第16話 噂

 沙羅は、とりあえず生活をしていくために、その菊野屋へ向かうことをさしあたっての目標とした。女将からは地図を渡されているので、道に迷う心配もなく、沙羅は着々と川に沿って展開する村々を通り、旅を進めていった。


 女将からの、人気のない場所には決して近付くな、日が暮れてから動き回るな、という忠告を守ったためか、たまたま運が良かったためか、追剝ぎや盗賊に襲われることなく、沙羅の旅は順調に進んだ。そうして四日目が過ぎた頃、菊野屋までもうあと半日というところの大きな村(町と言ってもいいかもしれない)まで来たところで、沙羅は気になる話を耳にした。


「出たんだとよ。でかい犬みたいなあやかしが」


 店先で立ち話をしている二人の男の会話を通りすがりに拾ってしまい、沙羅は思わず立ち止まってしまった。「でかい犬」という言葉にまさかと思い、沙羅は「あの」と気付いた時には男に声をかけてしまっていた。声をかける時、手のひらを男の方へ向けてしまい、「あ」と慌てて引っ込める。痣を見られたかもしれないと思ったからだ。沙羅に話しかけられた男は、一瞬戸惑ったような顔を見せたが、「なんだい」と気前よく応じてくれる。そのことにホッとしつつ、沙羅は先ほど聞こえてきたあやかしの話を詳しく聞かせて欲しいと男に頼んだ。


「物好きな娘さんだな。あんたくらいの歳の子、あやかしの話なんざしたらきゃあきゃあ言って逃げちまうのに」


「そう……なんですか」


 沙羅にはイマイチわからない。何せ多津瀬にいれば、あやかしの話を聞く機会などそうそう巡ってこない。


「後で怖いって文句言わんでくれよ」


 そう前置きしてから、商人風の男は話してくれた。


 なんでも彼の話によれば、ここからそう遠くない山の中で、普請に必要な木を切りに入った者たちが、大きな犬のような化け物に襲われ食われたらしい。運良逃げ帰った者がこれを喋り、町の男たちは武装してそのあやかしを討伐しに向かったらしいが、その一隊も結局は帰ってこなかった。おかげで誰も山に入りたがらず、領主から命じられた館の普請が一向に始まらないという。


「で、業を煮やした領主様が、自ら軍を率いてあやかしを討伐しに行くか行かないかってところまで話は来てるらしい」


「討伐がいつになるかはまだ決まってないんですか」


「決まってるのかもしれんが、俺は知らんな」


 そこで、黙って二人のやり取り聞いていたもう一人の男が口を挟む。


「都の陰陽師様に依頼すりゃあ、これ以上人死がでなくて済むかもしれんのになあ。そうしないのかね」


 すると沙羅へ話してくれていた男が「馬鹿おめえ」とどやし始める。


「そんなことしてたら金はかかるし時間もかかる。ここから都までどんだけあると思ってんだ。それに、陰陽師様は帝様に仕えてんだ。こんな地方のあやかし好き好んで討伐しに来てくれるかね」


 ひとしきりまくし立てた後、男は沙羅へ向き直る。


「ま、そういうわけだからお嬢ちゃん、旅の者らしいが、絶対山へは入るなよ」


 沙羅は頷き、ご忠告ありがとうございますと頭を下げて、その場から速やかに退出した。女性の一人旅は珍しいので、いろいろ詮索され始める前に立ち去った方が良いのだ。長話は良くない。


 しばらく町の大通りを歩き、川にかかった橋が見えてくると、沙羅は河原に下りてしばし考え込んだ。


 そもそも、男に詳しく話を聞かせて欲しいと口を挟んだのは、彼が話していた「大きな犬に似たあやかし」の正体が、九尾の妖狐ではないかと思ったからだ。

だが、それ以上の情報がないため、早急に九尾の妖狐と決めつけるわけにもいかない。もっとあやかしの特徴を聞くべきだったか、と沙羅は後悔したがもう遅い。わざわざ戻って聞くのも不自然だし、そもそも彼自身が遭遇したわけでもないので、話してくれた以上のことを知っているとも思えない。


