Q&Aのコーナー第二十八回「スピリチュアルの世界で色んな神様や上位の霊的存在・宇宙人が出てくるけど、ホントにいるの?」

 Q. 


 あるチャネラーさんがコノハナサクヤ姫様から神示をおろしたり、日月神示では岡本天明さんが神示をおろしたり、他にもバシャールやエイブラハム等の地球人より高度な生命体、一般的には伊勢神宮に天照大御神の神霊……等々。

 筆者さんの考えだと、これら全てが本来は自分自身と同等の存在であり、上位のエネルギー体としての位置に置いて捉える必要はない、ということでしょうか?



 A.神の正体は、あなたの理想の意識のあり方です。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 


 まず大前提として、自分自身が神であり、すべてであるということ。

 究極には、ワンネス(自と他、陰陽というものがない一元性の世界)だけがある。

 自分以外に、個別の意志をもって動いているように見える他人は、自分が生み出している。(生み出してはいるが、基本思い通りにならない。なぜなら我々はあえてこの世界でゲームをしにきたのであり、障害がないとかそれこそゲームの意味がない)

 このことを押さえた上で、以下のお話を読んでいただきたい。

 でないと、ついていけなくなる。



 他人がいるように見えて、実はそれも自分であり幻想であるのと同じように、自分の外にいるように見え、特別な存在と見える「神」にも、同じことが言える。

 その、何がしかの神は、実はあなた自身である。

 本当は自分なのに、なぜ自分よりも素晴らしい、より高い存在に見える神が存在するように見えるのか?

 それは、そういうゲームをしに来ているからである。自分を無力にして、様々な経験を通して成長するのを喜ぶゲームをしているのだ。



 例えば、皆さんはRPG(ロールプレイング・ゲーム)をすることがあるだろうか? 架空の幻想世界で、モンスター や悪の勢力を倒しながら強くなり、何らかの目的を遂げるゲームである。

 どのゲームでもそうだが、ゲーム開始時、あなたが操作するキャラはレベル1で、めっちゃ弱いはずだ。装備も最低のショボいもので、地道にレベルを上げ、モンスターを倒していく中で、より強い装備を得られる。そして、冒険を続けていくうちに、経験を積みそこから様々な成長を経ていく。 



 それと同じで、神である完全なあなたは、ゲームをしてみたくなった。

 無力な、レベル1のキャラを自分としてつくり、プレイスタート!

 自分が完全であり神であるという認識も取り上げているので、笑えることに自分たちを創造し、自分たちより偉大で、その意向に従わねば天罰を下される「神」というものをこさえ、崇めだした!

 何千年に渡る人類歴史における転生を繰り返し、ようやくこの今の時代まで来た。

 成長の「クライマックス」まできた。

 ゆえに今、外に神がいるとして崇めてきた時代は終わり——

 自分自身が神であった、と覚醒する時代になったのである。



 確かに、質問者が言うように、色々な神様や高度な精神性をもった宇宙人などからメッセージを受け取る人がいる。

 結論から言いますと——



●そういうのは、あっていい。

 大事にしていい。

 しかし、それすら本当は自分だ、という自覚を持った上で利用すること。



 でないと、悪い意味で自分の上位にそれをおくようになり、その「神」に依存的になってしまったり。

 それを受け入れない人や自分と同じ考えでない者に腹を立てるようになる。



 例えば、あなたが紀伊国屋書店並みの、大きな本屋のオーナーだとする。

 そこにあるすべての本は、あなたのもの。あなたの自由にできる。

 だからといって、あなたはずべての本に目を通そうと思いますか?

 きっと、そんなことは思わないだろう。

 きっと、自分の好みの本、あるいは今の自分に役立つ本を選ぶだろうと思う。

 例えば、医学の本があっても、あなたが医者を目指していたり、興味があるのでもなければ、手に取ることはないだろう。でも、その本もあなたのものなのだ。

 マンガコーナーに恐怖マンガがあっても、怖いのや気持悪いのが大キライなら、寄り付きもしないだろう。でも、それだってあなたの所持品なのである。



 つまり、あなたの本来の正体は神(神意識)であり、あなたはすべてである。

 すべての知識を持っており、完全である。

 先ほどの例えでは、本屋を一軒まるごと持っている状態である。

 どんな知識だろうが、引き出すことができる。まさに全知全能。

 しかし、あなたは三次元ゲームのために、キャラを無力化した。

 ゲームキャラとしてのあなたは、好きなものを読んで成長していいよ! と一軒の本屋に放たれたレベル1のキャラクターだ、と言える。

 そして、本屋から自由意志により本を選び、読み、自分の経験値とする。

 自分が参考にした本(知識)は自分の血肉となる。

 あなたが意志によって選ばなかった本(あなたが今生で触れなかった体験・感情)はあなたには分からないことになるが、でもそれはゲームキャラだけの話で、実はプレイヤーである神意識はすべての本の内容を知っており、また持っている。



 だから、アマテラスとか、オオクニヌシノミコトとか、コノハナサクヤとかバシャールとか……そういうものは、先ほどの本屋の例えで言えば——



●あなたが「こうありたい!こういう自分になりたい!」という願いをかなえるために、参考とするため手に取った本



 ……だということができる。

 じゃあなぜ、実際にそういう神的存在が、意志を持って自分の外にいるように見えるのか? 

