うそつき蝶々

百谷シカ

(前)


 騒がしいクラスメイトの声を越えて、微かに感じていた足音。

 文庫本に栞を挟み、髪を耳にかける。

 勢いをつけて開けられた教室の戸口で、杏花ももかが叫んだ。


「ねぇっ、高垣たかがき先輩の拾っちゃった! リストバンド!」

「えっ、うそ!」

「見せて!」


 瞬く間にクラスメイト数人に囲まれて、杏花は息を弾ませそれを見せた。

 高垣りょうは最も人気のある男子生徒で、今年の夏にサッカー部を引退した。エースを勤め、チームを決勝へ導いての準優勝。悔し涙に応援席の全女子が悲鳴をあげたと聞いている。


「どこでッ!?」

「なっ、なっ、中庭の脇の、体育館の片方の戸の奥の水道!」


 杏花の容量の得ない説明にも歓声が沸く。焼却炉手前の水道と言えばいいものを、なぜ中庭から説明するのか。そういう子だ。

 席を立ち、スカートの裾をさっと直して輪に近づいていく。


「ほんとだ! 名前書いてあるよ!」

「どうするの杏花!」

「どうしようッ! あ、チホちゃん!」


 杏花以外には笈川おいかわさんと苗字で呼ばれる事がほとんどで、クラスメイトの中にさえあたしが知歩里ちほりという名前だと知らない生徒もいるのではないかと思う。懐く前から杏花はあたしをチホちゃんと呼んだ。


「見てチホちゃん! 高垣先輩のリストバンド! 拾ったの!」


 杏花を取り囲んでいた数人が、蜘蛛の子を散らしたように退いた。

 あたしは嫌われ者だ。一年の頃は、お高くとまっているとか周囲を見下しているという陰口を聞こえるように言われていた。それは実際、ほぼ当たっている。成績、容姿、家柄、どれをとっても対等に話す相手がいないのだから、こちらも打ち解ける気はなかった。


「見せて」


 それまでいくら覗き込まれ手を伸ばされても決して離さなかったリストバンドを、杏花はあっさりと渡してくる。それと同時に、ぴったりと身を寄せてきた。杏花は小さい。あたしの口の辺りに、杏花の額がある。


「中庭の奥の、体育館の、端の、戸の奥の水道で見つけたの」

「焼却炉の手前ね」

「そう!」


 見ると、リストバンドの裏側に高垣のフルネームが書いてある。

 三年A組は階段を上がって左に歩けばすぐだ。


「返してきたら?」

「えっ! たっ、高垣先輩にッ!?」

「取り次いでもらってもいいと思うけど」


 リストバンドを杏花に返し、鼻息も荒く見あげてくる顔を眺めた。

 胸の奥、そうちょうど鳩尾あたりを細かく擽られるような感覚が、甘い。頬を朱に染めて、握りこぶしで胸を抱くように構えて、興奮を全身で現している。肩につく柔らかな癖髪は天然の赤茶色で、それを二つ結びにしていて、頭全体がキャンデーのようだ。


「本人に返せば話せるでしょ」

「たッ、高垣先輩と!」

「うん。せっかくだから、お喋りしてきたら?」


 あたしを避けて散った数人が、杏花に応援の熱視線を送りながら方々で頷いている。

 荒い鼻息を止めて逡巡する杏花の前髪を、指先で整える。憧れの先輩に会うのだから、身だしなみはきちんとしておいて損はない。ついでに結わいた左右の毛先も、指先でくるんと一巻き加えておいた。


「あたし、いってくる」


 普段より低い声で決意表明した杏花に声援が送られた。

 午後の授業まで残り時間わずか、行って帰って来るので精一杯だ。

 杏花が教室を出てあたしが席に戻り読書を再開すると、男子数人が囁き合う声がした。


「上原のやつ、笈川のみならずあの高垣まで」

「怪獣だな」

「天然は強ぇよ」


 聞こえないように言えばいいのに。

 けれど陰湿さは皆無で、単純に馬鹿なのだ。そう思えば腹も立たない。


 二年になりクラス替えがあって、杏花と出会った。杏花が懐いて、あたしも杏花に構うためか、今年は昨年ほど孤立していないし周囲の空気は柔らかい。

 上原杏花はクラスのマスコット的存在だ。誰からも愛され、本人も愛を返す。成績は下の上といった際どいところで、頻繁に宿題も手伝い授業の補填をしているけれど、本人のアタマには入っていかず、それは努力で解決するものでもないと思う事にしている。


