(後)
「あたし、先輩に告白する!」
咀嚼中のつみれを喉に詰まらせて喘ぐ。苦しむあたしの姿など、大きな目標を掲げ燃える杏花の目には映らないらしい。水筒の麦茶を飲んで持ち応え、耳に髪をかけ直す。
杏花の弁当箱はカラフルだ。小学生の弟がいるものの彼には給食があるので、母親の気合が杏花の弁当に注がれているらしかった。今日は、肉巻き、パプリカのマリネ、ポテトサラダ、ズッキーニグラタン、バジルを散らした白米。別にフルーツを持たされていて、実はあたしもお裾分けに与るのを日々の楽しみにしている。
「結婚を前提にお付き合いしてくださいッ!」
フォークを握りしめ、杏花は真剣に言い放った。
「あたしに言っても意味ないでしょ」
「どう? 伝わるかな?」
「突然、結婚っていうのは、どうなの」
今日は朝から雨が降っていて、少し寒い。窓の外は重い灰色だ。窓を閉め切っているせいか、杏花の勢いもあって、周囲にしっかり聞かれてしまっている。
「だってね、チホちゃん。植物もおしべとめしべが」
そこまで言ったところで近くのクラスメイトが噴き出した。あたしは杏花を手で制し、杏花の水筒に中身を汲んで前に置いた。
「落ち着いて」
「あたしは落ち着いてるよ。昨夜お父さんとも話して、長男が継げばいいからって言われたから」
それは遠回しに反対されているのでは。
「早いうちに先手を打って、実権を握らないと」
「杏花に出世欲があるなんて」
「あたしはすべての青果を愛しています」
熱弁をふるう姿に一種の感動を覚えるものの、現実的ではない。
しかしあれよあれよという間に話は進み、文化祭前日、杏花は高垣を屋上に呼び出し告白することになった。あたしがいけないのだ。文化祭の当日に告白すると言い出した杏花に、いらぬ入れ知恵をしてしまった。高校生活最後の文化祭なのだから告白が集中するのは明らかで、ずらすなら前にずらした方が新鮮に感じてもらえるかもしれない。そう言ってしまった。
あたしたちのクラスは喫茶店だ。根詰めるような準備はもうなく、それぞれ帰り支度を始めていた。
「ふぅ」
杏花は胸の脇に拳を寄せて、深呼吸している。
約束の四時が迫っていた。
「チホちゃん。あたし、行くわ」
エプロンをつけ三角巾をかぶったまま、杏花が宣言した。
溜息が洩れた。息巻く杏花の正面に立ち、三角巾を取る。すっかり忘れていたらしい杏花が、あ、と声を出してから目を固く閉じた。
「あまり突っ走らないで、丁寧にね」
「うん」
体に手を回してエプロンのボタンを外す。
「まず時間を作ってくれたお礼」
「うん」
エプロンを杏花の首から抜いて、腕にかける。それから乱れた杏花の髪を、指先で丁寧に梳いた。
「深呼吸して、早口にならないように。笑顔でね」
「うん」
襟の埃を払い、首元のリボンを均等な蝶々結びになるように整える。
杏花が力いっぱい抱きついてきた。初めての告白で凄まじい緊張を味わっているのだろう。密着した体から鼓動が伝わる。背中にそっと腕を回し、髪を撫でた。
「だいじょうぶ。あなたは、可愛いから」
「チホちゃん」
突然、涙が零れた。
嗚咽も自覚せず、ただ頬にすとんと落ちた涙に驚いて息を止める。
今、自分の感情に耳を傾けることは無意味だ。これから杏花の大切な勝負が始まる。あたしは杏花の隣で、一番の理解者であり、誰よりも応援している。フラれて帰って来るのはあたしの隣だ。そう言い聞かせてきた。
言い聞かせてきた通りなのだ。
どちらともなく腕を解くと、杏花ははっと息を呑んだ。
「チホちゃん……?」
静かに頬の涙を拭い、微笑んだ。
「杏花が告白なんて、成長したなと思って。感動しちゃった」
「チホちゃん。あたし、絶対にやり遂げるよ」
「うん。ほら、いってらっしゃい」
杏花は旅立った。
教室を出るその時、一度あたしの方を振り返り、強い眼差しを残して。
◇ ◇ ◇
まだ春の寒い日だった。