 それでもどうしても気になった。もしそのあやかしが九尾の妖狐だと仮定したら、彼は未だ心を狂わされている状態にあり、望みもしないのに人を襲っていることになる。そうとなれば、沙羅も無関係ではない。九尾の妖狐に操られて封印を解いたのも、父たちに殺されないように庇い逃したのも、救って欲しいと請われた九尾を完全に救えなかったのも、全ては沙羅の行いなのだから。そのせいで多くの人が死に、九尾が苦しみ続けているのなら、素知らぬ振りなどできなかった。


「でも、どうしよう……」


 ぽつりと独り言を漏らした沙羅は、橋を行き交う人々を見上げた。


 すぐにでもあやかしのいる山に向かいたかったが、本当に九尾の妖狐だと確定したわけではない。九尾の妖狐でなかったら、本当に人を襲うあやかしだったら、自分が殺されかねない。それに、九尾の妖狐であったとしてもだ。彼を救うことができずに、結局は殺されてしまう可能性は大いにあった。結局、今山に入るということは、どちらにせよ自分の命を危険にさらす行為の何者でもないのだ。


——でも、もしそのあやかしが九尾の妖狐なら、私は山に入る。そうでしょう


 沙羅は心の中で自分に問いかけた。答えは是だ。恐怖心がないわけではない。だが、自分の行いが原因で人が死ぬのは見過ごせない。いや、この場合、見過ごしてはならないのだ。自分は、九尾を介しすでに人を殺した身。本来ならば死をもって償わねばならない罪を犯したのだから。それが、今では大叔母の最大限の温情だったのかもしれぬと推測することしかできないが、彼女がもう一つの選択肢を与えてくれたおかげで、沙羅はこうして生きている。だがただ生かされたわけではない。生きて罪を償うことが、求められているのだ。しかし、沙羅はそれすらもしていない。これは、再度封印すべき九尾の悪行が、何かの力によって狂わされていたが故の行いということを知ってしまったからに他ならないため、仕方のないことなのかもしれない。で、あるならば、沙羅がやるべき償いは、別のこと。すなわち、未だ苦しみの底にあるかもしれない九尾を今度こそ救い、これ以上彼によって人が殺されることのないようにすることだ。だから、山に潜み、人を襲い食らうあやかしが九尾の妖狐であれば、沙羅に行かないという選択肢はない。許されない。


 とにかくまずは、山にいるあやかしの正体が、九尾の妖狐かどうかを探らねばならない。ならば、しばらくこの町に滞在して情報収集するべきだろう。沙羅は、懐から貨幣の入った袋を取り出して中を確かめた。女将からもらったお給金と退職金だ。まだ少し残っている。ということは、ここでの滞在費は余分にある。


 決意を固め、袋を懐へ仕舞いなおして沙羅が「よし」と顔を上げた時だった。橋の上を、馬に乗り武装した集団が、沙羅のいるところから対岸の方へ向かって馬蹄を轟かして去っていった。道の左右に別れて集団を見送った人々が、ひそひそ囁きあう。


「まさか」


 土手を上り、沙羅は慌てて橋の上へ駆け寄った。遠くなっていく武装集団の背中を見ながら、沙羅は先ほど話をしてくれた男の言葉を思い出す。


『で、業を煮やした領主様が、自ら軍を率いてあやかしを討伐しに行くか行かないかってところまで話は来てるらしい』

 

 間違いない。あれは、あやかしの討伐隊だ。これではのんきに情報収集をやっている場合ではない。最悪、彼らが九尾の妖狐に殺されてしまう。


 迷うこともせず、沙羅は遠ざかる集団を徒士で追いかけ始めた。




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