人間にならなくてよかったんだよ
『妖怪人間ベム』というアニメを知ってる人は多いだろう。
1968年に放映されたのが、一番古いバージョン。
それをリアルタイムで見たのは、今の50代後半~60代くらいの方々だろう。
若い方が知っているのは、リメイク版とか実写版かと思う。
いつ、どこで誰が生み出したのか誰も知らない。
人でも怪物でもない異形の生物。
それが「ベム」「ベラ」「ベロ」の、三人の「妖怪人間」である。
彼らは、生まれた当初、自分が人間だと思っていた。でも、その醜さから人々に疎まれ、避けられる中で、自分たちが人間ではないと知る。
人間を助け、悪を倒し続けていればいつかは人間になれるかもしれない、という希望を抱き、やがて世の正義のために妖怪や悪を退治する旅に赴くようになる。
それが、このアニメの大枠でのストーリーである。
で、何といっても、この作品で有名なセリフはこれ。
●『早く人間になりたい!』
さて。
妖怪人間の三人は、ひとつの間違いを犯している。
自分が妖怪人間として生まれたことを、一番だと思えていない。
だから、必死に人間になりたがる。
つまり、彼らの中には妖怪人間よりも、人間であることのほうがよいのだ、という価値観があった。
現実に生きる私たちも、この三人と同じ過ちを犯すことが多い。
自分はダメだ。今の自分は十分でない。欠けている。
だから、もっと頑張らないと。
今のままでは、誰も見向きもしてくれない。
人からほめてもらうためには、それ相応の価値を生みださなければいけない。
それができないと、クズと呼ばれてしまう——。
つまり、自分ではない何か別のものになろうとする姿勢だ。
一見、努力と見えることをするので、良いようにも見えてしまう。
しかし、頑張れば頑張るほど、素の自分がダメなんだという前提をさらに強化してしまうことになる。
だから私は、人間になれるのなら、と人助けに励むこの健気な三人に、言ってあげたくなる。
●人間になれなくて、いいんだよ。
あなたたちは、妖怪人間のままでいいんだよ。
それが、最高のあなたたちのあり方なんだよ。
人間になりたい、人間のほうがいい——。
それは、ハッキリ言って彼らが環境から学習してしまった誤った信念である。
すべては、あるがままにある。そこに価値の上下はない。
だから、妖怪人間として生まれたなら、そのことを誇るべきであった。
自分という存在を受け止め、愛し、喜ぶべきであった。
でも、『比較』という魔物がそれをゆるさなかった。
確かに、圧倒的多数は人間。彼らと仲良くなりたいが、どうも自分たちは同じではないらしい。だから、彼らに受け入れてもらえるように、同じようになるよう努力しよう——。
私たち人間も、同じことを考える。
どうも、私は世間では『変わっている』部類に入るらしい。
だから、できるだけ気をつけよう。おとなしくしていよう。
自分は、同じ年頃の子どもの中では、成績が悪い方みたいだ。
だから、みんなにバカにされないように、頑張らないと。
いい点数取って帰らないと、お父さんやお母さんの顔が曇るんだ。
そんなの、僕見たくないから……
最近、質問を多く受ける中で感じるのは「今の自分ではいけないのではないか」という不安である。
この世界は、喜びを追求するためのゲームだとは、頭で分かっています。
でも、楽しくないんです。こんな自分は、どうしたらいいのでしょう?
死にたい、とまでは思わないにしても、生きていてゼンゼン楽しくない。どうしたらいいのでしょう?
