第44話 あなたは俺なしで生きていけるんですか?
怒りにまかせて部屋から飛び出したものの、隣の部屋へ行くわけにもいかない。ルティアナは頭で考えるよりも先に宿を出た。
雨はまだ降っている。あっという間に濡れてしまったが、頭を冷やすにはちょうど良かった。
「ルティ!」
一人になりたくて飛び出したのに、こういうときに限ってマコトはルティアナを甘やかしてはくれない。
「何を考えているんですか! 風邪をひきますよ」
マコトに腕を掴まれて、ルティアナは力強く引き寄せられる。
「……少し、放っておいて」
小さな声で、ルティアナは呟く。
頭に血がのぼっていた。いつもならもっと冷静に対処できたはずなのに、考えなしに言葉を投げつけてきてしまった。
「放っておけるわけないじゃないですか……」
こんな雨の中、一人で。そう小さく呟くマコトに苦笑する。
賑わっていた市場も、急な雨で人がまばらになっているようだった。マコトは宿へ連れ戻そうとするが、戻る気分にはとてもなれずに、ルティアナはやんわりと拒絶する。
「考え事したいなら、付き合いますから」
少しはマシだろうとマコトはルティアナを路地裏へ引き込む。建物と建物の間は狭く、二人がようやく入れるくらいの広さしかない。しかし雨をわずかだがしのぐことができた。
感情に任せて口走ってしまった。冷静さを欠いてとんでもないことを言ってしまった。……よりにもよって、
障害を抱えた恋なんて――その障害が、世界を隔てた大きな壁であることくらい、あの場の誰もが容易に想像できた。
その気持ちがわかる、なんて。そんなの、ルティアナが口にしたのなら。
マコトのことが好きだと叫んだようなものではないか。
濡れて頬に張り付いたルティアナの髪を、マコトが払う。
「……誰にでも優しくて、誰でも守ろうとするのはルティの悪い癖ですね」
頬を撫でるマコトを見上げて、ルティアナはむぅ、と眉を寄せる。
「誰にでもっていうわけじゃないわ」
「誰にでもですよ。ルティが大切だと思った人は、誰であろうと守ろうとする」
責めるようなマコトの口ぶりに、ルティアナは苛立ちを隠さない。
「……お説教? わたしは、誰にも悲しんでほしくないし、後悔してほしくないだけだもの」
こんな話をするなら、やはり一人になったほうがいい。路地裏を抜けようとルティアナが身を翻せば、マコトの腕がそれを阻む。
「……マコト」
どいて、という意味を込めて、ルティアナはマコトを見上げた。マコトの黒い髪から滴る雨水が、ぽとりとルティアナの頬に落ちる。
「ルティが守ろうとする人の中に、俺はいつまでいるんですか?」
眉を寄せ、マコトは苦しげに問いかける。
ルティアナはそんなマコトから目を離すことができずに、口を開いては、何も言えずに閉じた。
ルティアナはマコトの主だ。主だった。どんなに彼に守られていようとも、同時にルティアナは彼を守ろうと尽くしてきた。
――だって、それだけマコトが大事だから。
「俺はもうあなたに守られなくても生きていける。この世界にやってきたばかりの、無力な子どもじゃないんですよ?」
そんなこと誰よりもルティアナがよく分かっている。
元の世界へ帰る手段がなかったことを考えて、マコトが一人でもこの世界で生き抜けるように力を与えてきたのはルティアナだ。
「……知ってるわ」
マコトがもうルティアナの手を必要としていないことも、分かっている。
けれどそれでも、ルティアナはマコトを大切にしたかった。守りたかった。そうすることで彼と対等であると思っていたかったから。
「それならどうして、俺を帰そうとするんですか」
「帰そうとしてるんじゃないわ。マコトに選んでほしいと思っているだけ」
ゆるゆるとルティアナは首を横に振った。
だが心のどこかでは、帰るべきなのだろうと思っている。向こうはマコトが本来生きていくべき世界で、大切な家族もいるのだから。
「……ねぇ、ルティ。あなたは俺なしで生きていけるんですか?」
耳元で囁くマコトに、ルティアナは縛り付けられたように動けない。いや、実際に動ける余地なんてない。背を壁につけ、マコトに覆いかぶさられるように閉じ込められている。
「……生きていけるわ」
「ほんとうに?」
「……どれだけ大切な人でも、いなくなればいつかはそのことに慣れるもの」
「ルティ、俺に嘘が通用すると思います?」
