第48話 傷の舐め合いなんてごめんですもの
アカリが立ち去ってすぐだった。
さく、と背後で草を踏む音がする。
「……肩くらいでしたら、おかししますよ?」
月明かりを反射してきらきらとしている湖面をぼんやりと見つめていたフランツに、背後から凛とした声がかけられる。ゆるゆると振り返ると、ルティアナがそこにいた。
「……いらん」
フランツは憮然として呟き、再び湖に目を戻す。明るい夜だ。眩しすぎて、少し目に痛いくらいに。
ルティアナは何も言わずにフランツの隣に座った。黒い髪が月光の下で青み帯びている。
「おまえは、分かっていたのか」
フランツの問いに、ルティアナは目を伏せた。
ルティアナはとっくの昔に、分かっていたのだろうか。もしもフランツとアカリが恋に落ちたとき、アカリはこの世界を選ばない――選べないと。
「いいえ。……でも、覚悟はしていました。いつかマコトに、別れを告げられるのだろうと」
アカリが、フランツに告げたように。それを覚悟していたからこその、行動だった。
「けどマコトはおまえを選んだ」
「……そうですね」
選んだ、とフランツはもう一度小さく零した。苦しげな声に、ルティアナはフランツを見ることができずに、けれど輝く湖面を見ることもできず、夜空を見上げた。
明るい月は、淡い光を放つばかりでやさしい。
「マコトにはこちらで過ごした十年があった。アカリと比べるのは酷でしょう」
十年で築いた関係も、得た知識も、マコトがこちらの世界を選択する上で背中を押すには十分だっただろう。アカリとは違う。
「……分かってる」
フランツは吐き出すように呟いて、やがてルティアナの肩に額を押し付けた。
「……分かって、いる」
いらないと言ったくせに、と思いながらもルティアナは何も言わなかった。きっと、フランツがこの痛みを吐き出せるのはルティアナしかいないだろう。
世界を隔てた恋なんて、そうそう転がってはいないのだから分かり合える人なんていない。
フランツはもう一人のルティアナだ。こうなる未来も、間違いなく存在していた。マコトの選択次第で簡単に変わってしまうものだった。
ましてもう何年も前からその可能性に気づいて覚悟していたルティアナと、やって来たばかりのアカリに恋をしてしまったフランツとでは、心構えからして違う。傷つくかもしれないと理性が押さえつけても、遅かった。
夜の空気を震わせる、小さな嗚咽に、ルティアナは聞こえないふりをしてただ星の数を数えていた。
「……いっそ、おまえも振られたんだったら、俺が嫁にもらってやったんだけどな」
しばらくしてから顔を上げたフランツは苦笑いでそんな冗談を告げた。その言葉を聞いた途端にルティアナは嫌そうに眉を顰める。
「何を馬鹿なことを。あなただけはごめんです」
そもそもルティアナとフランツの間には甘い感情など存在しない。
「……傷の舐め合いなんてごめんですもの」
マコトがこの世界に来ていなければ、ルティアナとフランツは王家の意向とおり婚約していたかもしれない。けれどそれは所詮もしもの話だ。
たとえ今マコトが決断を翻して元の世界へ帰る選択をしても、ルティアナはフランツとだけは選ばない。そんなことしてもお互いの傷は癒えないし、心は満たされない。
「……そうだな」
ふ、とフランツは笑みを零して立ち上がる。ついでというように差し出された手をかりてルティアナも立ち上がる。
「だいたい、こんなとこに来てマコトがうるさいんじゃないのか」
「マコトはそこまで狭量な人じゃありません。かしたのは肩だけですし」
当たり前だ。いくら慰めるためとはいえ、胸なんてかりたらフランツに明日は来ない。
「マコトはマコトで、アカリについているでしょう」
それはつまり、アカリを慰めているのはマコトということだろうか――と考えてフランツはむっとした。アカリをあそこで慰めてしまうと、お互い苦しいだけだろうと触れもしなかった。けれどいざ他の男に慰められているんじゃないかと想像すると気分が悪い。
