた「その人」を認識している。

 そこにニセモノとか本物とか、そういう価値の上下はない。皆最高の命だ。



 ちなみに、このアイデアはこれ以上言葉で説明するのが最も大変だ。

 これを読んでイメージできない人は、この上質問しないでほしい。

 もっと私が説明してもムダ。こちらも疲れるからイヤ。あなたは、これが分かる次元にいない、ということだ。

 この知識だけに関しては、自分で分からないとダメです。

 別に、これが分からなくたって、幸せに生きていくのにまったく支障ない。

 安心して、分からないままでいてください(笑)。



 あなたが、映画に過ぎない他人に対してできる意味あることは、限られている。



①その人、またその人の行動に関し、すべて自分の内面の何らかの反映と判断し、まず内省をする。

②何か思い当たれば、それを現象として見せてくれた相手に対して感謝する。



 相手は、スクリーンに映し出された映画なのだから、それと格闘しても仕方がない。映画監督である、自分の意識をこそまずクローズアップしましょう、ということである。



 でも、もうひとつ重要なことがある。

 確かに、この世界はあなたの生んだ映画。幻想である。

 じゃあ、何が起こっても無視していいのか? 他人が何をしても、結局自分の意識が生み出しているのだから、ゆるして罰さずにいるのがいいのか?

 とんでもない。



●私たちは、この世界にゲームをしにきている。

 ゲームは、操作せずに放っておいたらゲームオーバーになる。

 だから、そうならないように自分というキャラを操作する。

 操作して、世界に干渉し、他人ともやり取りをする。

 その繰り返しの果てに、ゲームの勝利条件(喜び・幸せ)を得る。


 

 そうなんです!

 ここが、今日の記事の一番大事な部分です。

 確かに、目の前で起こることはすべてあなたの内面の表れであり、ある意味幻想です。映画です。

 あなたがゲームキャラとして動いている、バーチャルなゲームの画面の中に過ぎません。でも——



●あなたはそのゲームで勝ちたくてプレイしているんでしょ?

 どうでもいいや、って思ってゲームしてませんよね?

 クリアして、最高の喜びを得たいんですよね?

 じゃあ、ゲームのルールに沿って、動きましょうか。

 それを罪悪視する必要はまったくありませんよ。



 例えば、質問者の上げた例で言うと——

 子どもが、ヒーロー気取りで交通の激しいところで無謀な動きをする。

 または、私はおてんばだから、と言って人様の家に落書きをする。

 そんな時、どうするか。

 この考え方を基本に、動いてください。



 宇宙の王であるあなたを不快にさせ、幸せにしない行動を子どもが取るなら、徹底的に干渉しなさい。

 それは、子どもの自由を奪うとか、宇宙の王として認めていない、という次元で考えてはいけない。あなたの宇宙には、あなたしかいない。

 外側の映画キャラのために、主役であるあなたの心の平和が失われるなら、本末転倒である。



 子どもが事故で死んでしまうのは、親としては一番避けたいですよね?

 ならば、そうならないように手は尽くすべきです。

 そこは、子どもに遠慮してはなりません!

 徹底的に、交通事故がどういうものか、分からせる必要がある。

 イタイ、ということ。お父さんやお母さん、大好きなお友達とも会えなくなるかもしれない、ということ。そして何より、お父さんとお母さんがどんな思いをするのかなど、多少厳しく激しく教えてもいい。

 子どもに、正論や話術はあまり通用しない。

 ただ、ホンネとホンネのガチンコ勝負あるのみ。

 しかも魂の奥底から搾り出す魂の叫びからは、どんなませた小憎らしい子どもだろうが逃げ切れない。

 だから、大人であるあなたは、子どもと相対する時に自問自答してほしい。



●本当に私は、恥も外聞も捨ててホンネを言っているだろうか?

 子どもだからって、誤魔化したり手加減してニュアンスを変えていないだろうか?

 子どもだと思って自分の思いを変換して出力するのは、逆に子どもをバカにする行為だ。その子どもも完全なるひとつの魂であり、神であるという信頼がない証拠だ。



 だから、私はあえて言います。

 ホンネで心を込めて、優しく言って聞くなら、それが一番理想だ。

 でも、必ずしもそういかない場合もある。

 その時は、次善の策にはなるが、相手が分かるまで厳しくすること。

 本当に命に関わるいたずらをしたら、手を出しても構わない。

(ちゃんと力をコントロールしてくださいね。それで子どもがケガしたら本末転倒ですから)

 ただ、私があなたをどれだけ愛しているのか、あなたを失ったら私がどれだけ悲しむか、を真っ直ぐに伝えてください。相手を子どもだと思わず、人間対人間として向き合ってください。

 お子さんが人様の家の壁に落書きをしたら、謝りに行かせてください。

(一人で行かせるのが理想ですが、年齢やその子の成長段階によっては保護者付きでOK)

 相手の家の人にお願いして、落書きされてどんな気持がしたか、遠慮なく話してもらってください。そして、その落書きをきれいに消させてください。

 できることなら、手伝わないでください。どんなに大変でも、やり遂げさせてください。多少おやつやごはんを抜こうが、させてください。

 それくらいで死にやしません。あまりナメてくるなら、家に入れないのもいいでしょう。あなたも本気なのだ。命がけなのだと分からせてください。

 その子も、一人の立派な人間なのだ。

 その行うことは、世界に何かしらの波紋を与える。

 その波紋に対しては、人として責任を取るべきである。

 それが、この世界に来たからには、守るべきゲームルールである。



 だから、子どもを育てていく上で大事なポイントは——



●基本的には、自主性を重んじる。

 ただ、親や他者に心配や迷惑をかける行為に関しては、全体の幸せや喜びの維持のため、自他共に栄えるという目的のため、一時的に子どもを不快な思いにさせてでも、分からせないといけない場面はある。

