第47話 恋なんて一種の風邪みたいなもんだ
アカリは何も言い返せなかった。
言葉は喉に張り付いて、息すら止まっていたかもしれない。
「……痴話喧嘩はそこまでにして、早く出発させていただきたいんですが」
しかしその場の口を挟みにくい雰囲気を切り裂いたのはリヒトのだった。甘い熱すら消し去るようなリヒトの冷ややかな声に、フランツとアカリは、ばっと離れた。
「ち、痴話喧嘩なんかじゃ……!」
顔を真っ赤にしたアカリが否定しながらも口籠る。
「……いや、どこからどう見ても痴話喧嘩だよな」
若干言いにくそうな顔をしながらも、ギルベルトも否定しない。
フランツは何も言わずに御者台に乗った。手綱を握る様子はないので、ただ馬車の中にいたくないだけなのかもしれない。
アカリはそんなフランツを見て、静かに唇を噛んだ。
ギルベルトはフランツを見ながら苦笑して、御者台に向かう。すれ違いざまにアカリの髪をくしゃりと撫でた。
「アカリ」
立ち尽くすアカリに、ルティアナが声をかけた。
うん、と小さく答えてアカリも馬車に乗り込む。一人いないだけなのに、やけに広く見えた。
ガラガラと音をたてて馬車は動き出す。
「おまえは意外にも恋愛ごとになると周りが見えなくなるタイプだったんだな」
手綱を握りながらギルベルトがからかうように笑った。王家の血なのかね、と。
こんなところで何を話し出すつもりだとフランツは横目で睨む。後ろに丸聞こえだ。
「安心しろよ、聞こえないように魔法かけた。向こうからの声は聞こえるけどな」
ああそういえばこの男も少しは魔法が使えたな、とフランツはぼんやりと思う。魔法の気配に敏いリヒトやゼストは気づくだろうが、さっきの今だ、きっと気づかないふりをしてくれている。
ルティアナが気づいたとしても、騒ぎ立てるような馬鹿な女じゃない。
「言っとくが嬢ちゃんの言うことも一理あるからな。恋なんて一種の風邪みたいなもんだ。障害に燃え上がって惚れたなんて勘違いすることもある」
「わざわざ説教か」
「いいや」
そういうつもりじゃねぇよ、とギルベルトにしては真面目な顔で否定した。
「そこらへん、姫さんは冷静だったな。……まぁ、捕まっちまったみたいだけどよ」
苦く笑うギルベルトは、恋に敗れた憐れな男そのものだ。フランツとてそれほど鈍感ではない。もちろん気づいていた。気づいていたが、触れずにいた。
「たとえ世界を隔てていようが、思いが通じあっているなら手を伸ばせばいい。今を楽しく生きてりゃいい。そう、思うけどな、俺は」
まぁ無責任な大人の言い分だな、とはギルベルトも自覚している。けれど時間は有限だ。その先に別れがあるかもしれないのなら、なおさら、いつか思い出したときに苦しい思いよりは楽しかった記憶があるほうが救われるだろう。
「……それはあいつらの話だろ」
「おまえらの話でもあると思うが」
――違う、とフランツは小さく否定する。
ルティアナとマコトと、自分とアカリを、比べられるはずもない。
「何が違うだ。惚れてるくせに」
さすがにフランツも、本人にあそこまで言ってしまった手前否定するつもりはない。だがはっきりそう断言されるとそうなのだろうか、という気持ちが浮かばないわけではない。
――最初は、なんて普通の、頼りない女の子だと思った。
こんな女の子が伝説の、あの聖女なのかと。
けれどアカリはすぐに立ち上がった。己のおかれる状況を理解しようと努力して、そして理解した。
無関係のこの世界の事情に巻き込んでしまったのだから、礼を尽くすのは当然だと思った。だから、できるだけやさしくした。
アカリはルティアナによく懐いて、彼女にやさしくするという役目は必要ないようであっても。
旅を始めてすぐ、ひとつ気づいた。
朝起きてきて明るく振る舞うアカリの目が、ときどき赤いこと。
そんな日はルティアナはよりアカリにやさしかった。そうしてようやく、ルティアナは『この世界の事情に巻き込んでしまったからしかたなくやさしい』のではないとわかった。
ルティアナはおそらく、この世界で誰よりも異世界からやってきた彼らに敏感なのだろう。彼らの思いを、できる限りで理解しようとしているのだろう。
まだ十六歳。フランツからしてみれば十分な年齢だと思うが、たとえ大人であっても、突然何も知らない世界にやってきて平然と過ごすことができるだろうか。あんなに明るく笑うことができるだろうか。フランツには想像もできなかった。
魔物を退治したあと、最初こそアカリは震えていたが、慣れてからは笑顔でおつかれさま、と言うほどの余裕があった。
けれどそれは、余裕があったのではなく、余裕があるように見せていたのだ。アカリが怯えると、皆が心配するから。
もっと頼れ。それがおまえは許されるだろう。そう考えて苛立つこともあった。
