第41話 ひとつ、おにいちゃんから忠告

 泉の近くの野営地では既に焚き火がめらめらと燃えている。ギルベルトやフランツは武器の手入れを、ゼストは本を読みふけっていた。

「ただいま」

「早かったな」

「ただでさえわがまま言ってるのに、そんなに待たせないよ」

 ぽたりぽたりと、アカリの黒髪から雫が落ちる。

「おまえ……ちゃんと髪拭けよ風邪ひくぞ」

「すぐ乾くよ」

「そうね、天気いいもの」

 アカリと同じく濡れたままの髪をかきあげてルティアナが笑う。野営の準備をしていたとはいえ、まだ日暮れ前だ。

「髪が痛むからダメです」

 ルティアナの手からタオルを奪い取ったマコトが、丁寧に髪を拭き始めた。従者精神が染みついているのか、それともルティアナが慣れてしまったのか。

「濡れ髪ってえろいよなー」

「沈めるぞおっさん」

 にやにやと下卑た笑みを浮かべるギルベルトに、アカリが冷ややかに睨みつけた。

「どうせだもの、あなたたちも水浴びしてきたら?」

 ルティアナがマコトを見上げて提案するが、マコトは微笑み返すだけだった。早く髪の毛を乾かしますよ、と顔に書いてある。

「別に……」

「馬車の中が男臭いのなんて勘弁だから。行ってきなよ」

「……臭うか?」

 くんくん、と犬のように自分の臭いを嗅いだフランツにつられるように、アカリはフランツに近寄った。文句言ってみたものの、これでもアカリには兄がいるので男臭さには耐性がある。

「んんー……別に平気だけど、清潔にしておいたほうが身体にはいいでしょ?」

 首を傾げてフランツを見上げると、フランツは片手で顔を覆っていた。頭でも痛むのか、とアカリは「王子?」と顔を覗き込んだ。

「……頭冷やしてくる」

「え、具合悪いなら水浴びはまずいんじゃ」

 熱でもあるのかとアカリはフランツの額に手を伸ばすが、やんわりとその手を拒まれた。

「いってくる」

「んー……じゃ、俺も行くかな。リヒトもくるか?」

「……そうですね」

 フランツのあとに続いてギルベルトとリヒトも泉へ向かった。

「……王子、大丈夫かな?」

 フランツの足取りはしっかりしていたが、なんだか少し変だった。心配するアカリをよそに、ルティアナは苦笑する。

「……まぁ、大丈夫なんじゃないかしら」

「無自覚はこれだからなぁ……」

 ルティアナの髪をタオルで丁寧に拭き取って、マコトは小さく呟いたがアカリの耳には届いていないようだった。



 いつものようにそれぞれ野宿の準備に入って、今はマコトとアカリしかいない。ギルベルトとフランツも何か果物か何かあるだろうかと探しに出た。

「アカリ、夕食の準備手伝ってもらえる?」

 結局マコトはアカリに対して敬語であったりなかったりの中途半端なかたちで話している。

「マコトさんっておにいちゃんみたいだよね」

「まぁこれでも向こうでは兄だったしね」

 弟でもあったけど、とマコトは笑う。

「うちのおねえちゃんと同い年なんだよね。だから余計におにいちゃんって感じがするのかな」

「アカリは根っからの末っ子って感じだけどね」

 マコトはするすると皮を剥きながら笑った。マコトが三つ剥く間に、アカリはようやく一つ剥き終わるというレベルだ。

 アカリが真剣な顔で野菜の皮を向いているのを、マコトはちらりと横目で見る。

 頭の中では余計なお世話だな、と思うのに口出さずにはいられなかった。

「……それじゃあ、ひとつ、おにいちゃんから忠告」

「なに?」

 アカリがきょとんとした顔でマコトを見る。妹には似ても似つかないのに、どこか放っておくことができない。アカリの言うとおり、兄としての意識が強く出てしまうのだろうか。


「あまり、この世界の人たちと馴れ合いすぎないほうがいい」


 マコトの声は静かに夕闇に溶けていく。

 一瞬アカリは目を丸くしたあとで、「やだなぁ」とマコトのセリフを笑い飛ばした。

「心配しなくてもルティをとったりしないよ?」

 あんまりアカリとルティアナが仲良くしているから、不貞腐れているのだろうと、アカリは思った。

 しかしマコトは困ったように笑って、アカリを見下ろす。

「そういうことじゃないよ」

「じゃあ、どういうこと?」

 首を傾げるアカリに、マコトは諭すように微笑んだ。

「帰るんだろう?」

 どこへ、とは言わなかった。

アカリも、はっきりと言われずともわかった。

「帰るよ?」

 きっぱりと言い切る。アカリに迷いはなかった。

 聖女は役目を終えたら帰る。そういうものだとアカリは認識していたし、そのほうがいいと思っている。

 アカリにはこの世界を選ぶ理由はないし、聖女の役目がなくなったらアカリが役に立つことなんて何もない。

「……帰ったら、もう二度とこちらの世界の人間には会えなくなる。どんなに懐かしんでも夢だったんじゃないかって考えるくらい、あやふやになっていく。だって、向こうにいる誰もこの世界を知らないんだから」

