第12話 燃え盛る炎の中で

 視界がプツリと途絶えた。そうかと思うと、別の視界へ切り替わる。


 沙羅が顔を上げると、辺りは火の海。森の木々や草の上を青い炎がチロチロと這いずっている。さっきの花畑はどこに行ったのだろう。なぜ消したはずの火がまだ燃えているのだろう。


 人の気配を感じてふと前を見ると、見知った顔が並んでいた。父の宗右衛門に、宮一郎、彼の幼馴染である明彦……。他にも何人かいる。全て沙羅の父に仕える武士たちだ。


 彼らは何かを怯えたように凝視している。最初、沙羅は自分を見ているのだと思ったが、どうも彼らの視線はよくよく観察すれば自分の後ろの方に向いている。


「……?」


 後ろを向いた沙羅は、目を見張った。


 美しい毛並みを持つ、一匹の狐がそこにいた。体は通常の狐よりもずっと大きい。人の三倍はあるだろうか。普通の狐と違う箇所は他にもある。狐ならばその体色の基調とする色は赤錆色で、腹側の毛は白、耳の先は黒い毛で覆われているはず。だが、目の前の狐は金色の毛一色で覆われている。わずかに大きな三角耳の先端部に黒い毛が見える程度だ。しかも目の色は血を写し取ったように赤く、尾などは何本もある。


 その狐になんだか見覚えがある気がして、沙羅は狐に向かってぼんやりと手を伸ばしかけた。


 だが、突如その狐の姿が崩れた。金色の体は黄金色の小さな無数の葉に変化して、宙へ舞い飛び消えてゆく。葉が消えた後には、さっき沙羅に柔らかな微笑みを向けてきたあの若い男の姿が残った。


「……あなたは」


 男はうずくまりこそすれもう泣いていないようだったが、随分と衰弱しているように見える。沙羅は心配して男に近づこうとしたが、「沙羅」と父に名を呼ばれて振り返った。すかさず宮一郎が駆け寄ってくる。


「姫様、意識が戻ったんですね」


「宮一郎。何があったの」


 沙羅が尋ねると、宮一郎は複雑な顔をした。


「……九尾の妖狐が復活したんです。姫様はさっきまで、九尾に取り憑かれていたんですよ。それがたった今、姫様の体から、その……化け狐が出てきて」


「え……」


 宮一郎の視線につられ、思わず沙羅は後ろにいる男の方を見た。


 では、彼があの九尾の妖狐だというのだろうか。いや、そうに違いない。現に今、沙羅は九尾の妖狐としか思えぬあやかしが、目前の男へ姿を変えたのを見たのだから。彼こそが、沙羅から守り巫女の力を失わせ、惑わし、封印を破ろうとあらゆる手を講じていた、あの。けれど彼は、あの場所で出会った彼は、ちっともそんな風には見えなかった。


 沙羅は、そっと目の前の男へ囁いた。


「ねえ、あなた。私はちゃんと、あなたを救うことができたのかしら」


「宮一郎っ、沙羅を安全な場所へ」


 沙羅が九尾の妖狐の返答を待つ暇もなく、父が大声をあげた。


「は、はいっ」


 宮一郎は頷いて沙羅の腕を掴む。


「さあ、姫様早くこちらに」


「え、あ、ちょっと……」


 九尾の妖狐のことが気にかかって、沙羅は宮一郎に手を引かれながらも後ろ髪を引かれるように背後を気にする。その時、父が部下に号令を下すのが聞こえた。


「奴はおそらく弱っている。殺すなら今が好機だ。あれを殺せっ」


 宗右衛門の指図で兵士たちが弓を構えた。尖った矢の先端部が青年——九尾の妖狐の方へ向く。


 それを見た沙羅は宮一郎の手を振りほどき、ほとんど何も考えずに九尾の妖狐の元へ駆け寄っていた。


「待って。彼を殺さないで」


 九尾の妖狐の前で両手を広げ、沙羅は仁王立ちする。


 そんな沙羅を宗右衛門は重々しい口調で咎めた。


「沙羅。そ奴はお前の心に漬け込み、長年にわたって悪夢を見せて苦しませてきた張本人なんだぞ。挙句の果てにお前の心と体を侵食して復活を遂げ、お前の体に取り憑いた。そしてこれを見ろ。その九尾の炎に巻かれて何人もの犠牲者が出た」


 宗右衛門は右腕を翻し、沙羅へ見るように促した。


 宗右衛門が指し示した方向には、ピクリとも動かない兵たちの体がある。それを目にした沙羅の頰はたちまち青ざめた。


「沙羅。お前はきっとまだ九尾に取り憑かれた影響が残っているんだろう。だからそんな風に九尾をかばったりするのだ」


 宗右衛門は沙羅へ厳しく言った。


「な、私は正気ですっ」


 叫んでから、沙羅は九尾の方をちらと見る。


 あの時彼は、泣きながら沙羅に救いを求めてきた。自分を苦しめてくる熱い炎を消してくれと。もうわけもわからぬままに暴れるのは嫌だと。そして沙羅は彼を救った。救ったはずだ。彼から直接返答は聞けなかったが、きっと。だが、彼をこのままにしておけば、宗右衛門の率いる兵たちに矢を射掛けられて死んでしまう。一度救おうと決意したのなら、最後まで彼を守ってやるべきだ。熱い業火から、人の殺意から。そして何より、あの時の縋り付くような目を見てしまっては、見殺しになどとてもできない。たとえ彼が、沙羅の知らぬ間に悪行を重ねていたとしても。


 沙羅は仁王立ちしたまま、果敢に父へ訴える。


「父上、私の話を聞いて。九尾は長い間、ずっと苦しんできたんです。それが呪いによるものか、何かもっと別のものによるものなのかはわかりません。だけどこれだけは言えます。九尾は好きで暴れたんじゃありません。だって、だって言っていたもの……。もう暴れたくないって、わけもわからぬ感情に突き動かされて暴れるのはもう嫌だって。血を…流してっ。だからお願い。どうか彼の事情を汲んで、殺すのだけは」


 その時、沙羅の背後でガサリと音がした。ハッと振り返ってみると、九尾の妖狐の姿がない。たった今何かが通ったように揺れる草葉から察するに、森の奥へ逃げたのだろう。


 どうにか彼が殺されずに無事逃げていったことに安堵した沙羅は、ほっと胸を撫で下ろした。しかし背後から宗右衛門の声が重々しく響く。


「宮一郎、沙羅を捕縛せよ。また九尾に操られでもしたらかなわん」


「しかし」


「これは私からの命令だ」


「……はい」


 沙羅は振り返った。苦々しげな顔をした宮一郎が近づいてくる。


「姫様、すまない」


 縄で手首をくくられ、沙羅はおとなしく宮一郎に付き従った。途中、九尾の消えた森を見やる。


 抵抗する気はなかった。事情を知らない父たちが見たら、自分の先ほどの行動が正気の沙汰とは思えないことくらいの想像はついていた。ただ今は、森の中へ姿を消した九尾の妖狐のことが気がかりだった。


 もう青い炎は下火になっていて、森にはいつもの夜の静寂さが訪れようとしている。靄のかかった月は淡く夜空を照らしながら、何事もなかったかのようにそこに浮かんでいた。



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