Q&Aのコーナー第二十回「先祖供養は必要か?」
Q.
先祖供養、っていらないのでしょうか。しないほうがいいのでしょうか。
うちはそういうの大事にする家系なので、従ってはいます。
でも、色々スピリチュアルな内容を知る中で、やっていてどうなんだろうなぁ?と思いました。
A.してても、まったく問題ありません。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
一昔前、『千の風になって』という歌が、大変はやったことがあった。
歌詞がまた、強烈である。
墓に対して、「そんなところに私はいませんよ」と言う。
これは、お墓に関する商売をしている人や、葬式仏教に携わる人(もちろん、仏教すべてを言うわけではない)にとっては、大変迷惑な歌だったのではないだろうか。
自分たちのしていることを否定されているようで、心中穏やかではなかったかもしれないが、あまりにも世間が絶賛して喜んだせいか、表立ってこの歌にケチをつける有名宗教関係者は、知る限り現われなかった。
先祖とは、何か。
もう亡くなってしまった、数世代以前の血縁者のことである。
よく言われるのが、「先祖のおかげ」ということである。
ご先祖様の存在があるから、今の私たちがある。
だから、感謝して供養すべきだ、という。
まぁ、常識的に考えればその通りである。
では、スピリチュアルな視点から、この問題を見ていこう。
人は、肉体が滅びて死ねば、二つのうちのどちらかの道を行く。
ひとつは、覚醒者が取る道。二元性のゲームを堪能しきったので、もう輪廻して戻って来ない。(※滅多にできない選択である上に、その上かなりの競争率を勝ち抜いてその権利を手にしても、やはり戻ってくるのもいるから、絶対数は少ない)
圧倒的に多いのは、次の道。
●今終えたゲームのpレイにまだ納得がいっていない(満足していない)ので、コンティニューする道。
つまり輪廻転生、『生まれ変わり』というやつである。
とすれば、死んだ先祖はなにがしかの肉体に宿り、別のゲームキャラでゲームを始めているかも知れない。死ねば必ず孫やそれ以降の子孫など、血統的に近い者に生まれ変わらなねばならないという決まりがないため、ゼンゼン遠い関係の人物になっていることも多い。
だとしたら、いつまでも死んだおじいちゃんやおばあちゃんを思い出しては「どうか安らかにね」なんて法要を重ねているその裏で、当の本人はすでに別の人間として、この世の人生を謳歌しているかもしれない、という滑稽な状況があるわけである。
田中誰それ、というのは三次元の時間の流れの中での、一時だけのゲームキャラに過ぎない。
それをいつまでも記録に残してまつり続けることは、大した意味をもたない。
●つまり、先祖供養、という何かかっちりとした儀式は必要がない。
墓さえいらない。
しかし、これは大変デリケートな問題を含むので、釘を刺しておきたい。
私がこう言ったからといって、先祖供養を重んじる人たちを否定したりバカにしたりするものではない。
莫大なお金を出してお墓を買う人、定期的に法事をしたり墓参りをしたりする人にやめなさい、と言いたいわけではない。
この書で、何度も言及してきたこと。
●あなたが真実だと決めることが、あなたの宇宙での真実になる。
宇宙の王としてあなたが採用したことが、大きくあなたの見る世界を創る。
ここでは、先祖供養は必要か・Yes or No? という姿勢、つまりどちらが正しくてどちらが間違いか、というレベルの認識レベルを卒業することをお勧めする。
真実はひとつで、それを知って守るものが幸せになり、そうでないものが不幸になる——。そんな考えをもつから人類にはケンカが多く、過干渉が絶えないのである。
だから、私が言ったようなことを腑に落とせて、実行できるような環境にある者はよし。先祖供養もお墓も大事、という世界を生きる人に、こちらからわざわざいらんことを言う必要はない。
先祖供養を大事にする価値観を、こちらも尊重してあげたらいい。
必要なら、気持ちよく参加してあげたらいい。
本当に相手の人の意識が変わる必要があるなら、神たるその人自身の意思により変容が起こる。他人は、あえて「教えてあげないと」とおせっかいしなくても大丈夫。
かえって、こちらが善意からでも押し付けたり、教え込んだりすることの方が問題が起こりやすい。