朝が訪れてアカリの目が赤くなっているたびに、慣れた作り笑顔をみるたびに。
この腕で、この腕の中で守りたくてしかたなかった。
誰かに対してこんなことを思ったことは、今まで一度もなかった。
夕食を終えて、それぞれが好きなように過ごしている。
ルティアナはゼストとなにやら魔法のことを話していたし、マコトやギルベルトは剣の手入れをしていた。リヒトは地図を見て今後の進路を確認しているのだろう。
「あれ?」
アカリがふと気づいて声を零した。
――フランツがいない。
どんなことをしていようが勝手だが、基本的に単独行動はしないようにする。それは一行の中での暗黙の了解だった。
「……魔物の気配はねぇから心配いらねぇよ」
ギルベルトが小さく告げる。アカリが何に気づいたのか、わかったのだろう。
――魔物の心配がないというのなら。
「あたしちょっと……」
「アカリ」
ルティアナが心配するように、たしなめるように、アカリを見ていた。行かないほうがいい、と言いたいのだろう。
ごめん、と苦笑いでアカリは謝って、夜の森のなかフランツを探す。
近くに湖があったはずだ、とアカリはなんとなく足をそちらに向けた。まあるい月の光が十分すぎるくらいにあたりを照らしている。
「あ」
湖の畔にフランツはいた。金色の髪は月光の下できらきらと輝いている。
「……おまえな、何一人でこんなとこ来てんだ」
アカリに気づいたフランツが、呆れたように言った。その目はいつもと変わらないもので、そのことにアカリはほっとした。
「大丈夫だよ、おっさんが魔物の気配はないって言っていたもん」
それに、野営地ではルティアナが魔除けの薬草を焚いているし、ゼストによる結界もある。そうそう魔物は近づいてこないだろう。
「魔物以外にも何かしら危険はあるだろうが」
「それを言ったら、王子だって」
先に単独行動をとったのはフランツだ。アカリが唇をとがらせて抗議する。
「俺はいいんだよ」
自分の身は自分で守れるから、とフランツは傍らの剣に触れる。
その横顔が月明かりに照らされていた。きゅ、と胸が締め付けられるような感覚に、アカリは少し、泣きたくなった。
「おまえはさっさと戻っていろ、たぶんルティアナあたりが心配しているだろ」
「うん……」
言外にフランツはまだここにいるつもりなのだと告げている。頷きながらもアカリは後ろ髪引かれるように、立ち去ることができなかった。
フランツの瞳はアカリを見つめることなく、湖面を映している。
こっちを見て欲しい、と思った。
そう思ったことに驚いた。
驚いて、そして気づいてしまう。とっくにアカリは恋をしていたのだと。もう誤魔化すことなんてできないくらいには、フランツのことが好きなんだと。
「……王子」
小さなアカリの声は、ひ弱で情けないひびきだった。
これはきっと、告げたところでお互いに苦しいだけだ。さっきから、心臓が痛い。もうずっと、悲鳴をあげている。
「……ごめんね、ごめん」
それでも言わずにはいられなかった。
瞳からぽたりと雫が落ちる。呼吸ができないくらいに苦しくて、喘ぐようにアカリは何度もごめんと繰り返した。
黒い瞳が、フランツを見つめる。フランツは苦しげな表情を浮かべてアカリを見つめ返した。
「あたしは、選べない。……マコトさんみたいに、強くなれない」
恋になる前に。そんなことを言って逃げて目を背けてきたけど、結局逃げることはできなかった。
好きなんだと、心が叫ぶ。身体が震える。
マコトがどれだけ重い選択をしたのか、今のアカリならはっきり分かる。
彼がただ一人の愛する人を選ぶことは、向こうの何もかもを捨てることで。言葉にすると簡単なものに感じてしまうけれど、そんな簡単なものではないのだ。
簡単じゃないから、アカリにはできない。できないから、どれほど胸を締め付けていたとしても、好きだとは口にできない。
ただ、ごめんと告げるしか、アカリには許されない。
「……知ってる」
泣きじゃくるアカリを見て切なげに微笑みながら、フランツが呟いた。
「知ってる。だから、泣くな」
――アカリは、この世界を選べない。
この恋にすべてをかけるだけの勇気はない。そんな恐ろしい選択を決断できるだけの強さもない。だって、本当は、こうして役目を務めるだけでも精一杯なのだ。
フランツはただアカリを見下ろすだけで、涙を拭ってくれるわけでも抱きしめてくれるわけでもない。それが彼のやさしさだということも、アカリには分かってしまった。
それならばアカリは、これ以上ここにいるべきではない。
「……先に、戻ってるね」
ごしごしと乱暴に目元を拭って、アカリは踵を返した。
フランツは何も、言わなかった。
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