「……心の狭い男はモテないそうですよ」
フランツの心を見透かしたように、ルティアナが告げる。
「それがどうした」
ふん、とフランツは鼻で笑う。
「モテるなら惚れた女一人で充分だ」
――まぁ、それすら叶わないようだけど。
先に戻っていましょうか、と気遣いを見せるルティアナにフランツは苦笑いで首を振って、二人は戻ってきた。
素知らぬ顔のギルベルトとリヒト、ゼストはふと顔を上げたが、何も言わない。
「彼女なら、もう寝てますよ」
マコトがルティアナとフランツにあたたかいお茶を用意していた。ハーブを使ったそれは、安眠効果のあるものだ。つくづく従者時代の癖が残っている。
「そう……」
ルティアナはアカリが眠る馬車をちらりと見て、お茶を一口飲む。水辺にいたので思ったより身体が冷えていたらしい。ほっとあたたまっているルティアナをマコトが招き寄せて膝に乗せる。
「……マコト、もうちょっと空気を読んで」
今はどう考えてもいちゃつくところではない。
「譲歩したとはいえ、恋人がこんな夜更けに他の男といたんですよ?」
「ほら見たことか。それがそいつの心の広さだぞ」
随分広いんだな、とフランツが皮肉を言って、お茶を飲んでいる。おそらく気にするな、と言いたいのだろうけれども、ルティアナとしては少々居心地が悪い。
それにアカリのことも気になった。もう寝ている、というのが一人になるための方便であることはわかっている。
「一人にしてあげてください」
こっそりと、フランツに聞こえない音量でマコトはルティアナの耳元で囁いた。
「……今はルティに慰められても、辛いでしょうから」
ルティアナには、アカリの気持ちを想像することしかできない。理解するにはあまりにも立場が違う。
フランツとルティアナが同じだとすれば、アカリとマコトは同じだった。
ルティアナは、選ぶ側の人間ではない。選ばれる側の人間だ。
だからルティアナは、アカリのことをマコトに任せた。けれどこの様子では、アカリはマコトの慰めを断って一人で抱えているということだろう。
「いちゃつくなら見えないとこでやれよ……青少年の教育には悪いんじゃねーの」
耐えかねたギルベルトが呟く。
ちらり、とゼストを見てギルベルトは冷ややかにマコトを一瞥した。ゼストは突然話題に出されてきょとんとしている。
「いえ、別に気にしませんけど。ルティアナさんとマコトさんが仲睦まじいのはいいことですし」
不満を訴えるギルベルトにも見習わせたいくらいに、平然としてゼストは答えた。
あれ、とギルベルトは困惑する。予想外の反応だ。思わずギルベルトはゼストのそばに近寄って、小声で問う。
「おまえ、姫さんに惚れてたんじゃないのか?」
声を潜めているつもりなのだろうが、いかんせんもともとの声量があるギルベルトの声はルティアナやマコトにも聞こえている。
「ルティアナさんのことは、大好きですよ」
ふわ、と微笑んでゼストは恥ずかしげもなく答える。その声はしっかりルティアナにも聞こえていた。
「やだかわいいぎゅってしたい」
「堂々と浮気発言しないでください……」
今にもゼストのもとへ駆け寄って抱きつきかねないルティアナの腰にしっかり腕を回してマコトは阻止した。
「けど、恋愛感情として好きなわけではないです」
――ギルベルト様と違って、とゼストはそれこそギルベルトにしか聞こえない声で付け加える。その言葉にギルベルトはひく、と頬を引きつらせた。
そもそもゼストがルティアナに恋愛感情を抱いていたら、マコトは二人きりになんてさせない。
「おまえ、いーい性格になったな……」
ぼそりとギルベルトが呟いて、そそくさとゼストから離れた。見本になる人がたくさんいましたからね、と呟き返したゼストについにギルベルトは何も言わなかった。
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