こうした質問が出る背景には、ひとつの凝り固まった信念がある。
それは、社会から会得されるものなので、決して本人を責められないのだが。
●皆、何でも価値判断をしないと、気が済まなくなっている。
楽しくないのが悪い、と思ってるから 「どうにかしたい」。
喜びを味わうのがいいことだから、そうなってない自分は良くない。
さて、ここからは常識に縛られた思考ではついていけませんよ。
確かに、この三次元の世界には、これがよい、とされる基準がある。
仕方がない。ゲームである以上、こうするのがよいということが生じてしまう。
それが、善に生きることだったり、明るく前向きに生きることだったり、喜びに生きることだったり、愛に生きることだったり。
これらに逆行すると、世間から冷ややかな目で見られたり、注意を受けたり、ひどい場合には馬鹿にされたり、仲間はずれにされたりする。
つまり、価値判断こそが、世間の生み出した基準を満たすことのできない人を苦しめるのである。
だから私は、どうしても世の要求する「模範」を目指せない、と言う人に言いたい。この世界を楽しめなくて辛い、という人に言いたい。
●それをダメだ、と思うその判断をまず捨てようよ。
それならそれで、いいじゃない。
楽しめないのも、それはそれでOKと思ってごらんなさい。
自然体でいいんです。
これは、奇抜な考え方かもしれないが。
愛・美・善・喜び・光・明るさ・前向き・積極が良くて、苦しみ・悲しみ・悪・退屈・無気力・闇・暗さ、消極的が悪い、というのは暴力である。
そうできる人は良い。
ただ、現段階でどうしてもそうできない、という人に対しては、あまりにも無慈悲な指標である。
できない人に、「何でできないの?」と言うのも暴力である。
暗い人に 「明るくなりなさい」、世の中つまらないんです、という人に 「頑張って楽しくなるようになさい」……。
そんなこと、言わない方がまだマシだ。
相手だって分かっているんですよ。そんなことくらい。
でも、心が、つまりホンネの部分が動かないんですよ。
そこが動かないのに、何を言ってもムダ。
そういう時、外野にできることは、ただひとつ。
こう言ってあげることである。
●分かった。
それでいいと思うよ。
誰にも、今のあなたを価値判断する権利はないのだから、安心して。
気の済むまで、今の状態にいていいんだよ。あなたが望む限りはね。
でもいつか、もうこのままはイヤだ、変わりたい、と本気で思う時がくるでしょう。その時には、声をかけてね。
いつだって、手を差し伸べてあげる。
それまで、ずっと待ってるからね——。
私は今、覚醒者、あるいはそれに近い程度に魂の啓発された者に話していない。
そういう人たち向けのメッセージではない。
これは、三次元ゲームが奨励する模範に賛同できないアウトローたちのための言葉だ。世間では、あなたの状態を良くないと言い、こうおなりなさいと言ってくるかもしれない。それで、ああ自分はやっぱり良くないんだな、と自覚を強化して、落ち込むかもしれない。
でも、私はあえて言う。
それで、いいんだよ。
今のあなたが、最高のあなたなんだよ。
どうしても変わりたくなったら、その時変わればいい。
それまでは、安心してゆっくりしていらっしゃい。
他人から言われたというだけで、自分の心が動かないなら、無視なさい。
さて、話を妖怪人間たちに戻そう。
最終回で、彼らは人間になれる方法というのを見つける。
しかし、その方法とは——
『自分が人間になる代わりに、誰か別の人間の魂を犠牲にしないといけない』
……というものだった。
あれだけ人間になりたがっていたのに、その話を聞くと三人は拒否した。
善に生き、人間を守るために生きてきた彼らのポリシーを貫いた形だ。
そして、もうひとつ。
三人が妖怪人間のままでいいよう、と腹を決めた理由がある。
●もし、自分たちが人間になってしまったら、悪い霊や妖怪を、誰が倒す?
誰が立ち向かう?
私たちが今の力を持ち続けていれば、これまで通りに人間を助け続けることができるではないか。
私は、妖怪人間たちの最後のこの決断に、拍手を送りたい。
それまでは、妖怪人間はイヤだ、早く人間になりたい、って思っていたのに最後の最後、自分は自分のままでいいんだ、それこそが最高に価値あることなんだ、と悟るのだ。これは、私たちが歩むスピリチュアルな道と、相似形を成しているのではないだろうか?
今の自分じゃダメだ、と思ってきた。
もっと頑張って、人に認められる自分にならなきゃ、って思ってきた。
必死に、それを追ってきた。
でも、それは余計に本当の自分から離れる結果しかもたらさない、と分かった。
私は遠い旅から戻り、出発点に戻ってきた。
ここで、よかったんだ。
私はすでに、完全だったのだ——。
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