それは業務命令でしょうか?
古い話で恐縮だが、『家政婦のミタ』というドラマが大変話題になったことがあった。かなりの視聴率を叩き出し、社会現象ともなったほど。
私は普段テレビを見ないので、知人が話題にしたことから「何それ?」ってことで知った。興味をかき立てられた私は、ツタヤにDVDを借りに行った。
悟りを開いた人は俗的なものに興味湧かないし、見聞きもしないなんて、ウソだ。
インドの山奥で修行して(レインボーマンか?)、倹約質素。エッチも興味ないなんて、古い。それはいつの時代の「悟った人」像か。
イエス・キリストも、聖書に「大酒飲みで大食漢」と言われた、と書いてある。そこんとこ、クリスチャンは見逃さないでいただきたい。
悟りの第一義は、この世界を超越するとか、俗的なものに興味が湧かなくなるとか、そんなカチコチカッチンお時計さん、みたいなものではない。
『私は何?』という疑問に関する、永遠に満足する答えを得ること。
そして、一切の真理探究がやむ。だってもう分かっちゃったから。
やることはと言えば、本当の喜びをもたらしてくれることだけ。
だから、有名人の中よりも、そのへんのフツーのオジサンオバサンに見える人の中のほうが、悟った人って多かったりすると思う。
でも……『家政婦はシタ』というパロディAVまで存在することを知っている私って、どうよ?
※言い訳は「知ってるだけで、見てません!」
友蔵 心の俳句
ちょっと、話がそれた。元に戻しまして……
家政婦のミタを全話ミタ。(シャレではない!)
なかなか面白かったし、テーマも結構いい所を突いている。
知ってる人は多いと思うが、知らない方もいるかもしれないので、ちょっとだけストーリー紹介を。
複雑な事情のゆえに崩壊寸前の家庭があった。
その家では母が死んでしまったので、家事のために家政婦を雇う。
家政婦紹介所から派遣されてきた家政婦は、かなり風変わりだった。笑わない。ムダ口はゼロ。そのかわり、仕事ぶりは超一流。まるで家政婦ロボット。
そしてこの家政婦、命令されたことはどんなことでもやってのけてしまう。
文字通り「どんなことでも」である。
極端な話、「人を殺せ」と言っても本当に実行しようとするのである。
このドラマの面白いところは——
この家政婦が、最終的には崩壊しかかっていた家族を立ち直らせるところ。
お説教、正論の押し付け、一切なしで。
やったことはと言えば、相手の言うとおりに行動するだけ。
例えば。
女子高生の長女は、嫌なことが重なって、投げやりになり——
死にたくなった。そこで、ミタさんに頼む。
「ミタさん。私を殺して!」
それを受けてミタさんは、顔色ひとつ変えず
「承知しました」と言って、包丁を構えて突進していく。
冗談などではなく、ミタさんは真剣なので、本当に殺されると知った長女は
「やめて、お願い!殺さないで」ということになる。
これでこの長女は、「命のレッスン」を見事履修したことになる。
ここに押し付けは一切ない。
普通は、「あなた、死ぬなんて言っちゃダメでしょ? そんなバカなこと考えないで、一緒に生きる道を考えよ。ね? ね?」とか言ってしまうと思う。
でもそれって、一番ダメダメな説得の見本。
正論だけど、そこに魂がないから、相手の心は動かない。
実はこのケースでミタさんがしたことは、「本人自身に気付かせる」結果になっていた。下手に命の大事さを説教せず、マジで殺しにかかることで、本人が死と向き合いウソではない「生きたい」という気持ちを確認することができたのだ。
また、下の弟のケースでは、いじめっ子を殺してくれ、と言ったら本当に殺しに行ったので……追いかけて、いじめっ子をかばうことになる。そして、弟くんも成長する。
このドラマから学べることは、ふたつ。
●他人に対する強制は一切必要ない。それがなくても、人は育つ。
真理とは、人に押し付けるものではなく、自分が実践するものである。
思うに、この世界は、他人に対する信頼がなさすぎる。
大人は子どものことを信頼しておらず、様々な決まりごとやスケジュール、これこれをしないと、守らないと社会で生きていけないぞ、と脅す。
大人は子どもを守ってやっている気になっているが、子ども自身からしたらどうか。学級崩壊も、いじめも——
「もっと尊敬できる大人でいてくれよ! 背中で教える大人にいてほしい!」
そういう、心の叫びから生まれているのではないだろうか。
宗教なんかも、よく間違いを犯す。
自分の信じている内容が真理だと自信を持っているので、自分の内容は棚に置き、人を伝道しだす。その際に、自分の得た知識を大上段から振り下ろす。
