第13話 罪

 その後、沙羅は朝まで自室に監禁された。


 自室で朝を迎えるまで、沙羅は眠れなかった。あの後、宮一郎から聞かされた話を、一晩中頭の中で何度も反復しては考えた。


 沙羅自身は全く記憶にないが、宮一郎の話によれば、昨夜自分は夢遊病のようにふらふらと祭壇まで歩いて行き、鎮めの玉の御統を破壊したのち、どうやったのか九尾の妖狐を復活させてしまったらしい。その後、沙羅は九尾の妖狐に体を乗っ取られて、騒動を巻き起こした。


 沙羅は昨夜見た夢のことを思い出す。考えてみれば、母の声に語りかけられてからあの火の海で九尾の妖狐に出会うまでの記憶が、すっぽりと抜け落ちている。宮一郎の語った出来事は、きっとその間に起きた出来事なのだろう。夢で聞いた母の声は、きっと母のものではなく、九尾の妖狐が聞かせた幻聴だったのだろうと、今では思う。


 そしてそれ以上に沙羅の心を苛んだのは、自分のせいで死人が出たことだった。自分が心を強く保っていなかったから、九尾の妖狐に魅入られ、惑わされ、復活の手引きをしてしまい、九尾が外で暴れるための器をも貸し与えてしまった。いつの間にか、手のひらにまで到達していた黒い痣を見つめながら、沙羅は震えた。いくら自分の意思ではなかったとはいえ、この手で大勢の人を焼き殺したのだ。自分は人殺しだ。自然と口から嗚咽が漏れる。なんと取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。これまでの守り巫女たちへ、多津瀬の人々へ、そして、昨夜死んでしまった者たちやその父母へ向ける顔がない。彼らからいくら怨嗟の声を浴びせられようと、それは当然の報いなのだ。


 涙を流しながら、沙羅は暗がりの中再び痣を見つめる。それはまるで、罪人に与えられる焼印のようだった。



 眠れぬ夜が明け、朝が来ると、沙羅は宮一郎と明彦に連れられて、いつも朝餉を食べる広間へ通された。中に入ると、上座の中央に父の宗右衛門が、その左隣に千代の方、そして驚いたことに、父の右隣には先代の守り巫女である大叔母の姿があった。


 彼らの前に座らされた沙羅は、父の悲しげな顔、継母の哀れんだ顔、大叔母の険しい顔のどれをも直視することもできず、ただうなだれることしかできなかった。


「……沙羅」


 しばしの沈黙を挟んだのち、父に名を呼ばれ、沙羅はやっと顔を上げて父の顔を仰ぎ見る。父はまだ四十代のはずだが、こちらを見据えてくるその顔は、本来の歳の倍は老け込んで見えた。父の目の下には隈が見え、沙羅同様眠れぬ夜を過ごしたことがわかる。


 父は、沙羅の名を呼んだきりしばらく逡巡しているようだったが、決意を固めたのか、おもむろに唇を開いた。


「……わかっているとは思うが、お前は罪を犯した。九尾に惑わされ、……その封印を解き放った挙句、体の支配権をも九尾に奪われ……大勢の人間を殺した」


 一言一言を、ひどく言いづらそうに、途切れがちになりながら父は言葉を続ける。


「そしてお前は、九尾をかばい、逃がした。領民の安寧の実現を図る領主の娘としても、守り巫女としても、決して……あってはならない行いをしたのだ。大罪を犯したと言っても過言では、ない。さらに今や、昨夜の出来事を受け、領民の多くがお前に恐れと疑惑の目を向けている。守り巫女が乱心し、九尾の復活を手引きし再びこの世に災いをもたらしたのだと」


 父の苦しげな言葉を引き継ぐように、今度は大叔母が口を開く。


「いいかい、沙羅。守り巫女の「守り」とは、封印石から出ようとする九尾から、里を、この国を守るという意味があるんだ。守り巫女はこの責務を全うしなければならない。事実、歴代の守り巫女たちは、何百年にもわたって粛々とこの責務を果たしてきた。嫁ぐことも子を産むこともなく、九尾に付け込まれないように強靭な精神を保ち、そして老いて力がなくなるその日まで、封印石に向かい鎮めの呪を唱え続けてきた。もし、」


