第2話 ねぇあなた、死んでいるの?

 ルティアナとマコトが出会ったのは、もう十年も前のことになる。


 当時七歳のルティアナは公爵令嬢にふさわしく、恵まれた生活を送っていた。

 マコトを見つけたのは、父とともに領内のとある街にやってきたときだ。視察のために忙しくしている父とは違い、ルティアナは暇を持て余していた。

 お転婆なルティアナが街を探検しようと路地裏に足を踏み入れた先で、ひとりの少年が傷つき倒れていたのだ。

 見たことのない形の服はぼろぼろで、身体のあちこちがすり切れ、血が流れている。……気を失っているのだろう、顔色は悪く血の気がなかった。


「ねぇあなた、死んでいるの?」


 ルティアナは少年の傍らに立ち、見下ろしながら問いかける。もちろん少年から返答はなかった。

 服が汚れることなど厭わず、ルティアナは膝をつき少年の胸に耳をよせた。とくん、とくん、と小さく弱々しい音が聞こえる。

 生きている、とルティアナはその音にほっとした。


「――おい! どこ行った!」

「どうせ遠くへは逃げられねぇよ、あの珍しい黒髪だ、高く売れるだろ」


 そう遠くないところから、叫ぶような会話が聞こえる。なるほど、この少年は黒髪だ。黒髪といえば伝説の乙女――貴族でなくてもこの国の民はあこがれる髪の色である。

 誰もがあこがれ、焦がれ、崇拝する。そのことをルティアナはよく知っている。

「ルティアナ、こんなところにいたのか!」

「おい見つけたぞあそこだ!」

 ルティアナを探す父たちと、少年を探す男たちが同時に路地裏に現れる。ルティアナは幼くも賢いその頭でおおよそのことは理解できた。


 この少年を、あの男たちに渡してはいけない。


 騒々しさで意識が戻ったのだろうか、少年が苦しげに顔を歪ませながら目を開けた。その瞼の奥に潜んでいたのも黒。この国には、いやこの世界ではとても珍しい――珍しすぎる色だ。

 その目が、追っ手である男たちの姿を見て怯えた。

 

「お父様、わたしこの子を従者にするわ!」


 少年の黒い瞳が見開かれる。そして、男たちも「はぁ?」と声を上げ、ルティアナの父は静かに娘を見下ろした。

 にっこりと、七歳の子どもとは思えない艶やかな微笑みを浮かべて、ルティアナは少年の手をとった。

 父の後ろにはおそらくルティアナを探していた騎士団の人間がいる。男たちも彼らが逆らえない人間であると悟っているはずだ。事実、じりじりと逃げるタイミングをはかっているようだった。

 しかし、目の前の少年は手放すのは惜しいのだろう。どうにかして少年の身を自分たちのもとへたぐり寄せられないかと見つめている。

 だからルティアナは、この少年を離す気などないと態度で示した。傷つき自力で立つことが困難な彼を、しっかりと抱きしめる。

「だって、わたしがみつけたのよ」

 それは子どもが我が儘を言うようなセリフだったが、ルティアナの目は子どもらしさなんて欠片もなかった。あの男たちに彼を渡してはいけない。渡すものかという決意で燃えている。

