価値判断を捨てる
今日の話題は、なかなか難物だ。
『一切の価値判断を手放せ』というものである。
この世界に身を置いていてそれを貫くのは、かなりきつい。
悟りを得たい(覚醒した人になりたい)と思って、色々努力されている人もいる思う。言っておきますが、悟ったら悟ったで、大変ですぜ!w
まず、日常会話からして問題である。他人に合わせるのが、一苦労である。
この世界で他者と会話していると……
8割がた、価値判断の話である。で、あと2割は、実務的なこと。
多いのは、ニュース。世の中が悪い。景気が深刻だ。政治家が悪い。
あと、人の悪口。
あそこの奥さんがね、あそこのお店のご主人がね……
まぁ、そうざんすの? 最低ですわね~
悪口ではなくても、人を褒めたり、持ち上げたりするものもある。
昨日のテレビ見ました?『世界を変える100人の日本人』!
世の中には、ああいう素晴らしい方もいらっしゃるのねぇ。
それに比べて、うちのダンナとぐうたら息子ときたら……
価値判断というものは、一見必要に見えるから始末が悪い。
おそらくこれは、この世界が変貌を遂げていく過程の中で、一番ネックになると考えても良い。だって、世のシステムを根底から覆すのが「価値判断の放棄」なのだから。もちろん、完全なる放棄を意味するのではなく、「一度捨てて、再びより望ましいものを得る」と言うほうが正確なのだが。
努力なんていらないとか、すべての物事の価値は中立だなんて言ったら、どんな人種が怒り出すかといえば……
●努力家。
実力があり、人並み以上それを磨いてきた人。
自分の力で頑張ってきた、という自負のある人。
冗談じゃない!
ここまで血がにじむような努力をしてきたオレと、「さんねんねたろう」なぐうたらなアイツの価値が同じだ、ってのか? バカにするなああ!
オレはあんなヤツとは違うんだよ! ザクとはちがうのだよザクとは!(?)
……とまぁ、息巻くかもしれない。
あと、実験して分かったことだが(おいおい、実験したのか?)
お年寄りほど、この考え方は腹に据えかねるらしい。
ぶわかもおおおおおん! てな感じか。
じゃあ、じゃあ、わしがしてきた苦労はなんじゃったのか?
あの大先生はあれだけ苦労されたからこそ、今の地位にいらっしゃるのだ! それをお前は、他より素晴らしくはない、などと言うのか?
……はい、言うんです。
腹を立てる人に聞きますけど、そんなにしてまであなたは何を守ろうとしているのですか?
その答えを正確に出せた時。その人は恥じ入って、何も言えなくなるなるだろう。
ここらで、いったん整理しておく必要があるかな。
新時代の知恵。
●一切の物事の価値が同じなら、あなたはあえて何をやります?
それが問われる。
すべての物事の価値が同じだ、と言ってしまえば、「どうせ何やったって同じなんだろ?」ということになり皆無気力になりかねない。
でも、だからこそ価値が同じなんだったら何を原動力にして意欲をもつかというと——
●喜び、しかない。
自分にとって楽しいかどうか、だけが行動の基準になる。
この世界の常識では、「良いこと」と言われる基準がありまして。
それを目指すことは当然、良いこととされる。
だから、人はそれがキライだろうが、楽しくなかろうが、「良いこと」なので、頑張ってやろうとする。なぜなら、それをしたら人から褒められるからだ。認められるからだ。
でも、そんな価値基準で行動していたら、ミイラになる。
生きるための歓喜のエネルギーが、枯渇してしまう。
学校の勉強だって、仕事だって、SNSやブログでの発信だって、そう。
人によっては、心からしたいというよりも——
●他者に認められたい・ほめてもらいたい・人より優れたい
という動機でしたりしてないだろうか。その場合、どうなるか。
たとえば、ブログでひと山当てよう、とする人がいるとする。彼は読者獲得に躍起になり、アクセス数や検索エンジンなどの対策を講じたり……
面白いのでは、自動で他のブログを巡回し、訪問履歴をつけてくれるソフト、なんてのまであったりして! そんなものにまで手を出して、他人に勝とうとする。
だから、うまくいかないと腹がたつ。
読者増えない、アクセス上がらない、ランキングで上位にいかない、自分のブログがなかなか話題にならない——。
そんな状況下では、特に出版を狙っていたり、ブログをネタにメシを食おうとしているような人には、心休まる時がない。いつもカリカリして、焦っているようなことになる。
え~っと、一体何をやっているんでしょうか……
ブログって、楽しいからやるんじゃなかったんでしょうか?