 でも、その一時の苦労が、一生の宝物になる。

 なぜなら、一度腑に落としたことは、二度と同じ過ちを犯さないからである。

 逆に大人が安易な選択をし、表面的な「子どものため」という考えや面倒くささからしからず、うやむやにしたら、後で取り返しのつかない事態を生むことがあり得ることを覚えておきなさい。



 昔、『スクール・ウオーズ』という学園ドラマがあった。

 その中で、高校の校長先生が言ったセリフの中で、印象深いものがある。

 子どもに手を上げることがゆるされるのは、どんなケースか? という内容である。その校長先生が言うには……



①本人・または他者に生命の危険が及ぶような行為があった場合。問答無用で。

②それをすることで、自分と相手との信頼関係を崩すことなく問題を解決できる、という確信が自分の中にある場合。



 その二つに該当しないのなら、あなたのすることは単なる体罰であり、暴力でしかない。あくまでも、大前提となるのは「あなたを愛しています」というスタンス。

 あなたも神です。私も神です。

 だから、共に栄えて喜びを体験していくために、今どうするのがベストなのか、一緒に考えましょう。そうささやきかけるように、子どもと接してほしい。

 相手を、自分とは関係のない、個別の存在と考えると、腹も立つし複雑な感情も湧く。でも、相手も自分だと思って対応すると、結構すんなり事が運ぶことが多い。

 これは、私の実体験からも言えることである。



 では、今日のまとめに入ろう。



①宇宙の王は子どもではなくあなたなので、あなたにとって喜びや発展につながるのかどうかで対応を決める。

②三次元ゲームをしているのがあなたなので、あなたにとってゲームオバーになるような操作は避ける。そのためなら厳しい対応も辞さない。子供が事故に遭わないことがあなたの勝利条件なら、子どもをそうしつけるのは、かえって必要。

③宇宙の王たるあなたの喜びを実現する上で必要なしつけなら、罪悪感を持たない。

④厳密には子どもなんていない。皆、ひとつの完全な命であり、神。

⑤ホンネ対ホンネでなければ、子どもには通じない。

⑥逆に、下手な配慮や手加減は、子供が見抜いて大人を舐めてくる。バカにする。

⑦子どもには基本的自由を認め、その自由を行使して起こったことに対しては絶対に責任を取らせる。

⑧泣こうがわめこうが、責任を取らせることに関して親は心を鬼にして見守る。手助けしない。

⑨相手も自分、と思って対応すると、他人を変えてやろうという意識で働きかけるよりも効果大。

 


 質問そのものからは、話がズレるが。

 母の愛、というものに対する認識を、新時代に合うように変えたい。

 やっぱり、人間がホンネで思っている通りに世界が見えてしまうので、指摘しておきたいことがある。



●自己犠牲愛



 これを、なんとかしたいのである。

 これが美しい、素晴らしいという意識を、変えていただきたいのである。

 親の愛、というのは自己犠牲愛がセットで語られる場合が多い。

 自分は食べなくても、子どもには食べさせる。

 たとえ自分は死んでも、子どもには生き延びてほしい。

 この子のためになら、自分の腕一本足一本、惜しくない。

 自分の子には、自分なんかよりもっと幸せになってほしい——。



 人類の苦難の歴史を通して、そういう親の愛が、素晴らしいとされてきた。

 だから、現代でも多くの親は、そのような気持をお持ちなのではないだろうか。

 だから、「母は強し」と言ったりもする。

 でも、ちょっと待っていただきたい。

 人間が神で、その意識するところがある程度の現実を生むのなら——



●同じ願うのなら

 自分はどうでも子どもは幸せに、ではなく

 自分ももちろん幸せで、子どもも! という、自他共に栄える、というのを当たり前としたらいかがですか?



 自己犠牲愛は、もう時代遅れ。

 自分も人も、共に幸せになりましょう! 子育てをする親御さんたちが、皆そういう意識になれば——



●自己犠牲が必要とされるような場面を引き寄せることは、格段に減る。


 

 親の愛がなぜ素晴らしいか? それは、自分以上に子どもを愛するからである! そういう洗脳からは脱却しましょう。

 人生の主役、宇宙の王はあなたです! あなたが幸せにならずしてどうするんですか! 是非、親であるあなたも子どもも、双方が幸せになるのが「当たり前」の意識で生きてください。



 小泉今日子主演の『毎日かあさん』という映画がある。ちょっと昔の映画だが、私の大変好きな作品である。

 見た方も多いと思うが、もしまだの方はビデオレンタルでも動画配信でもいいから、見ていただきたい。

 私は、この作品に示されるような「母の愛」を、素晴らしいと思う。はて、悟ることなんかよりもこの愛を体現できることのほうが素晴らしいんじゃないか?

 ……と、そこまで思ってしまう。


 

●母のように愛せることは、悟りと同価値か、またはそれ以上の境地である。



 だから、この書を読んでくださるすべての 『お母さん』へ。

 あなたが日々していることは、世界で最高のことです。

 これは私の宇宙にだけ通用する思いかもしれませんが、あえて言うと、母でいることは、悟ることよりも素晴らしい。

 ですから、悟ろうと焦らないで。

 そのままでも、あなたは筆者がうらやむほど素晴らしいのです。

 だから、悟りに関してはごゆっくり来て下さい。



 悟ることは、この世界のゲームのからくりに気付くことに過ぎず、母の愛で愛することは、この世界のゲームの最高の楽しみ方をすることだから。

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