悪魔は存在するか?
今日の話題は、「悪魔について」である。
簡潔に、まず結論を述べてしまおう。
●悪魔は、存在しない。
悪魔がいる、としているキリスト教には申し訳ないとは思うが……
特にカトリック教会は、「エクソシスト(悪魔祓い師)」という役職まである。
いもしない悪魔を、真剣に祓っていらっしゃるので、本当にご苦労様である。
そういうエクソシストを養成する専門学校まである、ってんだから驚きである。
悪魔とは、人間の罪意識と宗教的恐れが生み出した「空想の産物」である。
皆さんの中で、悪魔に出会った人、います?
私は、ない。いないと言っている張本人なのだから、当たり前だが。
いたら、連れてきてほしいくらいだ。
全然、身近ではないよね……
ホラー映画で、悪魔祓い関係の映画があって、これは実話に基づいていますよ、みたいに言う。
それを見て、おーこわ!と思う。でも、考えてみて欲しい。
悪魔にはものすごい力があって、本気で神に対抗しこの世をどうにかしようとしているなら。悪魔がいて、彼に従う悪霊軍団(ヤクザで言えば、親分のために体を張るチンピラのようなもの)が無数にいるのなら。
「なまぬるい!」と思いません?
私は生まれてこの方、悪魔に出会ったことも声を聞いたことも、霊的に「あ、いる!」と感じたこともございません。
宗教を熱心にやっていたから、ある意味悪魔の嫌うようなことをいっぱいしてきたはずなのだが。
ブラックリストに載って、狙われてもおかしくないはずなのだが。
今日も私はのほほんと、楽しく暮らしている。
その上、「悪魔なんていない!」と悪魔さんが聞いたらカチーンムカーッとくるようなことを言ってるんだから、私こそ一番に犠牲になりそうではないか!
「何だとおおおお!
この冥界の王者たる私に向かって、いないだとぉ?
この無礼、ゆるさでおくべきか!
恨み晴らさでおくべきか!
サツガイせよ サツガイせよ」
……何かDMC(デトロイト・メタル・シティ)になってきたな。
とにかく。
甘すぎる。
私だったら、こんなに悠長にしてないよ。もっと本腰入れて、世界を恐怖のどん底に陥れるね。
「悪魔?はぁ、ホントにいるの?」なんて一般市民に言われるのは屈辱だろうに。
だから、実力主義・成果主義の資本主義社会の基準で言えば、悪魔は社会人としては「ダメな子」である。『もっとがんばりましょう』というハンコをノートに押される小学生と同じってことだ。
だから、「こりゃいないんでね?」ということだ。
一応誤解のないように言うと……
私は、論理的に考えていないからいないと言っているわけではない。
一種、霊的なものだ。宗教では啓示と言ったり、スピリチュアルではチャネリングといったりする、アレだ。
理屈ではなくて、そう教えられたわけだ。
でも、ここで皆さんにお伝えするに当たって、「そう聞きました!」とだけ言っても、説得力に欠ける。
だから、こうして私なりに考えてみているだけである。
皆さんは、映画 「エクソシスト」 を見たことがあるだろうか。
私は、ホラー映画というよりも「名画」だと認識しており、何度も見た。
似たようなので、アンソニー・ホプキンスの 「ザ・ライト ~エクソシストの真実~」 というのがあった。
どちらも、ある程度実話に基づいている、としている。
さて。
実際あったらしいから、悪魔はやっぱりいる。そういう思考パターンになっていませんか?
スピリチュアル的に考えるなら、こうだ。
●思考は現実化する。
その人の信じているものが、その人の世界を作る。
だから、風土的に、悪魔を受け入れやすい、信じやすい環境にいるかどうかとか、本人が強烈な罪悪感を植えつけられる経験をしてしまったか、ということなどが影響して、結果としてその人の信念がその人の現実をつくることになる。
結論から言えば、悪魔がいるとしか考えられないような事件があったから、じゃあ即この世界には悪魔っているよね、他のみんなにとっても深刻な問題だよね、という発想は間違いである。
そうではなくて、それは悪魔がいると考え、その思考を現実化させたその人たちにとってだけリアルに存在し得た、というだけの話!
それを証拠に、村全体が悪魔にのっとられたとかいう話は聞かない。
一軒の家で悪魔に取り付かれた人が出たなら、普通せっかく遠方まで出張ってきたんだから、ついでにもう二・三軒両隣くらいは侵略していこう! とか思うはずであるが、それもない。隣の家の住人にも悪魔の手が伸びた、なんて話は聞いたことがない。悪魔には、「向上心」とか「意欲」がないとみえる。
ダメダメさんである。
仮に百歩譲って、悪魔がまぁいるとしよう。
エクソシズムで戦って、悪魔を追っ払おうとか、神の力で悪魔に勝とうとか、もってのほかですよ!
常識的な発想として——
悪魔とは、敵である。倒さねばならない、とんでもないやつである。
間違っても、仲良くしようなんて発想にはならない。
エクソシスト系の映画は、みんなそれだ。
聖水ぶっかけたり、聖書の言葉を読んだり。
「イエス・キリストの力が汝を滅ぼす!」なんて叫ぶ。
神父は、悪魔をぶっ倒す気まんまんである。
わかってないなぁ。
そんなの、一番やっちゃいけない。
戦う、ということは根本的解決にならない。
さて、ここで現代の新しい知恵。
●悪のように見える存在、敵と見える存在に対する最善の対処法は——
赦し、愛し、抱きしめること。
相手も私だ、と認め、ひとつになる(統合する)こと。
話は変わるが、邦画ホラーで『貞子・3D』というのがあった。
世間的評価は、散々なものがあるようだが……
今の世の、悪に対する対処のまずさを露呈する場面があって面白かった。
(以下、ネタバレします)
クライマックスシーン。
貞子が、主人公と二人きりで対峙する。
貞子が、言う。「あなたは、私。私は、あなた」
その時、私個人は心でこう思った。
そこ!
「そうよ、私はあなたよ。あなたを赦します。だからもう、恨みのエネルギーを残すのは、やめよ?」
……って言うんだああ!
そして、思いっきり貞子を抱きしめろおお!
ヽ(`Д´)ノ
そう思ったのだが、映画の方はやっぱりそうはなってくれなかった。
「私は、あなたなんかとは違う! 理不尽な目に遭ったからって、人を巻き込んだり傷つけたりはしない!」
で、結局戦っちゃうのね。貞子と。
勝つんだけど、貞子の恨みの感情はとけないままだから、一時的に撃退できたというだけで、またそのうち復活してしまうことになる。
まぁ、映画の続編を作りたいだけなのかもしれないけどね……
私は、この地球の大転換期に当たって、本当に願う。
どうか、悪を敵と思って戦ったり、排除しようと思わないで欲しい。
彼らは、「愛されることによって解放されるべき存在」なのだ。
この世界は、二元性の世界であることから逃げられない。
高さがあれば低さがあり、男がいれば女がいて、光があれば影があり、強さがあれば弱さがあり……全部、陰と陽のペアになっている。
だから、善悪がある。どちらかをなくしてしまうことはできない。
できるが、それをした日にはこの世界は消滅する。
だって、二元性じゃなくなるもん!
だから、ACIM(奇跡のコース)というイエスの教えでは、全人類が覚醒した日には、この宇宙(二元的世界)は消滅する、と教えている。もう二元性を超えるので、用をなさないからだ。
だから、この世界でお世話になる限りにおいては——
礼儀として、悪も認めないといけない。
両面あってこの世界は成り立っているのだから。
善と悪、どちらか一方だけを受け入れるというのは、この物理次元で生きていく上ではバランスを欠いた行為なのだ。
誤解のないように、言っておきたい。
悪を認めるということは、それを是とし奨励したり、自分も同じような行為に手を染めることを意味しない。
悪という存在を認めるというだけの話で、私は善の方がいいから善を選ぶのだ。
細かく言えば、そういうスタンスなのだ。
善がいいから悪はダメ、じゃなくて、この世界に両方あることは受け入れるけれど、私は喜びを動機とした時に、あえて選択するなら善だ、ということ。だから、悪を選んでしまった者を裁かない。それはそれで、あるがままなのだから、それをも認め、愛する。
結論。
最高の悪魔祓いとは、悪魔をやっつけることではなく——
愛して抱きしめることによって、ワンネスを感じること。
「あなたはわたし。あなたは、かけがえのない最高の存在よ」
そう言えた時。悪魔の仮面はぱっくりと割れ——
涙ぐんで喜ぶことだろう。
※編集後記
悪魔は存在しない、と言いました。
正確には、「悪魔」という役目、性質をもった存在がいないという意味です。
なので、悪魔であるとされる堕天使「ルシファー」が存在しなかった、ということではありません。詳しくは書けませんが、その存在は人類やこの世界に敵対的ではなく、どちらかというと「味方」と言ってもいいくらいの存在です。
※この記事は、別著「クリスチャンがひっくりかえる聖書物語」にも後日アップします。こちらも両方読まれる読者様には重複する記事となりますが、ご容赦ください。
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