「うわー、すごいことが分かっちゃった!」
スピリチュアル的な学びで、何か目からウロコな内容を知った人の陥りやすい罠。
●それを知らない他人は可哀想なので、教えてあげなきゃ! という思い。
だから、こういう内容を聞いたら、他人に「お墓なんか高いお金払って買っても、仕方ないんだよね~」とか、「先祖っていったって、神(大元)意識がある一時期において操作するゲームキャラに過ぎないんだから、いつまでも供養したってしょうがないよ」などとおせっかいにも言ってしまう。
相手がそういうことを真剣に考えたり悩んだりしていて、「これ、どう思う?」 と聞いてきたら別だ。そうでもないのに、こちらからかき回しに行く必要はない。
では、最後に『本当の先祖供養とは何か?』について考えてみよう。
●あなたが、今を喜びをもって生きること。
たった、これだけ。
それ以外で何かするのは、趣味の世界。
あなたという存在は、輪廻転生のマラソンでいえば「アンカー」である。
一番の最先端を走っている。
あなたは、過去生のすべての期待を一身に背負っているのである。
みんな、応援している。
(本当に、旗を振って 「頑張れ!頑張れ!」 とやっているわけではない。あくまでも、イメージとして分かりやすかろう、ということでそう表現してみました)
ゆえに、あなたが幸せになり、三次元ゲームを喜びと満足のうちに終えることは、とりもなおさず過去生のすべてをカバーすることにつながる。
そういう意味で、先祖供養などということをするより、あなたが幸せになることのほうが手っ取り早い。
実は、そっちのほうが喜ばれる。
これは少々、概念的に理解しづらい話かもしれないが。
我々の三次元では、時間の流れは直線的である。
過去→現在→未来。
過去のことはもう起こってしまったことで、未来のことはまだ起こっていない。
ゆえに、三次元に生きる私たちが何かできるのは『今』だけ。
しかし、究極の世界においては、そんな三次元の制約はない。
●過去も現在も未来も同時に存在している。
すべての物事は終わっているとも言える。
また、今起こっているとも言える。
そしてまだ起こっていない、とも言える。
……ややこしいですね。(笑)
つまり、ここで言いたいのは「今を生きているあなたが、本当に喜びをもって生きたら、それはめぐりめぐって、あなたの過去生を癒す」ということ。
ある別次元で 「今起こっている」 過去生を癒すのだ。
この宇宙では終わったことでも、別の宇宙で「これから起こることになっていること」に影響を与えることができるのだ。
あなたの喜びは、次元(過去現在未来という時間軸)を超えて、エネルギーによる影響を与えることができる。
筆者もお葬式があれば行くし、焼香もするし、手も合わせる。数珠ももつ。
それは、妥協ではないし、自分を偽っているのでもない。
●郷に入らば郷に従え。
相手に合わせてやるのもまた、愛である。
何でも、正しいことを押し通すのが良いことではない。
正しいかどうかではなく、相手を尊重することが大事な場合というものが多いのだ。合わせはするけども、自分なりの芯というものをきちんと持っている。それで十分ではないか?
あのイエス・キリストもそうだった。
聖書には、こういうエピソードが載っている。
国の役人が、イエスに税金を納めろ、と言ってきた。
弟子が、「どうしましょうか?」 と聞くと——
こういう意味のことを言った。
●私には、~しなければならない、と他人から強制されるべき義務などない。
しかし、それでは彼らをつまづかせることになる。
彼らをつまづかせないように、税金を払おう。
今、そこの川で釣り糸を垂れたら、魚が釣れるはずだ。
その口を開けたら銀貨が見つかるはずだから、それを彼らに納めなさい。
では、今日のまとめに入ろう。
①本来的には、先祖供養もお墓もいらない。
②なぜなら、名前のつく個人の正体は、神意識の仮の姿(ゲームキャラ)だから。
③でも、先祖供養を大事にする人の自由や喜びを奪うのは、出すぎた行為である。
④私は私。人は人。それぞれのワールドを大事にする姿勢をもとう。相手に合わせるのも愛。
⑤一番の先祖供養というものがあるなら、それはあなた自身が今を楽しく生きることである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます