第45話 ……マコトが望むなら?
天秤にかけられた、二つの世界。
マコトがそれぞれの世界で過ごした日々は、どちらも同じ十年。
揺れることはあっても、重さが偏ることはない。どちらで生きていようと大変なことは起きるし、それと同時に平穏な日々もある。
どちらか一方を簡単に選べるものではなかった。
けれど、はっきりしていることはひとつだけあった。
マコトがルティアナを愛しているということ。
他のどんなものよりも、彼女が大切だということ。
そのルティアナが、マコトの手を離さないと言ってくれたなら。傍にいることを許してくれるなら。
愛してくれるなら。
マコトは、須藤誠を捨てることができる。
抱きしめてくるマコトの腕の力が少しずつ緩やかになる。どれほどの時間が経ったのかわからないが、雨足が弱まってきたのは空が明るくなってきたことでわかる。
「……マコト」
「はい」
「もういいの?」
拘束を緩めてルティアナを見下ろしてくる黒い瞳を見上げて、ルティアナは微笑む。
マコトが元の世界を恋しいと思うときは、ルティアナが何度でも抱きしめよう。彼が安心するまで、いくらでも。
「もっとねだってもいいんですか?」
くすりと微笑み返して、マコトは濡れたルティアナの頬を手で撫でた。
「……マコトが望むなら?」
こてん、と首を傾げたルティアナにマコトは苦笑する。きっと彼女はマコトで誘惑がすぎれば狼になることがあるなんて思っていないのだろう。
「魅力的な誘いですけど、これ以上は風邪を引きますよ」
お互い雨の中で雨具もなしに過ごしていたせいですっかり濡れている。ルティアナの黒髪もしっとりとしているし、服も湿っているというレベルではない。
「……マコトは、最初から決めていたのね」
「ルティは最初からわかっていて、俺を帰そうとしていたんだと思ってましたよ」
「……最初から、というわけではないのだけど」
ルティアナがマコトに元の世界を選んで欲しかったのは、いつか帰りたくても帰れないことを嘆くマコトを、見たくなかったルティアナの弱さだ。
――本当にいいの? と油断すると今でも問いかけてしまいそうになる。
だって、捨てるにはあまりにも重すぎる。ルティアナが与えられるものなんて、この身体この心ひとつなのに。
そんなルティアナの心の内を見透かしたように、マコトは微笑んだ。ルティアナの頬に残る涙のあとを消し去るように、何度も何度もキスを落とす。
頬に、眦に、息がつまるほど何度も降ってくるそれは、ルティアナの悩みも心配も吸い取るように甘い。
「そ、そろそろ、戻らないと」
ルティアナが顔を真っ赤に染めてそう告げる。感覚が狂っていてどれほど時間が経ったのか定かではないが、日がだいぶ傾いていた。
「……そうですね、着替えないと」
仲良く風邪ひいちゃいますね、とマコトは嬉しそうに笑う。雨はとっくに止んだものの、二人は濡れ鼠のままだ。
差し出されたマコトの手を握ってルティアナは微笑み返した。ルティ、と呼ぶマコトを見上げると、マコトもまた幸せそうに微笑んでいた。
*
「……で。何してたんだおまえらは」
びしょ濡れになって宿に戻ったマコトとルティアナを一瞥して、フランツは顔を顰めた。
「聞きます?」
にこにことたいそう上機嫌なマコトに、フランツは首を横に振った。
「……いやいい」
もう既に雰囲気だけで胸焼けがしそうだ、と呟いた。のろけまで聞いていられない。
しっかりとルティアナの腰を抱き寄せているマコトに、フランツはおおいに呆れたし、ゼストはにこにこ微笑ましそうにしているし、ギルベルトは苦い表情をしていた。リヒトは無表情である。
「……マコト、着替えに行くからはなしてちょうだい」
居たたまれないルティアナがそう告げると、マコトは残念そうにルティアナを解放する。
「髪が痛むので絶対に生乾きにしないでくださいね。ルティの髪はその長さでもすぐ絡まるんだから」
その口うるささに、ルティアナはくすりと笑った。
「……いつから従者に戻ったのかしら」
まさしく従者だった頃と変わらぬ口ぶりだった。マコトはまさか、と笑う。
「恋人からのお願いですよ?」
――うぐ、とルティアナは反撃できずに女子部屋に逃げ込んだ。
「いちゃつくなら余所でやれ余所で!」
マコトの甘々っぷりに耐えかねたフランツの怒鳴り声が聞こえたが、それはもうルティアナにもどうしようもないので聞こえなかったことにした。
「あ、ルティおかえりー……ってびしょ濡れじゃん! 風邪ひくよ!」
扉を開けるとアカリはベッドに腰掛けていて、振り返りながらルティアナの濡れ鼠っぷりに驚いて声をあげた。
「ちょっと、いろいろあって……」
苦笑しながらルティアナはタオルで濡れた身体を拭いて手早く着替え始める。
「いっそ先にお風呂行く?」
この宿屋には大浴場がついているらしい。浴場がある宿屋の場合は夕飯の後に入りに行っていたのだが、身体を温めたほうがいいかとアカリが問いかけてきた。
「いえ、平気よ」
むしろ今はお風呂なんて行ってしまったら、いろんな意味でのぼせそうだ。思い出すだけで、ルティアナは顔が熱くなる。
「……顔が赤いよルティ。さてはマコトさんと何かあったな」
意地悪そうに笑うアカリにルティアナは目を泳がせた。言うまでもなく、他の四人には何があったか伝わってしまっただろう。なんせマコトが隠す気がないから。
「ええと……マコトは帰らないってこと、かしら」
恋人になりました、とはさすがに恥ずかしくて言えない。というかお互いの気持ちを確認したものの――ああ、そうか恋人になるのか、と思った。まだ実感が湧かないのだ。
「うん、なんとなくわかってた」
さらっと答えるアカリに、ルティアナは「え」と目を丸くした。
「わかっていたの……?」
「前にマコトさんが向こうに帰ったらあたし一人になるよって心配してくれたことがあったから。それってつまり、マコトさんは帰る気はなかったってことかなぁ、って」
「……そんなこと言っていたの」
ルティアナの知らないところで、マコトとアカリは思ったよりいろんなことを話しているのだなと思う。
嫉妬はしないが、どうしても疎外感はある。
「うん、まぁね……髪、なかなか乾かないね」
「放っておけばいいと思うんだけど、マコトがうるさいのよねぇ……」
「わー、のろけだ」
「ちが……!」
のろけ!? とルティアナは顔を真っ赤にして否定するが、これがのろけでないならなんなのだ。
「髪乾かすの、手伝ってあげるよ。だから早くごはんにいこ! おなかぺこぺこなんだよね」
――妙に明るいアカリに、ルティアナは違和感を覚えた。
「……アカリ?」
「ん? なぁに? 痛かった?」
ルティアナが違和感の正体を確かめるように名前を呼ぶも、アカリはやはり明るい声で答えた。
「いいえ。……アカリ、何かあった?」
「なんで? なんにもないよ?」
にこにことアカリの笑顔は隙を作らないようにしている仮面のようだった。
ルティアナがどんなに問い詰めても、きっと、アカリは白状しないだろう。
――アカリは弱音を吐かない。
こんなに理不尽なことに巻き込まれているのに。恋しい家族にも会えないのに。零れそうになる涙だって、見られたくないのだと隠してしまう。
マコトだって、そうだった。
もっと詰っていいのに。もっと怒っていいのに。
どうしてこんなことに巻き込むんだと、関係ないじゃないかと。
「……アカリとマコトは、似てるわね」
日本人、というものはそういう気質でもあるのだろうか。それともこの世界はそういう人を選別して呼んでいるのだろうか。
「え? そうかな?」
「そっくりよ。自分で答えを決めて、強がるところ」
頼ってほしいと願っても、頼ってくれないところ。
するとアカリはくすくすと笑った。その声は、強がりではないようだった。
「それなら、王子とルティもそっくりだよ」
「……そうかしら」
――心外だ、とまでは言わないがなかなか複雑な気分である。
「うん。強くて優しくて……自分より他の人を優先するところ」
アカリの声は、どこか切なげだった。
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