 あの時はこうだったね、楽しかったね、なんて語り合える人はいない。

 異世界トリップしたんですなんて迂闊に話せるわけがない。一歩間違えば精神病患者にされて病院送りになることもありえる。

「親しくなればなるほど、別れが辛くなるだけだ。ある程度一線をひいて接していたほうが、のちのちのためになるよ」

 マコトはアカリを見ていると心配になる。

 未来のことなんて何一つ想定していない、ただただ今をまっすぐに生きている様は眩しいけれど、とても危ういものだ。

 皆が優しいから、アカリはすっかり甘えていた。甘えることを許されていた。

 でもアカリは、帰る。元の世界に。それは彼らとの別れを意味していた。

「……そっか、そうだよね」

 マコトの言葉を噛み締めながら、アカリは頷いた。

「マコトさんはやっぱり優しいなぁ。……あたしはちゃんと考えてなかったんだね。そうだよね、世界が……違うんだもんね」

 役目を終えたら、永遠のさようならだ。

 アカリは剥きかけの野菜を見下ろして、でも、と呟いた。

「……あたしは、どうなるかわからないあとのことのために、今を蔑ろにしたくないなぁ」

 あとで後悔するかもしれない。皆との別れが辛くて泣くかもしれない。向こうへ帰って、皆に会いたいと叫ぶかもしれない。

 そんな未来を恐れて、今彼らと距離をとることを、アカリは望まない。

「あとでどんなに辛くても、楽しかったよ、しあわせだったよって、笑える今を作るよ」

 へら、と深く考えていないような気の抜けた笑顔で、アカリはマコトを見上げた。

「そう」

「うん。あとね、ちょっと安心した」

「何が?」

 不思議そうに首を傾げるマコトに、えへへと笑った。

「ひみつ」

 アカリには分かった。分かったことにした。

 マコトはこの世界に残るんだ、日本に帰らないのだと、もう決めているのだ。

 だってマコトに少しでも帰る意思があるのなら、たとえアカリが帰っても、少なくとも一人だけは、マコトだけはこちらの世界を知っている。

 けれどマコトはアカリは一人きりになるのだと言った。つまりは、そういうことなのだ。

 ――よかった、と思う。

 だって、ルティアナとマコトが別たれる未来なんて、アカリは見たくなかった。二人には一緒にいて、一緒に笑い合っていてほしかった。

 だからよかった。本当に、よかった。




 夕食を終えると、満腹の効果か否か、アカリはうとうとと眠い目をこすった。

「おい、ここで寝るなよ。眠いなら天幕で寝ればいいだろ」

 見かねたフランツが声をかける。天幕を使うようになってからは、天幕の中でルティアナとアカリが眠って、馬車や火のそばで男性陣が眠っている。天幕はそれほど大きくないし、着替えなどを考えるとその割り当てが妥当だった。

「んー……まだ起きてる……あたしは眠くない……!」

「子どもが駄々こねてるようにしか見えない」

「ちょっとしか変わらないじゃん! 子ども扱いするなー!」

 ぽかぽかとフランツを叩くが、もう半分くらい寝ているアカリがいくら殴ってもまったくダメージはない。

「うー……」

「こら、寝るな」

 アカリは振り上げた拳をそのまま、ぽすん、とフランツにもたれる。あらあら、とルティアナが微笑ましい光景を見るように笑った。

「アカリ」

「ううー……」

 どうやら限界らしい。寝たくないと思いながらもアカリの瞼は閉じたままだ。たく、と呆れたようにフランツはため息を吐いた。

「ためいきつくとー……しあわせにげるんだぞぉ……」

「誰のせいだ」

 夢うつつのアカリがもごもごと文句を言っている。ルティアナが苦笑しながら天幕の入り口を開ける。

「寝てしまったかしら?」

「ねてないぃ……」

「……寝てるな」

 声はまだ聞こえているのだろう。会話にまざってくるものの、フランツによりかかる重みは増す一方だ。

 こんな役回りばかりだな、と思いながらフランツはアカリを抱き上げる。ギルベルトがにやにや見ているのが腹立たしい。こんなときアカリを運ぶのはフランツかマコトくらいなものだし、なぜかいつもフランツの傍でアカリは寝る。

 両手が塞がっていてもルティアナが入口の布をまとめてくれている。天幕の中はわずかに甘い香りがするような気がして、フランツはひどく居心地が悪い。

「んぅ……」

 毛布をかけてやると、アカリは猫のように丸くなった。ルティアナの目があってよかった、と心底思う。

 そっとアカリの頭を撫でて、天幕を出る。

 ルティアナと一瞬目があったが、彼女は何も言わなかった。フランツも、曖昧な笑みを零してそのまま元いた場所へ戻る。


 ――ちゃんと守る。ちゃんと、帰してやる。


 約束を違えるつもりはなかった。

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