 にわかに、大叔母の声が大きく太くなる。沙羅は思わず身を縮ませた。


「これが叶わず、自分の代で九尾を外に出してしまうようなことがあれば、守り巫女は死をもってこれを償わねばならない。そういうことに、なっておる」


 鼓膜を震わす大音声に、沙羅は唇をきつく噛み締め、場の空気は凍りついた。

部屋の後方で控えていた宮一郎と明彦の、どちらとも知れぬ息を飲む声が聞こえてくる。


 その時、大叔母が自身の懐へ手を入れ、黒い懐剣を取り出した。かと思うと、それを鞘から抜きはなち、持病の腰の痛みを物ともせずに、沙羅へ押し迫る。沙羅が斬られると思ったのだろう。千代の方が悲鳴をあげて「おやめくださいっ」と泣くように叫ぶ。しかし、抜き身の懐剣はうなだれる沙羅の前へ置かれただけだった。


「大叔母様……」


 沙羅は、目前に置かれた懐剣を悄然と見遣る。


「今ここで喉を突いて死ね」


 痛烈極まりない言葉に、また千代の方が悲鳴をあげ、宗右衛門の肩へすがりついた。宗右衛門は黙したまま、動こうとはしない。先代の守り巫女である大叔母へ、全てを委ねる心算なのだろう。


 沙羅は、黒い光沢を放つ懐剣の柄へ、震える指先を伸ばした。ひたと両手で握りしめて、鋭利な刀身を見つめる。刀身には、真っ青な顔をした自分の顔が映っている。


「このこと、お主が知らなんだのも無理はない。本来伝えるべき守り巫女の継承の儀の際に、教えなかったからの。当時幼子であったお主に言い聞かせるには、あまりに酷に思えてな。じゃが、やはりあの時伝えておくべきだったか……」


大叔母はため息を吐き、言葉を続ける。


「だがもし、私がお前の立場ならば、九尾に取り憑かれ人を殺したとわかった時点で、人に言われずとも昨夜のうちに喉を突いて死んでいたであろう」


 まるで、なぜそうしなかったのかと言外に攻めているような物言いに、沙羅の懐剣を握りしめる手はますます震え、春だというのに体の芯が凍ったような寒さを覚え始める。刀身の切っ先。あと少ししたら、これが自分を貫き殺すのだろうか。


「もし今、それがここで出来ぬのならば、今すぐ最小限の荷物をまとめて一人多津瀬を去れ。九尾を再度封印するか殺すまで、二度とこの地に足を踏み入れてはならぬ」


 刀の切っ先から目線を外し、沙羅は目前の大叔母の顔を見つめた。死ねと言った時と全く変わらぬ厳しい表情で、大叔母は沙羅をまっすぐに見返す。


「選ぶが良い。ここで自死するか、この地を去るか」


 沙羅は、もう一度刀の切っ先を見つめた。それから、九尾の妖狐のことを考えた。沙羅の知る九尾の妖狐は、人を傷つけることを恐れ、泣いていた。そうして、他の誰でもない沙羅に助けを求めてきた。そんな彼を、再度封印、まして殺すことなど、たとえその気になれば出来たとしても、きっと自分はできない。それができないということは、この生まれ育った大好きな多津瀬領に、二度とは帰れぬということだ。だが生きることはできる。これまでのような安寧な暮らしは望めず、庇護もなく、野生の獣や野武士に怯え、喉の渇きと飢えに怯え、暑さに朦朧とし寒さに震えながら。


「どちらを選ぶ。今ここで決めよ」


 大叔母の低い声が、沙羅へ決断を促す。死をもって償うか。生きて償うか。どちらか一つだ。沙羅は、目に涙を溜めながら、だが、決してそれを流さぬよう歯を食いしばりながら、震える手で懐剣を持ち上げ、その切っ先を自身の喉へ突き立てた。少し力を込めただけで、チリチリと痛みが走り、薄く割かれた傷口から赤い血がツーっと刀身を伝う。


「姫様っ」 


 堪えきれなくなったのか、背後の宮一郎がダンっと床を叩いて立ち上がる音が聞こえる。それとほぼ同時に、沙羅は嗚咽を零しながら懐剣を取り落とした。あまりの恐怖に、体が言うことを聞かなくなったのだ。そのまま崩折れ、沙羅は床へ頭を擦り付けた。


「できません。私には、できませんっ。死ぬのが……怖い」


 とめどなく涙がこぼれ、板敷きの床を濡らし続ける。それを拭いもせず、沙羅は言葉を続ける。


「死をもって償うことは、私にはできません。私は、私は、ここを、多津瀬を、出て行きます。もう二度と、この地に足を踏み入れません。もう、二度とっ」


 ひどく情けない気持ちだった。館の書庫に眠る、幼い頃から慣れ親しんでいた絵物語を思い出す。中には、潔く自害した者の話が美談として語られている話もあった。自分も潔くそれができたらどんなに良かったろう。


 頭を垂れて泣き続ける沙羅を、大叔母は静かに見下ろす。


「ならば、今すぐ荷物をまとめ出て行け。共や馬を連れて行くことは許さぬ」

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