 その方が、ゲームらしい、でしょ?

 RPGの舞台であるファンタジー世界(幻想世界)っぽいでしょ?

 まぁ、そういうことです。

 そうしといたほうが、面白いからです。



 ある色んな神々をチャネリングなさるチャネラーが、こう言っていた。



●私は、古事記に登場する様々な神々のことに言及しますし、そこからの様々なメッセージも伝えもします。

 コノハナサクヤは、最高の表現をつかさどります。

 イワナガヒメは、悠久無限の繁栄。

 オオクニヌシは、リーダーシップを発揮する神。

 クシナダヒメは、あなたをサポートしてくれる人との出会いを支える。 

 ですが、こういった神の本当の正体は皆さんの「意識の在り方」なのです。

 言わば『鋳型』なのです。



 私たちが、名前と役割のある神のことを意識し、自分に重ね合わせる時——

 私たちは、その理想のあり方と一体になる。

 神という鋳型に、自分をめるのだ。

 自分で選んで、本屋の中のある本を手に取ったのと同じ。それを読むことで、自分のものとする。そして本当に、その力(効果)を得る。



 しかし、そういうゲームをしてはいるが、その神々も実は私。

 私は、本当はすべてもっている。本屋のあるじなのだから。

 では、今日のまとめに入ろう。



①古事記に書かれてあるような神々、バシャールに代表される高度な地球外知的生命は存在する。

②だから、それらのものを大事にしたり、自分の成長のため利用するのは大いに結構。

③ただし、それらも自分という神意識がゲームのために便宜上生み出した対象である。

④そのことを自覚した上で神々を利用しないと、依存したりそれだけが最高として他を批判したりしだす。

⑤私たちは神でありすべてであるが、無力な状態から始めるゲームをしている。

⑥だから、外に自分より素晴らしい高度な存在がいるとし、そこから学んだり力を得ようとする。

⑦ゲームをしにきているので、のせられてそうするのはゼンゼン問題ない。

⑧ただ、覚醒すればそれらの神々が命を持って独自の存在としているのではなく、それも自分と分かる。

⑨神々とは、私たちが理想とする意識の在り方を教えたものである、と分かる。

⑩そうは言っても、神々の正体がそんなんではロマンがないので、独自の生命と意志をもった存在として受け止めたらよい。



 質問者は「これら全てが、本来は自分自身と同等の存在であり、上位のエネルギー体としての位置を置く必要はない、ということでしょうか?」という問い方をしている。確かに、その通り。同等である。

 しかし、それは『だからと言って神々に敬意をはらわなくてもよい、ぞんざいに扱ってよい』ということとはイコールではない。

 たとえ自分と神々とは同一だと目覚めても、神々と、お世話になる他人たちを下に見てはならない。

 しかるに、次のことが皆によって守られて欲しいと願う。



●覚醒し、あえて神々を必要としなくなった人へ。

 神々を必要としそのお世話になる人を、見下してはならない。

 神々の存在を崇め、価値視し、必要とする人へ。

 それで問題ないが、ただ覚醒し必要としない人を傲慢だと裁いてはならない。

 


 どっちだって、ゲームを楽しんでいる空意識からしたら同価値なのだ。

 だから、次のことが言える。

 結局、神々や高度知的生命体を重んじるかどうかは——



●趣味の世界

 


 ……である、と申し上げる。

 必要があるとか、ないとかではない。

 あなたがどうしたいか、があるのみ。

 不謹慎かもしれないが、「好きかどうか」 である。



 筆者時々、バシャールがこう言った、とかいう情報を皆さんのブログで見て「へぇ~そんなこと言ってんだ」と思うことはあるが、自分から熱心に調べたり、傾倒したりはしない。

 自分がすべてである、と分かったから。

 その前提の上で、あえて「バシャールは趣味じゃないから」選んでいないだけ。

 私の中では、もう真理の探求は終わったのだ。私が情報を探したり得たりする行為をする時、それはもうただ趣味の世界以外の何者でもない。

 もちろん、それぞれ独特の役割をもった日本の神々も好きだ。ロマンがある。でも、それに敬意は払うが自分より上位視はしない。

 ただ、その神々の名前と役割を思い浮かべるとき、本来まさに自分がそうであるというふうに立ち返ることができる。自分が、その神の役割そのものだったのだ、という立ち位置を再確認できる。

 そのことのゆえに、私は(自分だと分かっている) 神々に対し、敬意を払う。



 趣味の世界なんで。

 まぁ、好きにしてくださいな。

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