無防備こそ最大の防御

 とかく、この世で生き抜いていくのは大変である。

 戦争のある地域もある。

 家にカギをかけ忘れたら、泥棒さんが入ることもある。

 旦那さんが突然死んだらえらいことだから、生命保険をかけておこう。

 ガンなんてなられた日にはお金が大変だから、ガン保険にも入っておこう。

 将来何があるか分からないから、今のうちから積み立てて、貯金もしっかりしておかなくちゃ——



 この世では、自分の住んでいる世界が『物騒』だと考える。

 油断したら、お金をだまし取られたり事件に巻き込まれたり冤罪に遭ったりする、危険に満ちた世界だと思っている。

 人によっちゃ、こんな世界に子ども産んでも先行き考えたら可哀相だと、産まない夫婦もいるとか。

 それはちょっと極端かもしれないが。

 世間の人は大体似たり寄ったりではないか。

 日々、世間の脅威から自分を「防御」して生きている。

 様々な手段を講じて、被害をかぶらないように努力している。



 さて、ここから常識を壊す作業に入る。

 まず、解除すべき世間の「思い込みプログラム」がある。

 それは——



●自分の外側に、自分を傷付け攻撃できるものがあると考えていること。



 これがまず、錯覚だと知らねばならない。

 結論から言えば、「そんなものは存在しない」。

 これまで本書で述べてきた通り、あなたは「神」である。

 私も、そして他の人も、みんなそう。

 この宇宙を開いた、この世界のあるじなのである。

 永遠であり、絶対である。

 だから、神であるあなたや私を本当の意味で傷つけることなどできない。



 確かに、一見傷つけられるように見える。

 力の強い者が、弱い者の優位に立ち、大切なものを奪っているように見える。

 えっと、それ、錯覚ですから。この書の一番最初の記事で話題にしましたが、『人生とは、テレビゲーム』なのである。

 あなたの肉体と、「佐藤誰それさん」という人格と自我は、テレビゲームでいう「操作されるキャラクター」である。やられたら(現実舞台では、寿命が来たり殺されたり病気で死んだりしたら)ゲームオーバー。キャラクターが死んでも、ゲームやってる人は痛くもかゆくもないでしょ?

 操作するキャラのダメージや生死が反映するゲームなんて、怖くてできない。

 だから、ゲームオーバーになっても

『ああ、ミスった! じゃあもう1プレイやるか!』

 その程度のノリである。

 これが、この現実の人生である。それが分からないから、みんな深刻になりすぎて、愛憎のゲームを展開しているのだ。

 あなたの正体は、肉体のゲームキャラの方ではなく、それを操作している側の別次元の意識体である。それは永遠で、完全な存在である。

 


 えっ、じゃあなぜ私たちはその意識体だって自覚できないの?

 そういう質問が聞こえてきそうである。

 この宇宙という物理次元を超えた、別次元の意識体は、あえて自分の自覚を封印したのだ。だって、自分が絶対だって分かってたら 「面白くないから」 !

 例えば、これから見に行く映画のオチとか細かいストリーを聞かされてごらんなさいな。興味が削がれて、イヤになっちゃうでしょ?

 アクション映画ならまだしも、推理物やサスペンス系でネタバレされると、きついものがある。

 自分が完璧で、結局世界で何が起こっても屁ほどにも本当の自分には影響がない、と分かったら、情熱が湧かないでしょ。何やっても価値は同じだし、何されても痛くもかゆくもない、と分かってしまったら、ハラハラドキドキも存在しない。

 だから。あえて、自分を「制限」し、その記憶まで封印した。

 で、この世の「人間として一生を生きるゲーム」に身を投じたのだ。

 そのからくりが「あ~分かっちゃった~」となったのが、いわゆる「悟りを得た人」である。



 ACIM(奇跡のコース)という教えでは、こう説明している。



 ある時神の子(神と一体。創造された側という違いだけで神に等しい)は、「もし、自分が神から離れたら? 自分だけで、やっていけたら?」などと考え、それまでは完全・絶対・永遠であった世界に「二元性の世界」、つまりこの宇宙を作ってしまった。それが面白くて夢中になっているうちに、自分がもともと完全であり、永遠であることを次第に忘れてしまった。

