第11話 魂鎮め

 気がつくと、沙羅は火の海の中にいた。


 沙羅の周囲を囲い、燃え盛る炎の色は青。炎は絶えず燃え続けながら、霞んだ青光を発する。


 沙羅は自分の足元を見下ろした。足の下には何もない。黒い色をした地面が広がっているだけ。黒と青。今沙羅のいる世界を彩る色はたったそれだけ。


 ふと前を見ると、炎の中に人影が見えた。自分以外にもここに誰かいるのかと、沙羅はそこら中に立ち上る炎を避けながら人影に向かって歩き出す。火の海に囲まれているというのに、不思議と恐怖心は芽生えなかった。


 近づくと、人影の姿がはっきり見えてきた。女のように長く伸ばした亜麻色の髪を垂らしてうずくまっているのは、一人の男だ。時折聞こえてくる嗚咽からして、どうも泣いているようだ。顔はよく見えないが、髪の隙間や着物の襟元や袖口から見えるすべすべした肌を見れば、まだ若い男だということがわかる。


 男は、両手で自分の顔を覆っていた。覆った手元からおびただしい量の血が流れているのを見て、沙羅はギョッとした。怪我をしているのではと思い、男の元へ駆け寄り声をかけた。


「大丈夫ですか」


 沙羅の声に、男はびくりと肩を震わせる。顔から手を離し、沙羅の顔を見上げた。沙羅はあらわになった男の顔を見て息を呑んだ。男の顔が思いの外端正に整っていたからではない。彼の目から、涙の代わりに血が流れ落ちていたからである。赤い血は男の頬を濡らし、顎先から滴りおちる。


 沙羅はとっさに身につけていた衣の袖を引き裂いて、「これで拭いてください」と男の下がった手にねじ込んだ。だが、半ば無理矢理渡された衣の欠片は男の手から音もなく滑り落ちる。


「あ、あの」


 沙羅の声は、男の嗚咽でかき消された。男はまた顔を覆い、血の涙をとめどなく流しながら泣き続ける。泣き声とともに、沙羅の耳には別の声も届いてきていた。


「憎い、憎い」と、おぞましさを感じさせるほど黒く染まった深い深い怨嗟の声。声は、もともと一つだった声が二つに割れたような調子で沙羅の耳に流れ込んでくる。このまま聞き続けていたら気が狂いそうだ。しかし、その声は耳を覆っても聞こえてきた。


 この声は一体誰に向けられたものなのか。沙羅はうずくまる男を見やる。

 耳から手を離し、怨嗟の声にできるだけ耳を傾けないようにしながら、沙羅はしゃがみこんで男の目線に合わせた。


「あなたは誰を憎んでいるの?」


 泣いてばかりだった男が、また沙羅の声に反応して肩をびくりと揺らしてから顔を上げた。


「わからない」


 深く絶望した色を目に浮かべ、男は幼子のように首を振る。


 沙羅は先ほどちぎった衣の欠片を拾って、男の頬を濡らす血の涙を拭ってやった。


「わからないの?」


「わからない。わからないから苦しい。……助けて」


「……助けて、あげたいけれど。何からどう助けてあげればいいのかわからないわ」


 沙羅が残念そうに言うと、男は頭を両手で押さえた。


「俺の身体を、心を、延々と焼き焦がし続けるこの炎から助けてほしい。熱い。憎い。妬ましい。殺したい……。俺は何に向かってこんな気持ちを抱いているのかもわからない。わけもわからぬ感情に突き動かされて、暴れるのは、殺し続けるのは、もう嫌だ。お願いだから、救ってくれ」


 沙羅は周囲を燃やし続ける火の海へ目をやった。


「この炎を消せばいいの?」


 こくりと、男は無言で首を縦にふる。


「でも、どうやって……」


 ここには水もないし、そもそもあの炎は水で消えるものなのかと、沙羅は戸惑った。彼を苦しませているという炎を消してやりたい気持ちは山々だが手段がわからない。そもそもここはどこなのか。夢なのか。現実なのか。目の前のこの男は誰なのか。わからないことだらけだ。


「いつも……しているだろう。あれで」


「え?」


「魂鎮め……を」


 男の口からかすかに溢れた言葉。それを耳で拾い、沙羅は「無理よ」と怯えたように首を振った。


「鎮めの玉の御統もないのにどうやって。それに、私の体ではもう——」


「できるよ。君なら」


 弱々しい声で男が言う。


「君なら、俺を、救える……かも、しれない」


「私が、あなたを……?」


 沙羅は頭を抱え込んで幼子のようにうずくまる男を見つめた。それから火の海の方へ顔を向け、立ち上がった。一歩足を前に出して、腰を下ろし正座する。


 何かを決意したような強い意志をその瞳に称え、沙羅は両手を組んだ。目を閉じて、霊力が握りしめた手へ流れ込むように集中する。消えろ、消えろ、と炎へ向かって心の中で声を投げかける。


 目を閉じているのでよくわからないが、何か暖かな光に包まれたような感覚がして、沙羅は何だろうと思った。清らかな光のようなものが、自分の体を取り囲んでいるような。


 突如、瞼の裏に見たこともない景色が広がった。


 パッと白い花弁が散ったかと思うと、白い名もなき花々が咲き乱れて当たり一面を花畑に変えてゆく。燃え上がっていた炎は花が咲くたびにその勢いを弱め、やがては消えてゆく。


 沙羅が目を開けると、その光景は現実のものであることに気がついた。


 いつの間にか二人の周囲で燃え広がっていた青い火の海は消え、美しい白い花で黒い地面は覆われている。花の花弁一枚一枚がほんのり淡い光を放ち、暗く閉ざされていた空間を優しく照らし出す。


 沙羅がその光景に目を奪われていると、背後で衣擦れの音が聞こえてきた。振り返ると、さっきまでうずくまっていた男が立ち上がっていた。もう血の涙は流していない。怨嗟の声は聞こえてこない。


 男は沙羅の目を見つめると、柔らかな微笑みを浮かべた。

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