自分が自己表現をして。誰かがそれを喜んでくれて。
私もまた他者の自己表現を見て、自分では気付かなかった面を見て、喜ぶ。
それ以外に、何かいります……?
賢明な読者の方は、もうお気づきだと思いますが。
すべては、価値判断が存在することによって起こる悲劇です。
●宇宙に存在するものは、良いも悪いもありません。
すべての価値は「中立」。つまり同じなのです。
努力が素晴らしいとか、本物はニセモノよりも素晴らしいとか、確かにその通りかもしれません。
しかし、それは良い面ばかりではないのです。努力が素晴らしい、努力によって何かを勝ち取った人が素晴らしい、というのは、その考え方を使う場面によっては、ある意味暴力と同じです。
……そうできる人はいいでしょう。でも、頑張りたくても頑張れない人、心に問題を抱えている人、それこそ人それぞれ色んな事情がありますから。そういう人たちを「なまけもの」「弱虫」と一刀両断にすることになるのが、「人より努力して何らかの実績を出すことが素晴らしい」という概念なのです。
これらの元凶は、『価値判断』です。
私の父も、結構食にも芸術品にもうるさい人で——
一流品はほめちぎりますが、三流品はボロカスにけなします。
もうそれこそ、「人間じゃない」と言わんばかりの剣幕。
何でも鑑定団の中島誠之助も真っ青になると思います。
でも、考えてみてください。
じゃあ、三流品には存在する権利がないんですか?
それを創った人間の尊厳も価値もないんですか?
もっと努力せい! とか、そんなんだからあなたはとか、あんたそれでもファーストチルドレン? とか言わないで。
あるがままを受け入れ、認めてあげませんか?
そして、愛をもって「待つ」ということをしてあげませんか?
(何だか、スクール・ウォーズみたいなノリになってきた……)
長くなったので、そろそろ話をまとめてみよう。
皆さんに、お薦めしたい考え方がある。
あなたが何かをする時、自分に問うてほしいこと。
①それをすることで誰もほめてくれなくても、それをしたいか?
②たとえ他者があなたのすることを否定してきても、反対してきても、あなたはそれをしたいか?
この二つの条件をクリアするなら、あなたは宇宙の喜びの法則に沿って生きていることを証明していることになる。
この二つをクリアできない、ということは——
行為を純粋に楽しむことなどよりも、賞賛されることや見返りが欲しいというのがホンネだということ。そして、人からちょっと何か言われたくらいでくじけるのは、あなたがあなた自身の人生を生きておらず、他人にあなたの人生の決定権を譲り渡している、という何とも情けない立場にいるのである。
私の場合を言えば。
この記事を書くことで、誰も振り向いてくれなくても、読者が増えなくても、反響が無くてもいい。まぁ、ちょっと極端な言い方だが、要は「自分が書いてて楽しいから」やっているのである。だから、他者の反応で一喜一憂する必要がないので、精神的にチョー楽な状態で、私は執筆を楽しんでいる。
私とて、人間だ。ほめられたり、読者が増えたり、いいことがあれば、もちろんうれしい。そして、それをわざわざ「いらぬ!」などと拒絶するほどカンカチコンの頭ではない。
純粋に喜びから行動していれば、下手な小細工を弄しなくても、人は寄ってくるし認められるようになる(こともある)、ということだ。本来そこに一切のムリが必要ないのだ。
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