第15話 女将
多津瀬を出て、どれくらい経ったろう。沙羅は、日数を数えることをもうやめていた。しかし、桜が葉桜となり、鬱蒼と若葉を茂らせるくらいの時は経った。近頃雨も多く降るようになってきたし、あともう少し経てばそろそろ蓮の花が咲き始める頃合いだろうか。
沙羅は長いため息をこぼしながら、井戸の底から鶴瓶を引き上げる。井戸水の汲み上げなど、多津瀬で暮らしていた頃はしたことがなかった。井戸水の汲み上げ方が分からないと女将さんに言ったら、ひどく驚かれたっけ、とここへ来たばかりのことを沙羅は思い出す。
宮一郎たちに見送られ多津瀬を出た後、沙羅はひどく苦労した。節約していたつもりだった食糧はあっという間に底をつき、路銀はどこぞの武士崩れに奪われた。奪い返そうと必死で抵抗はしたが、上玉だと妓楼に売り飛ばされそうになったので、自分の身を守るために結局逃げることしかできなかった。それからは、沙羅を憐れんだ人々からもらったささやかな食べ物、食べられる山菜などでどうにか食いつないできた。身につけていた絹の着物も、古着と少しのお金で交換してもらった。簡素とはいえ上等な着物をまとい、いかにも育ちの良さそうな顔でうろついていたら、あやかしに取り憑かれ追放された多津瀬の巫女と噂を立てられたからだ。
「穢れた巫女だって、みんな言ってる。あやかし憑きの巫女が、俺たちの村に入ってくるんじゃねえよ」
そんな容赦のない言葉とともに、子供達から石をぶつけられたこともあった。自分の噂が広まっていたことに沙羅はとても傷つき驚いたが、多津瀬にも交易などで外部から多くの人がやってくるし、彼らを相手に多津瀬の人々が沙羅のことを話したとしても何ら不思議ではない。だからとっとと上等な着物を売って、身を改めた。それでも育ちの良さまで完璧に消すことはできなかった。さらに、沙羅の体には長い帯状のものに巻きつかれたような痣が刻まれている。噂になっている多津瀬の巫女だと気付かれなくとも、うっかりそれを見られて気味悪がられることも少なくはなかった。
どこへ行っても人々から疎まれ、自身に付きまとう噂のせいで、沙羅は一時期人間不信に陥りかけた。そんな沙羅に声をかけ、雇ってくれたのが、川沿いで運送屋のようなものを営んでいる商家の女将だった。
現在、沙羅はその商家で住み込みの女中として働いている。食器洗いや炊事、洗濯、掃除など、慣れぬことばかりで先輩の女中たちから随分しごかれたが、何度もやるうちにさすがに覚えてきた。それでしごかれることが少なくなっても、沙羅の置かれた環境が良好になったとは言えない。女将は沙羅の出自も気にせず雇ってくれたが、家が貧しいため奉公に上がっている同僚たちからは、どうしても消せない育ちの良さを鼻持ちならないと嫌われ、隠しきれない掌の不気味な痣を気味悪がられ敬遠されている。
そんな自身の状況を振り返りつつ、それでも寝る場所とご飯が提供されているのだからありがたいと自分に言い聞かせながら、沙羅は引き上げられてきた水の張った桶を掴む。額にじんわり浮かんできた汗もそのままに、よいせと水を台所
へ運んでいった。土間に置いてある水瓶へ水を移し替えていると、どやどやとむさ苦しい男たちの声と足音が聞こえてくる。ちょうど荷物を運ぶ船が着いたのだろう。一仕事終えた男たちの、飯を要求する声が聞こえてくる。
「沙羅」
自分と同い年くらいの先輩女中が台所に顔を覗かせ、沙羅の名を呼んだ。沙羅は「はい」と慌てて振り返る。
「女将さんが呼んでる」
てっきり仕事を押し付けられると思っていた沙羅は、意外な顔をしながら、女将のいる二階の部屋へ向かった。
合図を待って部屋の中へ入ると、女将は難しそうな顔をしながら文机の上で帳簿をめくっているところだった。あまり商売がうまくいってないのだろうか、と半分他人事のように沙羅が考えていると、女将はぴしゃりと帳簿を閉じて横へどかした。それから眉をひそめてこめかみを揉み、「そこへお座り」と自分の前へ座るよう顎をしゃくる。
おずおずと女将の前に座った沙羅は、一体何の用件だろうかと女将の顔を見上げる。多津瀬を出てから、あまり人を好きにならなくなった沙羅だったが、この姉御肌の勝気な女将のことは気に入っていた。サバサバした性格で、細かいことにこだわらず、人の過去をあれこれつつき回したり詮索したりしないからかもしれない。そんな彼女が、見たことないくらいの渋面を作ったので、沙羅は冷や汗をかく。気のいい女将だが、怒ると結構怖いのだ。何かまずいことをやらかしただろうかと、沙羅は必死で記憶の糸を手繰り寄せる。
「悪いね、沙羅。あんたが気の毒でしょうがないよ」
しかし、女将の口を割って出た言葉は詫びるような口調で、どうやら怒られるわけではないらしい、と沙羅はホッとする。しかし、なぜ謝られるのだろうか。
「あの、女将さん、何を謝ってるんですか」
女将ははあ、と深いため息をつくと言った。
「うちの人がね。あんたの悪い噂聞いちまったんだよ」
その言葉に、沙羅はギクリと背筋を伸ばした。
「わ、悪い噂って……」
尋ねておきながら、薄々予想はついている。