体育のあと杏花が首元のリボンを上手く結べずに四苦八苦しているのを見て、あたしは気づくと自分のリボンをほどいていた。杏花の視界に収まり、ゆっくり、結んでは解いてを繰り返す。杏花は不器用だった。本当なら、馬鹿にして嫌いになってもおかしくない状況だった。
でも、そのときわかったのだ。
あたしは、そういう意味でこの子に惹かれているのだと。
「杏花」
名前を呟き、リボンを解く。
机をいくつかの島に分け喫茶店のように配置した教室で、窓際の椅子に腰かけ校庭を眺める。実行委員と数名の教師がキャンプファイアーの準備をしていた。
高垣が受け入れれば、明日の夜、炎を囲む相手はあたしではなくなる。
「杏花」
リボンを指で扱き、くるりと絡め、弄ぶ。
高垣と杏花ではありえない組み合わせに思えた。けれど農業という人生設計が交わりそうな二人には、簡単に絆が生まれてしまいそうで恐い。
隣を歩く杏花の体温。
抱きついてくる、杏花の熱。
それを全部、高垣に奪われてしまう。
「もも……」
チホちゃん、と呼ぶあの声。
独占しているという感覚は単なる思い上がりで、もともと杏花は自由なのだ。
高垣が断ったとしても、杏花はまた誰かに恋をして、想いを伝えるだろう。あたしはこれから何度もそれを送り出し、帰ってきた杏花を受け止めるのか。恋が叶わず悲しむ杏花を慰めるふりで、内心は喜んで。恋が叶えば、祝福するふりをして、内心では泣く。
あたしは、杏花に想いを伝えようとさえ思わなかった。
高垣に負けても仕方がない臆病者だ。
キャンプファイアーで、杏花と手を繋いで踊りたい。
あたしは高垣に祈った。
杏花を受取らないで。傷つけないで、返して。
秋の陽は傾いたら早い。
あっという間に夕闇が迫り、教室は暗く、寒くなっていた。あたしはリボンを結び直し、帰り支度をして、頬杖をついて校庭を見下ろしていた。どんな結果であれ杏花を迎え入れなければならないのだから、平常心を保ちたかった。深呼吸さえした。
教室の灯りがついた。
振り向くと、杏花がいた。
「おかえり」
微笑んでいた。杏花に会えば嬉しくなる。だから、この気持ちは嘘ではない。
静々と傍まで歩いてきて、杏花は立ったまま、頬杖をつくあたしの袖を摘まんだ。
「怒られた」
告白の結果がわからない第一声に戸惑う。
杏花は悲しそうでもなく、嬉しそうでもない。未だに緊張を引きずっているような、張り詰めた熱を感じた。
体を起こし、袖を摘まんでいた杏花の手をそっと握り返す。
「おまえは俺と笈川どっちのほうが好きなんだって」
「んっ?」
つい、変な声が出てしまった。
杏花は思いつめた表情で何度も言葉を呑み込んで、あたしの手を握る。握り直す。まるで吐き気をこらえているような悲壮感まで漂わせ、突然の深呼吸を試みたりしている。
「あの……チホちゃんは、今、好きな人いますか……?」
何が起こっているのか、理解はできた。
杏花は、あたしに告白している。
ぽかんと見あげていると、居た堪れなくなったらしい杏花が空いた手で顔を覆った。今まで見た中で一番、首まで真っ赤になっている。
「好きな、ひと……」
「いない」
口からこぼれた嘘が、杏花の緊張を解いたようだ。少し肩の力を抜いて、顔を覆った手を退けると、今度は好奇心に満ちた眼差しが注がれた。
「キス、したことありますか?」
なぜ敬語なのだろうか。
それよりも杏花が嬉しそうに笑うので、憂いや疑問は頭からすべて吹き飛んでしまった。
「ない」
「よかった!」
杏花が力強く手を引くのに合わせ、立ち上がる。
抱きしめると杏花が腕の中で燥いで、バランスを崩した。互いの体に縋りつくようにして抱きしめ合いながら、幸せが膨らむ。
あたたかい熱。杏花の体温。
フラれたのかと聞くと、杏花はきらめく笑顔で頷いて、あたしの胸に顔を埋めた。じゃれあっているうちに髪留めが絡まって、また、蝶々結びがほどけた。
(了)
うそつき蝶々 百谷シカ @shika-m
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