第17話 獣

 さすがに、馬に乗った人々を自らの足で追いかけるのには無理があった。すぐに引き離されてしまい、沙羅はゼエゼエと肩で息をしながら足を止める。十分な体力などない貧弱な沙羅の体では、少し走っただけでこのザマだ。


 どこかで馬を借りられないだろうかと周囲を探ったが、どこにもそのような場所はない。自分の足で行くことを本当に覚悟した方が良さそうだ。


 沙羅は、この頃噂になっているあやかしの出る山の位置を手当たり次第に町の人々に尋ね回り、どうにかこうにかその山の入り口へ辿り着いた。町からそれほど離れているわけではなかったことが幸いだが、当然討伐隊の姿はどこにもない。もうとっくに山の中だろう。


 馬が通ることのできそうな山道を選びながら、沙羅は山中へ分け入った。木の根に這った苔に足を滑らせて転びそうになったり、顔面に蜘蛛の巣を引っ掛けて悲鳴をあげたりしながらも、討伐隊が無事であることを祈りながら前へ進んで行く。途中、雲行きが怪しくなったかと思うと、鼻先にポツンと雫が落ちた。雨だ。沙羅は思わず足を止めて空を見上げた。幸い激しい雨ではなく、しとしとと降る柔らかな雨だ。これが悪い予兆でなければ良いのだが。


「……っ!?」


 かすかだが、耳に人の悲鳴が聞こえ、沙羅はびくりと肩を震わせた。どうも雨は悪い予兆だったらしい。沙羅は、震える足を無理矢理動かし、悲鳴の聞こえてきた方向へ急いだ。途中、雨に濡れて余計に滑りやすくなった苔に足を載せ、盛大に転んでしまう。衣がぐしょぐしょに濡れ、あちこちに草や葉の切れ端、蜘蛛の糸がくっつく。脛も少し擦りむいてしまった。足にも達している痣を、あまり見ないように着物の裾を整えてから、沙羅はまた山道を進み始める。


 やがて、沙羅はその場所へ辿りついた。


 肩で息をしながら、目の前の光景を呆然と見やる。

 辺り一帯は、血の海だった。


「や、やめてくれ、頼む、頼むっ」


 懇願虚しく、黒い毛の塊が蠢いて、怯える男のはらわたを食い破る音が、沙羅の鼓膜に残酷に響いた。血が飛び散り、また一つ、地面へ血の海と肉塊を生む。そうやってできた屍がいくつも、黒い毛の塊の周りに散乱していた。それは全て武装した人や馬だった。間違いなく、さっき町で見かけた討伐隊だ。


 一頻り人の腸を味わった黒い獣は、ふと顔を上げ、赤い瞳を沙羅の方へ向けた。


 確かに、犬に似ているとも言える。だが、沙羅の目には犬に熊を足し合わせたような化け物と言われた方がしっくりくるように映った。体の大きさは成体の熊よりも大きい。前足は熊のように大きくがっちりしており、後ろ足は狼や犬のようにすらりとしている。耳と鼻先は尖り、犬に似ているが、頭部が若干熊のように丸みを帯びている。その姿は、明らかに通常の獣ではない。あやかしだった。


 雨に濡れた黒い毛皮を着込んだそのあやかしは、目の前の死体を前足で蹴り転がし、口の周囲に飛び散った血を舌で器用に舐めとった。


 沙羅は、あやかしが黒い色をしていることに気づいた時点で逃げようとしていたのだが、あまりの恐怖によるものか、とっさに動くことができなかった。せめて、あやかしが明らかに沙羅の存在に気がつく前に逃げたかったのだが、こうなってしまっては、下手に動いた方が危険かもしれない。


 沙羅は呼吸を落ち着かせ、冷静になろうと必死で努めた。あやかしとの距離は十分にあるが、相手がその気になれば、おそらく一瞬で詰められる距離だ。襲われればひとたまりもない。今沙羅が持っている武器になりそうなものといえば、護身用に持ってきた懐剣のみ。刀や長槍、鉄砲などの強力な武器を持っていたはずの討伐隊さえ全滅しているのだ。懐剣一本しか持たない非力な女が、襲われて生き残れるはずもない。