結果、相手は不快な思いをしただけで終わり、その宗教を信じたいとも思わない。
だって、その人見てたら、「救われてそんななの?」と思っちゃうから。
おかしな使命感に囚われた宗教人は、そこのとこ見失って、アチャーな人になる。
それで人から拒絶されたら、「ああ、かつて正しい聖人も迫害されたのだ! これも感謝して乗り越えよう!」で、さらに頑張っちゃう。
こうなると、末期的である……
世界を変えようと躍起になる宗教は、「自分のこと<他人のこと」になってしまっている。人を変えようとするばかりで、自分が成長しきっていない宗教者は多い。
●宗教でも、子育てでもそうだが。
強制って、ラクなの。
楽だから、ついつい頼っちゃう。
でも、頼りすぎると後でツケを払うことになる。
相手は、宇宙一素晴らしい命であり、愛そのものなのだ。
だから、そんな素晴らしい存在に対して失礼なやり方をすれば……
結果は押して知るべし、である。
あるお坊さんの話。
死期の近いおばあさんの話し相手になっていた時。
おばあさんが、真剣な顔で、こう聞いてきたそうだ。
「和尚さん、私は死んだら極楽に行けるでしょうか? できれば、行きたいのです。きっと、極楽はありまあすよね、行けますよね、ね?」
このお坊さんの宗派では、死後の世界について信者に軽々しく話してはいけない、という決まりごとがあった。それを思い出したお坊さんは、どう答えるか悩んだ。
悩んだ末に、決断して、こう答えたのだそうだ。
「おばあちゃん、当たり前じゃないか。極楽はあるとも!
おばあちゃんみたいないい人が、行けないはずないじゃないですか!」
それを聞いたおばあちゃんは、穏やかな顔になって喜んだ。
そして数日もたたないうちに、亡くなられた。
さて、このお坊さんのしたことはよかったのか?
普通なら、「規則ですから」といってその話題を敬遠するかもしれない。
それでは、「規則ですから」とマニュアル通りの対応しかできないバイト店員だ。
または正直に、「あるかないかは分からないんです。無責任なことは言えませんのでー」と言う?
正直も、時と場合によっては愚かとなる。
私が思うに。このお坊さんは、最高の選択をした。
正しいとか間違っているとか、筋がどうこう、などを選択の尺度にしなかった。
ただ、相手の魂に寄り添う、ということをした。
そのお坊さんは後日語っている。その宗派の教えから言えば自分は間違ったことをしたのかもしれないが、おばあちゃんのあの救いを求めるような目を見たら、反射的に言葉が出てしまった、と。極楽はある、あなたは行ける、と言い切ってしまった。
その時、自分はどんな責任でも取る、と決心の上言ったのだそうだ。仏様の前に出されても、堂々と申し開きをする覚悟で、おばあちゃんが一番欲しい答えを、与えてあげたのだ。
このお坊さんにしても、家政婦のミタさんにしても。
共通しているのは、正論を盾にしてお説教をしなかったことだ。
この世界では、相手の人格を無視して真理が、決まりごとが、押し付けられている。押し付けるほうの内容は棚にあげて。
そして、他者を「自分がなんとかしなければ、ダメになる」と決め付けて、世話を焼こうとする。
実は、こういう法則(チックなもの)がある。
●医者は、存在することで病人を生み出している。
福祉に力を入れることは、福祉でお世話になる人を生み出すことになる。
宗教が頑張ると、救われなければならないような問題のある人が生み出される。
これ、需要と供給の関係のようなものだ。
問題を問題だと思い、解決する行為に走ると——
解決して問題をなくすのではなく、新たに問題を生み出して解決し続ける、というループに陥ってしまう。
医者だって、食っていかなきゃならないから、病人がいなきゃ困る。
歯医者も、みんなが歯磨きをして虫歯にならなくなったら、困る。
警察も、誰も悪いことをしなくなったらいらなくなり、成り立たない。
それが、「問題を解決して稼ぐ」世界の限界だ。
だから、自分の仕事がなくなる覚悟でやる人は、本物だ。
自分の体裁や物質的満足より、もっと大切な「喜び」「夢」に生きるのだから。
今日の結論。
●他人への強制は必要ない。
他者をどうにかするより、自分が変わることの方が重要。
真理であろうが正論であろうが、他者に押し付けたとたん価値はなくなる。
規則や常識に囚われず、相手の魂に寄り添う援助を!
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