Q&Aのコーナー第十九回「キライな人がいるのはスピリチュアル的にダメなの?」

 Q. 


 私にはずっとお世話になってきた方がいるのですが、その人は裏表のある方で、自分のことは一切喋らず(話の流れで自分のことを聞かれるとムッとして機嫌が悪くなる)、人のことは根掘り葉掘り聞き出して、その話を大きくして(時には話の内容を変えて)別の人に話し、その人の文句ばかり言う。

 でもその文句を言った人の前ではその人をおだてて、褒めたたえる。

 その方とは、これからもそれなりにお付き合いが続いていきそうなのですが、その方は私の何らかの意識の投影なんだと思います。でもどうしても腑に落とせないため、その方を嫌いになってしまいそうなのです。

 でも今の私があるのはその方のおかげでもあるので、感謝しているし、嫌いにはなりたくないです。どう折り合いをつけて、お付き合いしていけばいいでしょうか。



 A.キライになる=良くない事→罪悪感、という流れを断ち切りましょう。



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 人を嫌いになることを、悪いことだと思っていませんか?

 好きな人とはたくさんの時間を一緒にいたいと思うけれど、生理的に受け付けないタイプや、ウマが合わない、話がかみ合わない、趣味が合わない人とは、できればあまり一緒にいたくない、と思う。

 そうしたものが、その人の「好き嫌い」というものになる。

 そこを突いて、多くの世間の情報が攻撃をしてくる。

 まず、ひとつ思い込みを壊そう。



●すべての人を好きになるべきだ、というのは暴論である。 



 これは、キリスト教などの思想を、誤ってとらえることによって起こる認識の歪みである。確かにイエスは、『なんじの敵を愛せよ』と説いた。

 そして、言葉だけではなくそれを身をもって示すような生涯を生きた。

 最後には、全人類のために十字架にかかった、と言われる。

 


 そういう聖書的な教えのもとでは、どういうことが言われやすいか?

 すべての命は、尊いのです。

 かけがえのないものです。

 ですから、誰かがキライなどという思いは、あなたの正しい心から来るものではありません。あなたが嫌うその人も、世界にひとつの命なのです。

 キリストがその人を愛するように、あなたも愛するのです!

 イエス様は、その人のためにも十字架で死なれたのです。

 ……と、こう来る。



 決して、間違ったことは言っていない。むしろ、正論だ。

 しかし、ここでひとつ、ハッキリさせておきたい定義がある。



●人を愛することと、好きであることとは別である。



 ここを間違うと、嫌いな人がいることに罪悪感を感じ続けることになるのだ。

『人を愛する』という時、ベタベタした愛情関係だけを連想してはいけない。

 その人はその人としてのかけがえのない価値があることを認め、尊重すること。

 理屈抜きに、無条件に、その人が存在するというただその理由だけで、いざ困っていれば手を差し伸べ、助けてあげること。

『人が好き』という時、それは決して無条件ではない。

 様々な自分流の条件に適合した人物に目を付け、数十億いる人間の中でも特に執着したい人、他より長い時間を一緒にいたい人を決める行為である。

 これは、誰でもいいわけではない。限定された人数になるのが、普通である。

 筆者は、前者の『人を愛する』というスタンスができてれば、それでよいと考える。その上で、誰をより『好き』になって、くっつくかというのがあるだけで、それはもう趣味の世界であるから、好きにすればよい。



 この世界は二元性の世界であり、何事も陰陽のバランスで成り立っている。

 好き嫌いも、実はこの陰陽の範疇で考えることができる。

 つまり、陰と陽の両極が必要であるように——

 好き・嫌いの両極があることは、必要なのだ。



●嫌い、ということを悪いととらえるのは、間違い。 

 


 例えば、ロールプレイングゲームを開始する時に、あなたが初期キャラ設定で、筋肉ムキムキの戦士タイプを選択した、とする。

 ゲームを開始して様々な武器アイテムを入手するだろうが、あなたは大型の剣や斧、槍など、一度の攻撃で大きなダメージを与えられる武器を、好んで使うことになるだろう。

 なぜか? それがしっくりくるからである。キャラに合っているからである。

 それは、好き嫌いだろうか?

 短剣(ダガー)や弓、投擲武器に対する差別か?

 そんなことを思う人はいないはずである。

 逆に、華奢で見た目の美しい女性キャラや、エルフ族などを選択した場合。あなたは、力こそないが身軽さを生かした飛び道具(弓)や短剣を好んで使うはず。

 なぜなら、そのほうが効果が上がるからだ。キャラに合っているからである。

 それは、好き嫌いか?両手剣や鈍器に対する差別か?