 沙羅は、あやかしから決して目を離さぬよう注意しながら、右足を、ゆっくりと後方へ引いた。その時、あやかしが不意に後ろ足で立ち上がった。心臓が口から飛び出しそうな気分になった沙羅の前で、あやかしは前足についた血を舐めるのに夢中になる。どうかそのまま見逃して欲しいと思いながら、今度は左足を後ろへゆっくりと引く。が、ことはそう上手くは運ばなかった。あやかしは、沙羅へ無関心を装いながらも、その赤い瞳は始終沙羅に向けられていた。このまま逃げられるのではないかと、沙羅がわずかに希望を見出しかけたその時、あやかしは前足を地面につけたかと思うと、たった一足飛びで沙羅の目と鼻の先の地面へ着地した。目視だが、距離は十五丈(45メートル)以上あったはずだ。その距離を、たった一回の跳躍で縮めた。


 呆然とする沙羅の顔に、血と腐肉の匂いの混じった生暖かい空気が降りかかる。もう無理だ。数月前に、喉を突いて死なずとも、結局ここで死ぬ運命だったのだと、沙羅は諦念を抱く。封じられていたあやかしに取り憑かれ人を殺し、そのあやかしをかばい罪に問われた巫女は、また別のあやかしに食われて命を落とすのだ。相応しい最期だとも言えるのかもしれないと、恐怖で体は言う事を聞かないのに、頭だけはに冷静にそんな事を考えている。


「キツ……ネノ……シルシ」


 沙羅を殺そうと歯を剥き出しにしたあやかしの牙の間から、人語が聞こえた。滑らかな発音ではないため、瞬時に意味を理解することができない。


「ハ……ゲバ、クエ」 


 言わんとしていることを沙羅の頭が理解するよりも先に、あやかしは後ろ足でその巨体を支え、熊に似た大きな前足を、沙羅の体目掛けて振り下ろしてきた。

 

 その時、旅の間中ずっと首にかけてあった鎮めの玉の御統から、青い炎が恐ろしい勢いで吹き上がった。炎は、沙羅を襲わんとしていたあやかしの巨体を一瞬で覆い尽くし、その身を焼き焦がす。何が起こったのか理解できない沙羅の前で、突如炎に包まれたあやかしは断末魔の叫びをあげる。狂ったように暴れまわり、あやかしは炎の中から転げ逃げたが、毛皮に燃え移った炎が容赦なく体を炙る。雨の中だというのに、炎は消えることなく燃え移った毛皮を苗床として、空高く燃え上がり、煙をあげた。やがて鎮火すると、元の姿も分からぬほどに焼け焦げた骸がそこにできていた。あまりの出来事に思考が追いつかず、しばし呆然としてから、沙羅はようやく一言漏らした。


「……この、炎」


 見覚えがあった。夢の中で、魂鎮めで、森の中で。


 沙羅は、着物を売っても髪飾りを売っても、決してこれだけは売らなかった、力を失った神器を震える手で掬うようにして持ち上げた。


「あなた……そこにいるの?」


 かすれた声で呼びかけてみたが、濡れそぼった五つの勾玉からは何の反応もない。だが、御統に触れた手のひらに、生き物のようなぬくもりを感じる。そのぬくもりは、雨に濡れ冷え切った沙羅の手をじんわりと優しく包み込んでくれている。


「いるのね。一体、いつからそこにいたの?」


 無事だったのだ、あの後どこへ行ってしまったのか、ずっとずっと心配だった。


 安堵した表情で、勾玉へそっと話しかける。


 その声が引き金になったかのように、五つの勾玉全てが、沙羅の手のひらの上でほのかな光を帯びた。それに目を見張る沙羅の視界を、黄金色の木の葉が一枚、ひらりとよぎる。


「あの夜からだ」


 どこか聞き覚えのある声が頭上から降ってきて、沙羅は弾かれるように顔をあげた。

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