マコトはルティアナを見下ろして勝ち誇ったように笑みを浮かべた。ルティアナがマコトに嘘をつくとき、いつも彼女はマコトの目を見ない。長い睫を伏せて、マコトの視線から逃れるようにして、唇は平然と嘘をつく。
「……やっぱり、最近のマコトはずるいわ」
否定も肯定もせず、けれどルティアナはじろりとマコトを睨んで呟いた。
「ずるいのはお互い様でしょう。ルティはいつだって俺の欲しい言葉を言ってくれない」
そんなの、とルティアナは声を荒らげる。
「言えるわけがないでしょう……!」
マコトが求める言葉くらい、ルティアナにも分かる。
だがそれを口にしてしまったら。
マコトを鎖でこの世界に縛り付けるようなものだ。ルティアナにとっての愛の言葉は、そういうものだ。
拒絶するようにルティアナの手がマコトの胸板を押す。一見すると細く見える身体なのに、ルティアナが渾身の力を込めてもびくともしない。
「……言って?」
鎖で縛り付けられることを望んで、マコトは甘い声でルティアナにねだってくる。
「嫌よ」
「ルティのそういう強がりなところ、好きですけど。ルティが何を言っても、俺の意思はもう変わりませんよ」
どくん、と心臓が鳴る。
マコトを見つめるルティアナの瞳が揺れた。
「……帰るの?」
帰らないの、とは問えなかった。帰らないでくれるの、と口走ってしまいそうで。
「ルティ。俺の意思は、もうずっと前に決まってますよ」
マコトの手がルティアナの濡れた頬を撫でる。いつの間にか雨は止んでいた。灰色の雲の切れ間から、光が落ちてくる。
「元の世界に帰ったところで、そこにあなたはいない」
「でも、マコトの家族がいるわ」
ルティアナの不在を埋めてくれるだけの、存在であるはずだ。
「俺は旦那様も奥様も、家族のように思ってます」
「でも、家族のようであっても家族じゃないわ」
「もう二十歳ですよ? 家庭を作って家を出てもおかしくないでしょう」
どうにか笑おうとして結果、苦笑いになってしまうマコトに、ルティアナは「でも」とさらに繰り返した。否定を続けなければ、すぐにでも落ちてしまいそうだった。
「友人だって、たくさんいたんでしょう? 向こうでやりたいことだって、あったはずでしょう?」
「こちらにも友人はできましたし、こちらでしかできないこともありますよ」
ルティアナの言葉を優しく否定していくマコトに、ルティアナは泣きそうな顔で口を開く。
「もし、いつか帰りたいと願っても、もう帰れなくなるのよ……?」
――もう、本当に二度と会えなくなるのよ? ルティアナは言外にそう告げていた。
聖女召喚はそう何度も行うものではない。そしてルティアナは、この次の聖女召喚をできるだけ遅らせるために――可能であるのなら行わずに済むように――動いてきたし、これからそのつもりで動く。
今回、帰らないという選択をするならば、元の世界の家族との永遠の別離を意味している。
マコトはルティアナの胸に額を擦りつけて、懇願するように答えた。
「そのときは、ルティが抱きしめてください」
わずかに震えるその声に、ルティアナはぽとりと涙を落とした。この人は、どんな顔で乞うているのだろう。
「あなたが傍にいてくれるなら、どれだけ向こうが恋しいと思うときがきても、生きていける」
吐き出された言葉が、ルティアナの胸を締め付ける。縋り付くようなマコトを抱きしめて、ルティアナは涙を零し続けた。今なら涙のあとも雨の名残と誤魔化せるだろう。
だから、とマコトは願う。
「言って、ルティ」
言葉は所詮ただの言葉だ。
しかしきっと、ルティアナが告げたら最後、マコトは本当にも元の世界への未練を断ち切る。……断ち切ってしまう。
ああ、ならば。
ルティアナは鎖を贈ろう。切れない絆で、彼を縛り付けよう。
それが、マコトから元の世界を奪っていくルティアナが背負うべき決断なのだ。
「……そばにいて。はなれないで。どこにもいかないで」
震える声でルティアナは乞う。
「あいしてる」
願うようにマコトを抱きしめて、何度も何度も子どものように同じ言葉を繰り返す。
「あいしてる」
もう一度告げると、マコトの腕は苦しいくらいの強さでルティアナを抱きしめた。
ルティ、と掠れた低い声が甘くルティアナの名を呼ぶ。
「あいしてます、あいしてます、誰よりもなによりも、あなたをあいしてます」
それは、切なく幸福に満ちた声だった。
「あなたのいない世界なんて、いらない」
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