 違いますね。

 本来、好き嫌いなど、その程度のものでしかないのに——

 下手に、嫌い(それを採用しない)なことを良くないとする文化(常識)を発明してしまい、それが歴史の中で、人間のDNAレベルで定着した。

 宗教的倫理観ともあいまって、嫌うことに罪悪感というガン細胞が紛れ込み、話を余計ややこしくした。



 だから、一定の傾向の人を好み、一定の傾向の人を苦手とし避けることは、悪いことでも何でもない。むしろ、自然である。

 これを何とかしようとする宗教的教えがあるなら、それは自然のバランスを崩す行為である。

 だから、「嫌いな人がいるのは悪いことだ。私の心の未熟さが原因なんだから、頑張らなくっちゃ!」なんて思う人は、だんだん心を病んでいく。

 


 皆さんは、『ルパン三世』というアニメを知っていると思う。

 あれに出てくる、ルパン三世と銭形警部の関係に学べばいい、と思うのだ。

 この二人は、基本的には敵同士である。泥棒と刑事。まさに犬猿の仲。

 まったく、お互いを好き合っちゃいない。

 でも、驚くことに。

 たまにではあるが、どうしても協力しなきゃ今直面している事態を変えられない、となった時。この二人は、いつもの刑事と泥棒と言う垣根を乗り越え、意外と良きパートナーとなることがある。

 で、事件が一件落着したら……



『待て~ルパ~ン~ 逮捕だぁ~~』

『や~だね!銭形のとっつぁん、あばよ~』 



 このように、いつもの嫌い合う関係に逆戻り。

 これなんですよ!

 あなたにキライな人物がいる時。

 キライでいいんです!

 別に、相手が憎いとか、殺してやりたい、とかまではいかないですよね?

 そうなったら、また別の話になってしまうので、ここでは扱わない。

 私が言っているのは、殺したいとか相手が不幸になればいい、なんて次元まではいかないが、何となく相手と合わないし、一緒にいても楽しくないので、できれば会いたくない、という次元のことである。

 そのレベルは、思って当たり前。

 どうか、罪悪感に負けないでください。堂々と、胸張って言いなさい。



●私は、~さんがキライです!



 どうです? すっきりしましたか?

 でも、それだけではいけません。こう付け加えてください。 


 

●でも、~さんも愛されるべき、かけがえのない存在であると認めます。

 だから、何かあれば迷わず手を差し伸べます。

 でも、平時は……ごめんさない。

 あまりあなたと関わらない選択をさせていただきます!

 キライだ、という感情も押さえつけないでいい自由が、私にはあります!



 これで、いいんです。

 あなたがその人をキライだからって、どうってことありません。

 その人だって、神です。

 その人の人生は、その人自身が何とかします。信じてあげてください。

 あなたが嫌うことで相手の人生に申し訳ない影響を与えるのでは? と考えるのは傲慢です。あなたは、一体何様でしょうか。あなたは、相手よりもすごくて、偉いのでしょうか?



 最後にもうひとつ、補足を。

 質問者は、嫌いになりそうなその人物に対して、「私の何らかの意識の投影」ではないか、と考えているようです。決して、その発想自体は間違いではありません。そういう場合もあるでしょう。

 しかし、もうひとつの可能性も考えられます。

 それは……『カルマ』です。

 質問者の過去の無数の転生経験の中での、未消化な人間関係上の課題が、アンカー走者である質問者の人生において再現されたのでしょう。

 それが、質問者の三次元ゲームにおけるミッション (初期課題設定)になったのでしょう。だから、質問者の自我意識に何らかの問題があって、このような問題のある人が出現した、というわけではないかもしれない、ということです。

 つまり、質問者にはなぁ~んも非がないのです。

 だから、「私がここで代表してゲームクリアしてあげるんだからね!恩に着なさいよっ」くらいに思ってもいいのではないでしょうか。



 そう考えると、発想の転換ができますね。

 あなたに問題があって、いけすかない人が出現したのではない。

 それどころか、あなたは過去生の代表、アンカーとして、全てを勝利で締めくくる大役を果たしている。

 すごいじゃないですか。胸張っていいと思います。

 あなたのすべきことは、無理矢理に嫌いな人を好きになることではない。そんなことよりも、あなた自身が喜びを中心として生きれているか、の方が大事です。

 どうか、これからもイヤな人はイヤなままに思っといて、そっとしてください。

 無理に好きになる努力をする必要はありません。したかったら、別です。どうぞ頑張ってください。

 同じ人間のよしみで、いざという時には必ず助けの手を差し伸べる、という覚悟のもとで、嫌うのです (笑)。

 もし、仮にあなたの中に本当に「嫌い」という感情が一切無くなったとしたら……

 あなたは、陰陽の二元性を超越するので、もうこの世に存在できません。

 だから、この世にいながら「私には嫌いなものがありません!」などと公言する人は、どんなに人格者であってもニセモノです。

 もしくは、好きと愛するの区別に関して、きちんと説明しない人です。



 筆者にも、あまり話ししたくないなぁ、という人はいます。

 でも、私はその人も神だと思い、自らの力で幸せになれる人だと信じています。

 それで、十分なのです。

 では、今日のまとめに入りましょう。



 ①愛する、と好きは違う。ここを押さえないと、真面目な人ほど苦しむ。

 ②好き嫌いは陰陽のバランスなので、あってもよい。

 ③嫌いでもいいが、その存在の価値性は認め、何かあったら手を差し伸べる腹積もりはもっておく。

 ④嫌いな相手の出現はカルマかもしれないので、自分のせいかも?と気に病まなくてよい。

 ⑤むしろ、過去生が果たせなかったことを私がやるんだ!ということで誇りに思ってよい。

 ⑥その使命の果たし方は簡単。相手を無理に好きなることではなく、自然な感情のままあなた自身が喜びに生きればいいだけ。

 ⑦嫌い、という感情は二元性卒業の最後まで無くならないので、気に病まないこと。



 どうかこれからも、あなた自身の『銭形のとっつぁん』と、よろしくやってくださいな。

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