 あたしは、杏花と過ごせればそれでいい。


 文庫本の字面を追うものの、思いのほか高垣が気になっていた。

 一目で心を奪われやしないか。黄色い声を浴びるのに慣れた高垣でさえ、瞬殺されてもおかしくないほど、杏花には愛嬌がある。

 だとしても、高垣はあと五ヶ月もすれば卒業だ。

 あたしが杏花を独占している。この席を譲る気はない。



     ◇  ◇  ◇



 帰り道、杏花の興奮は未だ収まっていない。

 公園の遊具や鬼ごっこで燥ぐ子どもたちの声を後ろに、杏花は鼻息も荒く拳を握りしめた。夕陽が頬やぷっくりとした指の関節を照らす。


「先輩、あたしのこと知ってた」

「え?」


 思いもよらない言葉につい鞄の持ち手を握りしめる。

 学区をあげての人気者である高垣と、内輪の人間に愛嬌をふりまく杏花とは、本当に共通点はない。


「先輩ね、農業大学受けるんだって」


 頭が、真っ白になった。

 杏花は嬉しそうに話を続ける。


「それで進路相談のとき、先生に、二年C組の上原は八百屋の娘で、親戚は農業をやってるって聞いたんだって。先輩ね、キャベツが好きなんだって。家に毎日山積みですよって言ったらね、うらやましいって」

「そう」


 盲点だった。

 この都会の真ん中で未だに青果店を営んでいる生家と、品揃えの半分が親族の農場から直売しているという属性が、まさか高垣のようなサッカー少年に刺さるとは考えもしなかった。


「朝は早いのかとか、店を手伝ったりするかとか、いろいろ聞かれたの。チホちゃん、あたし、先輩をお婿さんにできるかな?」


 くらり、視界がゆれる。

 唇を引き結び、足を止め、三つ数えた。


「──急すぎる」

「お母さんは十八でお父さんと結婚したよ」

「時代が違うし、あの人は婿入りではなくて自分で経営したいんじゃない?」

「うん。でもお父さんも若いから、すんなり暖簾分けしてくれると思う」


 飛躍しすぎだ。

 気を取り直して歩き出した。


「杏花。だいたい、あなた高垣先輩のこと好きなの?」

「高垣先輩のことはみんな好きだよ」

「みんなと同じような〝好き〟で結婚しようなんて甘い甘い」

「うちは畑があるから、みんなとは違うもん」


 杏花と理論的な会話を試みた己に非があるのだ。あたしは微笑んで杏花の頭をぽんぽんと撫でた。


「いい考えだと思う。お婿さんは農業大学で見つけたらお父さんも安心するし」

「ねえチホちゃん。あたし大学行けるかな」

「ちゃんと手伝ってあげる。泊まり込みで」


 どうやらそれを喜んだらしい杏花が、腰に手を回してじゃれてくる。


「野菜は好きなんだけど、理科は……」

「化学。もう化学よ」

「カガク……」


 確かに杏花の両親も、娘に店を継がせるよりは青果や農業に興味のある婿を迎え入れた方が安心すること間違いない。

 ふいに、抱きついたまま杏花が無邪気な眼差しで見あげてくる。


「チホちゃん、進路は?」

「今のところ希望は社会学部」

「何になるの?」

「教授か、研究員かな。お金より社会問題を考えて、整備できる人になりたい」

「むずかしい」


 苦い顔で洩らした後に腕を解き、杏花が改めて手を繋いでくる。


「チホちゃん頭いいから、きっとできるね。美人市長さん、すてきっ」

「それはどちらかというと政治家」

「政治じゃだめなの?」


 それには答えず杏花の将来を訊いてみると、家業に携わりたい気持ちが強いらしかった。ただ具体例はなく漠然と野菜や畑の話をして、終いにはオーガニック野菜が売りのカフェなどと言い出したので笑ってしまった。微笑ましい。

 しかし、またも握り拳を頬の横で揺らして、真剣な目であたしを見て言うのだ。


「まずは農業大学でお婿さん探し、だよね!」


 余計な知恵をつけてしまった気がして、少しだけ悔やんだ。


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