活動前期のメッセージ集(一般スピリチュアルと親和性の高い内容中心)

人生とは、テレビゲームのようなものである

 賢者テラ、と申します。

 今日から、私が現時点で到達した考えについて、書いていこうと思います。



 常識は、人を幸せにはしない。

 この世界の現状が証拠だ。

 もしも、今までに真理というものが出尽くしたのならば。これまで存在した宗教や思想、倫理道徳で十分であるのならば。

 なぜ、世界の問題が解決しないのだろうか。なぜ、個人の幸せがこんなにも侵害されているのか?

 今日から本書で書いていくことは、おおよそ常識離れしたことである。

 でも、筆者個人としては「だからこそ、いいのだ!」と思っている。

 


 例えば私は、「真理(正解)はひとつで、それに到達したら〇。到達しなかった人は×」という考え方を、かつては持っていた。

 私はこれまでキリスト教を熱心に信奉してきたのだが、その中で「この教えを信じた者は救われる。そうでにない者は、えらいことになる(地獄へ行く)」という発想が生まれてきてしまう。

 だからこそ、「それを信じていない人はかわいそう」という発想になり、さらに発展して「私たちがみんなを変えなきゃ!  救わなきゃ!」ということになる。

 だから何をするかと言えば、「布教(伝道)」ということになる。

 街頭で演説したり、チラシを配ったり。挙句の果てには、他人の家に訪問したり。

 ネットのブログやホームページでも、教えや信仰を広める目的のものが相当数あるように思う。



 私は、ここでそういう宗教団体が「悪い」とは言わない。

 彼らは彼らで、熱心に気持ちよく(?)やっているのだから。

 でも、ひとつ分かってほしいことはある。

 私は、これは絶対だ、という言い方はキライだ。

 でも、この宇宙に住んでいる以上、一定のきまりごとがあるのも事実だ。

 それをひとつ、ここで言うと——



●私は他人に干渉しない。

 他人もまた、私に干渉しない。

 


 これを守るのがよかろう、と思う。

 ちょっと注釈がいるかな。

 何でもかんでも、ということではない。もしそうだったら、日常生活すら成り立たなくなる。

 その人の思想信条、やりたいこと。その分野での話と思ってほしい。

 自分が何を信じていてもいいじゃありませんか。

 そして、人が何を信じていてもいいじゃないですか。その人が今、本当に幸せなのなら。そうじゃなくなったら、その時考え方を変えればいい。

 


 今までの考え方、つまり何かの信念を強く持つ人の頭の中の常識では——



●この世界には、解決するべき問題がある。だから、私たちが何とかしないといけない。


●私は正しい。間違っていない。だから、間違っているあの人を何とかしないと!



 ……である。でも、そんなことだから押し付けまがいの干渉や説得が存在し、考え方の違いから戦争まで起こる。

 宗教を信じている人は信じていない人をおせっかいにも「なんとかしないと」と奮闘し、そんなことちょっとも望んでいない人たちからすれば「私って、救われないといけないかわいそうな人、ってこと?  大きなお世話!」と思ってしまう。



「冗談じゃないわよ。私はぁ、あなたに、あるいはあなたの信じている神様に救ってもらわないといけないほどかわいそうでもな~んでもありませんよぅ! 間に合ってますからぁ!」



 ……そんな声が聞こえてきそうである。



 さて、新時代への提言。

 すべての人は、その存在だけですでに「完璧」である。問題などないし、変えないといけないところなどない、ということ。

 仮に、この世界を創造した神様がいたとしよう。

 その神様は、「完全」であり、「永遠」である。

 とすれば、その神様が創った、あるいは「生み出した」ものはどうなる?

 やはり、「完全」であり「永遠」なはずだ。

 ゆえに、論理的に「人間は完全であり、死なず、なおすところなんかない」ことになる。

 


 人間の親でも、子どもには最高のものを与えたいと思う。

 もっと言えば、自分よりもっと良くなって欲しい、とすら思う。

 悪人ですら、自分の子どもには良いものを与える。

 人間の親ですらそうなのだ。

 神様が、人間に自分のすべてを与えないはずがあるか?



「私は全知全能で絶対だが、私の子どもは欠陥だらけにしておこう。不完全にして、努力しないといけないようにしておこう。私は永遠の存在だが、人間は100年そこそこの限りある命にしておこう。死ぬように設定しておこう」



 そんなの、神様じゃない。

 確かに、一見人間は永遠でも、絶対でもない。

 でも、それは「そのように見えるだけ」である。

 実は、完全であり永遠なのである。

 保証してもいい。

 あなたが死んだ瞬間。あれっ、て思うと思う。

 消えてないし。ケースバイケースだろうが、たいてい「生きている時とさほど変わらない自分」を見出すだろう。肉体の死は、魂の永遠性に何ら影響を与えない。

 


 完全で永遠なのに、なんで今のような人間ゲームをしているのか?

 皆さんは、テレビゲームを楽しんだことがあるだろう。

 もし、「まったく失敗のありえない」ゲームだったらどうです?

 ゲームオーバーになる危険もなく、敵も一切出てこない……

 そんなクソゲーム、やりたいと思いますか?

 困難があり、障害があるからこそ乗り越える楽しさがあるのでは?

 ボスキャラまで倒し、「やった~!」という達成感、喜びがあるからするんじゃ?



 つまり人間(もとはワンネスなる霊的存在)は、絶対であり完全であることに「退屈」した。

 面白くもな~んともない。変化もない。だから、面白くするためにあえて自分を「制限」した。

 失敗あり、成功あり。笑いあり、涙あり。

 死ぬ危険あり。頑張って生き延びる喜びあり。

 要は、ゲームをしているのだ。

 人間の田中だれそれ、というキャラクターを操作しているのだ。そして、楽しんでいるのだ。人間の正体は、自分の意識している「自我」などではなく、それを操作している別次元の本当の自分である。

 それを自覚できる人は、少ない。しかし時代の恩恵か、そう覚醒する人は増えてきている。



●だから、死んでも「ただのゲームオーバー」なのだ。

 ゲームで言えば、「ああ、ミスった! じゃあもう一回!」という程度のこと。

 画面上のキャラは死んでも、操っているほうは無傷なのだから。

 何度でも何度でも。納得するまでゲームを続ける。

 これを、一部宗教では『輪廻転生』と言う。

 


 だから、あまり深刻にならずともよろしい。

 人間、重たいのは暑苦しい。深刻なのも、付き合いづらい。

 人生、ゲームくらいに思って楽しんでください。

 肩の力を抜いて、共に歩きませんか。

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