ふれるときこえ

@highredin

第1話

 俺は焦っているようだ。ああ、焦る。焦る。焦っている時は、焦りにしか焦点が当たらない。焦っている事のみが存在しているかのようだ。足を速めさせ、頭の中で俺が俺を焦らせる。何故焦っているのか、それすら考えられなくなり、焦りだけが残る。しかし焦っても焦るだけで良い結果には結び付かない。焦るな俺。結局焦るだけなのだ。ああ、くそ。そうやって最後には何も考えられなくなる。自然、手に力が入り、くしゃ、と音が鳴った。

 ああ、そうだ。俺はこれを持っていた。郵便局に行かなくては。投函しに行くのだ。今回の力作を。3時間前に書き上げて、見直し、手応えを感じた。これならどうだ。文句は言わせねえ。そういうブツだ。意気揚々と前に進み、赤い建物を目指す。昔はもう少し薄い朱色だった気がしたが。自動ドアを押し退け、窓口に封筒を置く。中身は紙の束だ。

「いらっしゃいませ」

「手紙を1つ」

見慣れた従業員に告げる。彼女は、何も感じさせない表情で封筒を点検している。

「すみません」

「はい?」

何故か呼ばれた。差出人には「唐木政孝」と書いたはずだ。この前とは違う理由で?

「恐れ入りますが、切手が不足しています」

「えっ」

そんな馬鹿な。確かに重さに合わせて切手を貼ったはずだ。前回出したのと、値段は変わらないはず。

「先日の料金改定により、こちらのとおりの値段になります」

何っ、本当かよ!第一、「なります」って何だ!日本語の使い方おかしくないか!?あ、いや、んだから、この使い方は正しいのか…?

「お客様?」

「あ、はい!いや、えー…」

慌ててポケットを探る。小銭は?着の身着のまま出てきたんだ。ああ、焦る。焦る。焦っている時は、焦りにしか焦点が当たらない。何てこった。どこかに無いか。いつもこんな調子だ。よりによって大事な時に。無かったらどうするんだ。後から払えるのか。いや、ダメだろう。どうするんだ、今日送らないと間に合わないぞ。折角ギリギリまで粘って完成させたというのに。そんな事を思っていると、同じ所を2度も3度も探してしまう。怪訝そうな従業員の顔が見えて、穴があったら入りたくなった時、ちゃり、と音が鳴った。

「あった…」

内ポケットに1枚だけあった50円玉を置く。

「はい、ではお預かりします」

10円玉が2枚返された。

「ありがとうございました、またお越しください」

「疲れた…」

従業員の声を背に受けつつ、ガラスの自動ドアに写った自分に向かってそう言った。聞いているのは、そいつ自分だけだった。


 小説を投函した後は街を歩く。これは習慣であり、特に理由がある訳でも無い。自分の家に帰っても、その小さなスペースでは、身体の中から湧き出るを抑えきれないのだ。俺は完成させたぞ。出し切ったぞ。どうだ。今回は良い。今までで一番の出来だ。受賞が無きゃ奇怪しい。悪くて佳作だ。そんな気分が全身を駆け巡る。そして、投函の前とは別の速さで、ずんずん歩く。アスファルトの上を邁進する。

「ふふ、ふふふ」

思わず笑みがこぼれる。一瞬後、我に返り辺りを見回す。勿論、誰も見ていなかった。皆の目線は、スマホ、スマホ、スマホだ。もう一度、声を出さずに笑う。横断歩道に差し掛かる。赤。えい、渡ってしまおうか。しかし、丁度、青に変わる。やはり俺はツイてる。ガッツポーズをしたい気分だ。

 開いているデパートに入る。何を買う訳でもない。ただただ自分の存在を、この街で最も人が集まる場所に示すだけだ。平日であっても、買い物客が其処此処で品定めをしている。勿論、都心ではオフィスに会社員が沢山居るが、少し外れたこの街では、デパートが賑やかさを寄せ集める。商品を一つ手に取る。眺めてみるが、その価値は何一つ分からない。冬の寒さを忘れている唐木にとって、秋口に出現したマフラーは、空虚そのものだった。手に取って、適切な時間を測って、戻す。そして歩き出す。別の階に行き、今度はヤカンを手に取っていた。しかし、買いたいとは思わなかった。何も欲しくない。何もしたくない。何も見ていない。ただ、留まっていたくない。

「そういえば…、どうして50円玉は、1枚しか無いのに音が鳴ったんだ?」

唐木はふと気付き、不思議に思った。近くで別に鳴った音か、鳴るという思い込みに拠るものか、それとも単に幻聴なのか。

「俺だけしか聞いていないのか?」

彼は随分昔に聞いた、森の中の孤独な音について思い出していた。葉が落ちた時、風に揺られる時、周りに誰も居ないのなら、そこに音はあるのか?

「…焦りだ。きっとそのせいだ。」

彼は納得しようとした。そうしようとすればするほど、あの時のちゃり、という小さな音が、大きく反響した。50円玉の音は、俺だけにしか聞こえなかったのか?彼は、もう一度、森の中で落ちる葉を思い浮かべた。何時からだろう、彼は森の中に居た。そして、かさ、と足下に落ちる葉の音を聞いた。葉を手で摘まみ、ひっくり返して見ると、裏には、今日投函した小説の冒頭が印刷されていた。

「うわぁっ!!」

彼は叫んでいた。周りの人は驚いただろうか。いや、大丈夫だ。誰も聞いていないなら音は無いのだ。ここには、誰も居ないぞ。、え?何だって?

 唐木は走り出し、エスカレーターを駆け下りて、ドアを押し退け、来た道を走り、階段を登って、安アパートの2階に行き着いた。身体が震える。息は、彼だけに聞こえていた。

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