「多津瀬の守り巫女が、封印されていたはずの悪いあやかしに取り憑かれて、大勢人を殺したって話、あんたも聞いたことあるだろ。それで罪に問われて追放されたその巫女が、あんたかもって噂だよ」
まさしくその通りだ。沙羅は目の前の女将に、まさしく私がそうです。その噂の通りですと告白するべきか迷う。だが、女将は
「ま、ひょっとするとそうじゃないかと、私も思ってたんだけどね」
とあっさり軽い口調で言ったので、毒気を抜かれた。
「い、いつから知ってたんですか?」
「あんたを見つけた時だよ」
「それなのに雇ってくれたんですか!?」
女将は「ああ」となんてことないように頷いた。
「どうして……?」
普通、そんな気味の悪い人間、雇おうと思うだろうか。これまで、沙羅の正体に感づいた人に、石を投げられたり鬼でも見たような顔をされたりするか、よくて憐れまれて食べ物を恵んでもらうのが関の山だったのに。彼女は感づきながらも、沙羅を雇ったというのか。
驚いた沙羅の顔に、その驚きの意味を理解したのか、女将は笑って肩をすくめた。
「いや、だって……悪い奴に見えなかったからさ。それに、私の人を見る目はいつだって冴え渡っているからね。雇ってみたら、何も知らないお嬢ちゃんだったけど、教えたら一生懸命覚えようと努力してたし、人一倍キリキリ働いてくれて、私はあんたが気に入ったんだよ。本当なら、あんたさえよけりゃずっと置いておいてやりたかった」
女将は一旦言葉を切り、真面目な顔つきに戻る。
「……けど、うちの人にすぐクビにしろと言われちまってね。旦那は信心深いから、あやかしに憑かれたことのある巫女を雇っているだけでも、バチが当たってると思い込んじまってるのさ。それに、客の評判も悪くなるって」
女将は苛々したように頭をかいた。
「馬鹿馬鹿しいことこの上ないよ。まったく。自分の目の前のその巫女が、あんたが、どういう人物か知ろうともせず、どこの誰が言い出したか噂を丸呑みにして、それで人となりを決めつけてるってんだから」
女将が自分のことで怒ってくれているのに沙羅は驚いて、そして心が温かくなるのを感じた。女将のような人もいるのだと、渡る世間は鬼ばかりではないことを知らされる。しかし、女将の旦那はこの店の主人だ。彼の決定には女将も逆らえないのだろう。同僚には恵まれなかったとはいえ、この温かい女将のいる場所を離れ、また一人彷徨うのかと、暗い気持ちになる。
「あんたをクビにはするけど……はい、これ」
いつの間にか、女将は手元の紙にさらさらと筆で何かを書き付けていた。それをはい、と沙羅の方へ差し出す。沙羅は反射的に受け取った。
「これは?」
「紹介状だよ。川をずうっと下っていったら、私の知り合いの店がある。菊野屋
っていうんだ。そこに行って、この紙を見せて雇ってくださいっていいな。私の紹介状があればすぐ雇ってくれるはずだよ。もちろん強制ではないけどね。これから何をしてどう生きていくのかは、あんたが決めることだから」
口を動かしながら、女将はテキパキと大振りの貨幣を布に包んだものも沙羅に手渡す。
「こんなにいただけませんっ」
仰天して、沙羅は包みを女将の手へ押し戻した。女将は「今月分のお給金と退職金だよ。いいから持って行きな」と強引に沙羅の懐へ包みをねじ込む。それから、別れを惜しむように少し寂しげに笑った。
「私の力が及ばないせいで、辞めさせることになっちまったんだ。これくらいさせとくれ。何も持たせず放り出すなんて、私を夜眠れなくする気かい」
*
女将から持たされたお金と紹介状、後から渡された保存の効く食糧を行李に詰め込み、沙羅はその日のうちにお世話になった場所を後にした。いきなりのことであったから、せめて出発は明日の朝にしないかと女将に言われたのだが、沙羅は断った。極力、この店に迷惑をかけたくはなかったのだ。
紹介状まで書いてくれた女将だったが、この菊野屋で働くかどうかは沙羅が決めること、これからどう生きるかは自分で考えなと言っていた。だが、今の所沙羅には、目的も、生きる軸のようなものも、持っていなかった。生まれてこのかた両親や大叔母によって敷かれた道を歩くだけの人生だったから、そういうことを考える癖が付いていないというのもあるが、毎日を生きていくことに精一杯で、そんなことを考える余裕がなかった。
本来なら、自分のせいでこの世に解き放たれてしまった九尾の妖狐を封印するべく後を追うべきなのだろう。そうすることでしか、生まれ故郷の多津瀬へ帰ることはできないのだから。けれど、九尾をもう一度封印したり倒したりする気は全くなかった。第一できる気がしないし、そもそも九尾が本当に悪いあやかしだとも、また悪さをするとも思えなかったからだ。沙羅が追放されたのは九尾のせいでもあるのに、個人的な私怨もなかった。
ただ彼は、何かよくない力によって狂わされていただけだった。操られていたと言っても良いかもしれない。いわば被害者だ。だからと言って、彼の犯した罪がなくなるわけでもなければ、許されていいわけでもない。それでも封印や退治というのは、違うと思った。
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