 つまり、森に遊びに入った子どもが、迷子になって家へ帰れなくなったのと同じである——。



 一応、参考まで。

 私は、どちらかというと、



●完全・永遠・絶対だったものがその状態に飽き飽きして、喜びを求めて自分を不完全・有限・相対的なものに限定し、あえて波乱万丈のゲームに乗り出した



…という考えの方がしっくりきている。



※筆者注:私が「くう」と呼ぶ一元性は、意志も自他という概念もないから、何かを作ろうとしない。だから、この世界を創ったのは空ではない。

 なぜだから分からないが、突然非二元の中に「二元」がある日突如として誕生し、その最初の「自意識を持った者」がこの世界を創造した。

 完全・絶対の「無」から、なぜ「有」が生じたかは永遠の謎である。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 ここで、一部の人は思考の罠にはまる。

「何が一番正しいの?」という。

 家政婦のミタさんから、そんなあなたにアドバイス。



●それは、あなたが決めることです



 ……えっと、そういうことで。

 こういうのは、どれが正しいって聞いたから、それにしよ、ってものではない。

 答えはすでに、あなたの中にある。

 人の意見は、参考にすることはあっても、それに決定権を与えてはいけない。



 話をぐぐっと、もとに戻しまして。

 結論として、私たちは今まで自分が「人間肉体の誰々」だと思い込んできたから、殺されたら死んで消えるし、弱いから自分で防御しないと、って思ってきた。

 でも、自分は本当は死ぬことのない、永遠で完全な存在で、この世界には「ゲームをしに来ている」と分かったら、ある生き方が可能になる。それは——



●無防備な生き方



 ……である。

 さて、新時代の新たな常識。



●無防備こそ最大の防御



 だから、常識はその逆になる。



●攻撃は、最悪の防御

 防御は、最低の防御



 攻撃するということは、相手(敵)を想定している。

 本当の意味で敵などいないのに、神であるあなたが敵を「いる」と信じ「創造」してしまう。永遠の独り相撲、というループに陥るのである。

 また、防御するということは、自分は攻撃されている、つまり「他者が自分を攻撃できる」と、この宇宙のボスであるあなたが神の権限で宣言し決めてしまうことになる。 



 だから、無防備に生きるということは、自分を、この世界を信頼しているということの証なのだ。

 怖い怖い、と思っていたら、信念の通り怖いことがあなたを襲う。攻撃や防御をすると、実はそのために必要な敵や問題ごとややっかいごとを「作り出してしまう」のだ。このからくりが分かれば、問題を外に見て攻撃したり、お~怖い怖いと防御手段を講じてしまうのが、バカらしくなってくる。

 無防備。それはこの宇宙を信頼しているよ! というメッセージなのだ。

 ならば、宇宙も愛でもってそれに答えてくれる。



 無防備な生き方のひとつの例をあげると、『風の谷のナウシカ』 。

 劇中、人から銃で撃たれそうな状況で、両手を開いて無抵抗の姿勢をとった。

 ラストシーン。 王蟲の群れにふっ飛ばされそうになっても、眉ひとつ動かさず、逃げもしなかった。

 あと、 『あしたのジョー』 のノーガード戦法。

 ……って、これはやっぱり違うかも?? 



 ですから皆さん。

 恐れを手放しましょう。自分の外部の何かが、自分を傷つけることができる、という信念を解除しましょう。

 心配を手放しましょう。

 この宇宙を、偉大なワンネスを、もっと信頼しましょう。

 人を見たら泥棒と思え、なんて教わってきたかもしれません。

 でも皆神に等しい存在で、あなたのこの世でのレッスンのために、わざわざ現われてきてくれたのです。

 ありがとう。そう一言伝えて、あるがままを楽しんでください。

 そして、素敵な創造をしてレッツ・エンジョイ・この二元性の世界!

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