「ルティアナ、その子どもは……」

 形の上ではあの男たちのものなのだろう。しかし、この国で人身売買は禁じられている。彼らが主張できるのは、この少年の連れである、または保護者であるということだけだ。

「ねぇ、あなた」

 ルティアナの細い腕の中で苦しげに顔を歪める少年に、ルティアナは声をかける。

「あなたは、あの人たちを一緒に行きたい?」

 少年はその黒檀の瞳を見開いて、そしてふるふると首を横に振った。力の入らない指先で、ルティアナのドレスを掴む。

 その確かな意思表示に、ルティアナは満足気に笑った。

「ほら、この子はこう言っている。だったら、わたしが連れて行っても問題ないわよね?」

 確かめるように父を見上げると、ルティアナの父はため息を吐き出すだけだった。

 好きにしろ、ということらしい。

 そのままルティアナは少年を抱き上げようとしたが当然できるはずもなく、護衛の一人が少年を抱き抱えた。

 汚れたドレスの埃を払い、ルティアナは男たちを見た。

 してやられた、という顔をしている男たちに、ルティアナは微笑んだ。

「彼がほしいのなら、アークライト家にいらっしゃい。やましいことがないのならできるでしょう?」

 それは、七歳の子どもとは思えない艶然とした笑みと言葉で、男たちはそのまま何も言わず逃げるように去っていった。




 少年が目覚めたとき、やわらかなベッドの上に寝かされていた。傷はすべて手当てされており、包帯がまかれている。

「目が覚めたのね」

 ベッドの傍らの椅子にお行儀よく座っていたルティアナは少年の顔をのぞき込んだ。

「わたしはルティアナ。あなたの名前は?」

「……まこと。すどう、まこと」

「マコト・スドウ? 変わった名前ね」

 ルティアナは何度か名前を繰り返し口に出す。この国では聞いたことのない名前だ。

「ここ、日本じゃないよね。……地球ですらないかな」

「ニホン? チキュウ? そんな地名は聞いたことないわ」

 ルティアナは貴族の令嬢として既にいろいろなことを学んでいるが、そのルティアナですら聞いたことのない地名だった。ルティアナが国名を告げると、マコトは眉を顰めて「知らない」と答えた。

「たぶん俺、ここじゃない世界から来ていると思う」

 まぁ、とルティアナはさほど驚いた様子もなく答えた。だってマコトの黒い髪も黒い瞳も、異邦者であることを告げていたからだ。ルティアナも黒い髪を持っているが、彼のようなうつくしい漆黒ではない。

「そうでしょうね。だってあなた、とっても変わってるもの」

「別に、普通なんだけど……」

 彼にとっての普通が、この国では異質であるということだ。それはもう彼自身うすうす気づいているらしい。

「わたしはあなたを従者にするつもりよ。けれどそのためにあなたを助けたのではないわ」

 ルティアナは立ち上がり、そして堂々と告げた。

「今のあなたには生きる術がない。帰る場所もない。だからわたしはそれらをあなたに与えてあげる。その代わり、あなたはわたしの従者になる。けれど覚えていてほしいの」

 ルティアナは奴隷を買ったのでもない。マコトの自由を奪いたいわけではない。

 そんなことのために、手を差し伸べたのではない。

「あなたには選択の自由がある。選ぶ選ばないはあなたが決めることができる。今、ここでもそうよ」

 従者となりルティアナのもとで庇護を受けるかどうか。

 ルティアナは現実を教え、マコトに選択肢を与えているだけだ。

「……従者にならなきゃ、追い出されるんじゃないの」

 マコトの問いに、ルティアナは微笑んだ。

 ルティアナの言葉はきちんとマコトに届いているらしい。きちんと考えて選ぼうとする意思が彼にはあった。

「そうね、いつまでもあなたを屋敷においておくことはできないと思うわ。怪我がよくなるまでは大丈夫でしょうけど」

 包み隠さずルティアナは正直に答える。

 従者にならなかったらどうなるか、ということをあえて言わなかったのだがマコトはしっかりとその可能性を確認してきた。

「それに俺、この国のこともよく知らない」

「従者が無知で恥をかくのはわたしだから、お勉強してもらうことになるわ」

 従者になるならね、とルティアナは笑う。

 マコトは真剣な顔をしていた。傷だらけの顔を見つめながら、ルティアナはその表情を忘れないように記憶に刻む。

「……いつか、あんたの従者を辞めると言っても」

「別にかまわないわ。わたしはあなたの人生を支配する気はないもの」

 ルティアナに助けられ、そしてルティアナに何もかも与えられる。それなのに彼女の求める対価は「従者になる」というただそれだけだ。それすら、いつかの未来に捨てることを許される。

「……何がしたいの? あんた」

「何が? ふふ、そうね、一緒に学ぶライバルがほしいし、一緒に遊ぶ友だちがほしいわ。わたしは見ての通り箱入りだから年の近い子と遊ぶことって滅多にないの」

 年の近い兄弟もいないので、ルティアナは何をするにもたいてい一人だった。領地から出ることもほとんどないので、釣り合いのとれる貴族の子どもと会うこともあまりない。

「だったらなんで従者なの」

「わたしの傍におくなら理由と立場が必要だもの。お父様にお願いしてうちの養子にすることもできるでしょうけど、それじゃああなたが将来出て行きたいと言ったとき面倒なことになるわ」

 傷だらけのマコトを見てルティアナの母はたいそう心配していたし、父もかわいいルティアナには甘い。養子という選択も不可能ではなかった。

 マコトは布団の上で握りしめた自分の拳をしばらく見つめた。そして、その黒い瞳がルティアナを力強く見据える。

「いいよ、あんたの従者になる」

「決まりね」

 にんまりと、ルティアナは今日一番子どもらしい笑顔を浮かべた。

「今日からマコトはわたしの従者よ!」


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